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ジャンムー・カシュミール藩王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャンムー・カシュミール藩王国
कश्मीर और जम्मू रियासत
シク王国 1846年 - 1947年 インド連邦 (ドミニオン)
パキスタン (ドミニオン)
ジャンムー・カシュミール藩王国の国旗 ジャンムー・カシュミール藩王国の国章
(国旗) (国章)
ジャンムー・カシュミール藩王国の位置
カシミールの地図:緑はパキスタン、オレンジはインドの支配地域
赤線の枠内はジャンムー・カシミール藩王国の支配地域
公用語 ヒンディー語
首都 ジャンムーシュリーナガル
マハーラージャ
1846年 - 1856年 グラーブ・シング
1925年 - 1947年ハリ・シング
変遷
成立 1846年
インドへの帰属英語版1947年10月26日
通貨ルピー

ジャンムー・カシュミール藩王国(ジャンムー・カシュミールはんおうこく、英語:Princely state of Jammu and Kashmir)は、北西インドカシュミール地方(現ジャンムー・カシミール連邦直轄領及びラダック連邦直轄領アーザード・カシュミール)に存在した、イギリスによって創設されたヒンドゥー藩王国1846年 - 1947年)。首都はジャンムーシュリーナガル

歴史

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グラーブ・シング

1846年ジャンムーの領主であるラージプートグラーブ・シングは、第一次シク戦争でイギリスに味方し、講和に尽力した[1]。グラーブ・シングは第一次シク戦争の講和条約ラホール条約締結後、アムリトサル条約を締結し、イギリスよりシク王国から割譲されたカシュミールを与えられ、ジャンムー・カシュミール藩王国が成立した[2][1] [3]

1947年8月15日インド・パキスタン分離独立によって、それぞれ藩王国はいずれかの側に帰属することを迫られていた[4]

しかし、カシュミール藩王ハリ・シングは自身がヒンドゥー教徒、対して住民の80%はイスラム教徒という微妙な立場にあり、帰属を先延ばしにしていた。

インドへの帰属を表明するハリ・シング

だが、パキスタンが武力介入してきたことで、同年10月26日にカシュミール藩王はインドへの帰属を表明した[5]。同時にインド政府に派兵を求めた[6]

これが第一次印パ戦争印パ戦争)の発端で、以後、第二次印パ戦争第三次印パ戦争カールギル紛争まで争っている。今現在もこの藩王国の領土はインド・パキスタンの係争地である[1]


歴代君主

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脚注

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  1. ^ a b c 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.285
  2. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.81
  3. ^ Panikkar, K. M. (1930). Gulab Singh. London: Martin Hopkinson Ltd. p. 112. https://archive.org/details/gulabsingh179218031570mbp 
  4. ^ Revised Statute from The UK Statute Law Database: Indian Independence Act 1947 (c.30) at opsi.gov.uk
  5. ^ Kashmir 4
  6. ^ Victoria Schofield. Kashmir in conflict: India, Pakistan and the unending war.

参考文献

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  • 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。 
  • ビパン・チャンドラ 著、栗原利江 訳『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。 

関連項目

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