ノート:労働価値説
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スミスの労働価値説の部分の説明の不正確さに関して
[編集]“ただしスミスの見解には二つの観点が混在していた。一方で彼は「あらゆる物の真の価格、すなわち、どんな物でも人がそれを獲得しようとするにあたって本当に費やすものは、それを獲得するための労苦と骨折りである」[4]とし、商品の生産に投下された労働によって価値を規定した。これは投下労働価値説と呼ばれる。しかし他方において、商品の価値は「その商品でかれが購買または支配できる他人の労働の量に等しい」[5]と、支配労働価値説と呼ばれる観点をも示した。”
2つの観点が混在しているとは思えない。もしも最初の文章が「それを獲得するための」ではなく「それを生産するための」だったら確かにマルクス的な思想になって次の文章と矛盾する観点になる。しかし「獲得するための」というのは「商品が支配できる他人の労働の量に等しい」という文章と全く矛盾しない。
この部分の不明瞭さを正確に説明あるいは書き変えていただきたく思い投稿しました。
- こんにちは。スミスの労働価値説は「投下労働価値説」と「支配労働価値説」が混在しており、リカードはそこから投下労働価値説のみを重視した、との説明は基本テキスト(教科書)的な説明なのでWikipediaの記述だけを元にして考察した結果として、へたに解釈してしまわないようお願いいたします。元の投稿者の方も、おそらくなんらかの経済学の教科書を参照しながら投稿されたのだと思います(参照元の開示が無い・・・)。たとえば島根大学/野田哲夫/経済学概論[1]。尤も、より深い議論提起でしたら、いずれにしましても、引用元文献を明示のうえ投稿・編集作業に参加頂ければ結構かと存じます。宜しくお願い申し上げます。--大和屋敷 2010年5月4日 (火) 17:50 (UTC)
- 指摘された部分の大半を書いた者です。大和屋敷さんが指摘してくれている通り、スミスには投下労働価値説と支配労働価値説が混在している、というのは教科書的な通説にすぎません。通説の源流をたどるとリカードの『経済学の原理と課税』になります。リカードのスミス解釈は間違いだ、という見解も当然あると思いますが、それならば労働価値説の発展をどのように記述したらよいのか、ぜひ案を示してください。--Kazhik 2010年5月5日 (水) 10:52 (UTC)
とても丁寧な回答ありがとうございます。「あらゆる物の真の価格、すなわち、どんな物でも人がそれを獲得しようとするにあたって本当に費やすものは、それを獲得するための労苦と骨折りである」というくだりがどうも投下労働価値説に聞こえないので疑問を抱いていました。特に学術的な議論提起という訳ではなく、「獲得するため」というより「生産するため」の方が投下労働価値説的な表現でwikipedia記事としては分かりやすいかと思った限りです。「獲得」というフレーズに支配労働価値説の響きが感じられるので。 『経済学の原理と課税』を読ませていただきたいと思います。 ありがとうございました。
外部リンク修正
[編集]編集者の皆さんこんにちは、
「労働価値説」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。
編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。
ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月27日 (水) 06:44 (UTC)
「マルクスの剰余価値説」の記を復活させました
[編集]「マルクスの剰余価値説」の節にあった以前の記述を復活させました。Mokeさんによる2015年7月9日 (木) 10:02の修正 で削除されたものです。削除された記述に代わって剰余価値説へのリンクが追加されたのですが、リンク先に行っても削除された記述が見当たらないためです。
また、同じ修正によって追加された、イブン・ハルドゥーンが労働価値説の始まりであるかのような記述を削除しました。私の知るかぎり、そのような説は通説ではありません。--Kazhik(会話) 2018年4月11日 (水) 03:19 (UTC)
- 「私の知る限り」なる無責任な理由で信頼できる情報源からの加筆を無断で削除しないでください。加筆箇所だけ残して削除された箇所を復帰してもよかったのですが編集合戦を回避するため一旦すべてもどしますのでこのような乱暴な削除を行わないようご注意のうえ、改めて投稿ください。とくに情報源ある記事については出典が明記されているのですからご自身で情報源を確認してから再度編集してください。そのさい「出典は確認したがそのような記述はなかった」「出典として挙げられている筆者は信頼できる筆者ではない」等の指摘は適切なものですので、そのさいは改めてノートで編集提起してください。--大和屋敷(会話) 2018年4月11日 (水) 06:39 (UTC)
- 出典として挙げられているのは加藤博『イスラーム経済論』という本です。明らかに労働価値説または経済学史に関する書籍ではありません。つまりWikipedia:信頼できる情報源ではないということです。私の手元には経済学史の教科書が5,6冊ありますが、イブン・ハルドゥーンに言及しているものは一つもありません。あらゆる教科書を調べれば一つぐらいは言及しているかもしれませんが、それが通説でないことは明白です。--Kazhik(会話) 2018年4月11日 (水) 07:59 (UTC)
- 加藤博氏は一橋大学経済学博士だそうです。Kazhik氏の編集御意見には賛同できかねます。--大和屋敷(会話) 2018年4月11日 (水) 11:31 (UTC)おそらく小項目タイトルの「労働価値説の萌芽」に拘られているのだとおもいますが、wikipediaは多くの加筆者により執筆される百科事典であり、過渡的にこのような状態になっているというのが正しい理解です。もしかすればイブン・ハルドゥーンより昔に労働価値説についての言及をおこなっていた学者や政治家が居る(居た)という信頼できる文献からの記述が加筆される可能性もあります。ただ我々wikipedia編集者の個々はその信頼できる書籍・論文の存在をいまのところ加筆できていないだけ、ということでありますので、「イブン・ハルドゥーンがもっとも古い労働価値説の論者である」と判明したわけでもありませんし、そのように読める体裁で執筆されているとすればその点については問題があり、編集検討の対象になります。--大和屋敷(会話) 2018年4月11日 (水) 11:41 (UTC)
- 経済学博士だから経済学史の専門家だとは言えません。Wikipedia:信頼できる情報源をよく読んでください。ウィリアム・ペティに労働価値説の萌芽が見られる、というのはマルクスの説であり、たいていの教科書はそれに従っています。大和屋敷さんの手元に経済学史の教科書があるなら是非チェックしてみてください。--Kazhik(会話) 2018年4月11日 (水) 14:02 (UTC)
- 百科事典なのですからあなたのお手持ちの蔵書に書かれていないことが(信頼できる情報源から)加筆されれば喜ぶべきでしょう。このような削除はいけませぬ。もっと古いところから探していただくなり、加藤博氏に対する反駁を信頼できる情報源で公表してください。--大和屋敷(会話) 2018年4月11日 (水) 18:54 (UTC)
- 回答になってません。論点は二つです。(1) 加藤博『イスラーム経済論』は本件に関するWikipedia:信頼できる情報源と言えるか。(2) 経済学史の教科書はイブン・ハルドゥーンを労働価値説の端緒として位置づけているか。--Kazhik(会話) 2018年4月11日 (水) 20:46 (UTC)
- ①加藤博『イスラム経済論』は信頼できる情報源である。②wikipedia記事はイブン・ハルドゥーンが労働価値説の端緒であると読めるようには執筆されておらずそのように読むことは不適切である。--大和屋敷(会話) 2018年4月12日 (木) 02:06 (UTC)
- 主張は書けるがその根拠は示せない、と理解していいですか。--Kazhik(会話) 2018年4月12日 (木) 14:46 (UTC)
- 横からお邪魔します。労働価値説について詳しいわけではないですが、出典の取り扱いについて思う所があるのでコメントさせていただきます。
- 出典の取り扱いについて:上の議論にある、出典のある記述は除去してはならないという意見は疑問を感じます。複数の権威ある出典を確認した上で、既にある記述に問題があると判断できればそれは削除すべきであると考えます。情報源そのものを確認しない限り記述を除去できないというのでは、記事編集のコストがむやみに高くなりすぎます
- イブン・ハルドゥーンの記述除去について言えば、①経済学史をテーマにした複数の教科書(または書籍)にWikipediaの記述と整合的な内容が載っていない。②Wikipediaの既存記事が経済学分野の書籍ではないものを出典としている。という2つが検証されており、記述の除去は合理的であると思います。既存記事の出典となっている『イスラム経済論』の著者加藤博氏は著名な中東研究者であり優れた研究者ではありますが、加藤氏の専門は「中東の社会経済史」と言う特定の地域に密着した経済研究であって、労働価値説のような普遍的な経済原則を追求するような経済学や経済学史ではないです。加藤氏の別の著作を読んだことがありますが、経済学や経済学史の専門家とするのは(関係の深い分野を扱い、深い知識を持っているにしても)少々飛躍していると言えると思います。仮に経済学史の専門家だと言えるとしても、出版した書籍が経済学史の本であるかは別の話です。目次から確認する限り『イスラム経済論』はあくまでイスラーム世界の経済の解説を試みた本であり、総論的な経済学/経済学史の本ではないことは明らかです。よって本記事について言えばWikipedia:信頼できる情報源としては経済学の教科書より優先度が下がると思います。
- イブン・ハルドゥーンと労働価値説について:イブン・ハルドゥーンの記述が労働価値説を先取りしているということはよく言われるようですが、Web上で見つけられる解説や、Ciniiで見つかる論文などから判断する限り通常労働価値説とはアダム・スミスやマルクスらが発達させた学説を指すはずで、イブン・ハルドゥーンのそれは学説史的に繋がらない孤立したエピソードに過ぎないように思われます。「労働価値説の萌芽」というタイトルの節の中でこれを詳述するのであれば、イブン・ハルドゥーンの言説と、アダム・スミスやマルクスの言説の中に何らかの関係があることを示す出典が必要になると思います。現状の記述では、イブン・ハルドゥーンの言説から労働価値説が発達していたように読めるようになっており、内容の正確性においてもこの記述を除去すべきであるというKazhikさんの見解は正しいと考えます(私としては記述があってもいいと思いますが、余談・関連する話題として触れる方が誤解が無いと思います)。
- その他:「古代/中世の□□は近現代の〇〇説を先取りしている」と言う挿話を入れる学者は結構多いです。ですが、「先取りしている」ことと「学説史的に繋がる」ことは話が別であり、「もしかすればイブン・ハルドゥーンより昔に労働価値説についての言及をおこなっていた学者や政治家が居る(居た)という信頼できる文献からの記述が加筆される可能性」は原則として存在しないと考えます。なぜならイブン・ハルドゥーンの時代には労働価値説という概念が存在していないからです。コトバンクからの引用になりますが、労働価値説は「労働を富の父であるとした W.ペティに始り,A.スミス,D.リカードらにより発展させられ,K.マルクスによってそれまでの理論的欠陥が克服されて完成をみた。」ものであり、ウィリアム・ペティより前の「労働価値説のような」言説は学説史としてペティ以降のものに接続できるような出典が無い限り「よく似た物」でしかないと思われるからです。--TEN(会話) 2018年4月18日 (水) 15:27 (UTC)
- 『複数の権威ある出典を確認した上で、既にある記述に問題があると判断できればそれは削除すべきであると考えます』を誰が判断するかという問題が深刻なのです。この指摘を外部の信頼できる情報源で公表して頂ければそれは参照するにあたいしますが、どこの誰ともしれない名無しのwikipedianが主張して削除することはwikipediaの編集方針に著しく抵触するというのが本旨です。この編集方針を採用すれば「オレは見たこと無いのだからこんなおかしな記述を採録するな」が無限定に通用してしまいます。またこの手の削除提案は名無しのwikipedianが多数決をもって検討してよい種類のものではありません。むしろ百科事典の本来の趣旨としては《おれが今まで一度もみたことのない》ような記述が信頼できる情報源から加筆されることこそが百科事典というプロジェクトの本来の目的に適うものであります。いずれにせよイブンハルドゥーンについてはwikipediaで議論するのではなく、外部の信頼できる媒体で議論して頂きたいのです。wikipedia読者は大和屋敷やKazhik氏、TEN氏といった匿名の「どこの誰とも知れない」wikipedia編集者よりも加藤博博士を信用するのは明らかですし、wikipedianが加藤博博士の学説に触れる機会を我々wikipedianがジャマするのは百科事典編纂の本来の目的に反する行為、というわけです。--大和屋敷(会話) 2018年4月19日 (木) 05:16 (UTC)
- 加藤博『イスラーム経済論』は労働価値説の歴史に関して信頼できる情報源ではない、と指摘する文献が必要なのですか。そんなルールがWikipediaに存在するとは思ってもみませんでした。どこにそんなルールがあるのか、ぜひ教えてください。それと、なぜ加藤博『イスラーム経済論』が信頼できる情報源だと思うのか、という質問にもそろそろ答えてください。無名のウィキペディアンより有名な人の著作だから、では答えになっていません。--Kazhik(会話) 2018年4月19日 (木) 11:38 (UTC)
- 返信ありがとうございます。複数の点で誤解があるように感じます。私が言いたいのは加藤博とWikipedianのどちらの方が信用度が高いかというようなことではないですし、多数決で決めるという話でもありません。
- 大前提として「労働価値説」という記事は経済学、または経済学史の記事であろうと思います。それに対して加藤博氏は上にも述べた通り中東社会経済史の専門家であり、経済学や経済学史の専門家ではありません。このことは加藤博氏の論文が例えば「カイロの同郷組合:エジプトにおける都市・農村関係 」や、「エジプトの村は「共同体」か? (特集 アジア・中東における「伝統」・環境・公共性)」と言うテーマであることや、Wikipediaでも確認できる彼の著作リストからも明らかです(特にエジプトを専門としていることもわかります)。故に労働価値説の萌芽部分の出典としてその著作を持ってくるのは一般論として適切ではありません
- ついでに言えば、本記事の加藤氏の著作から作られた文章は「イブン・ハルドゥーンの思想は、アダム・スミスの分業論や労働価値説との類似点を指摘される。」となっており、この部分の執筆者の方が正確に出典元の記載に従っていると仮定するならば、加藤氏はそもそも「労働価値説の萌芽」をテーマとしてイブン・ハルドゥーンに言及しているのではなく、「労働価値説を先取りした考えを持ったイブン・ハルドゥーンの先駆性」について言及しているであろうことは出典が『イスラム経済論』という書籍であることからほぼ間違いありません。はっきり言えばイブン・ハルドゥーンに労働価値説の萌芽が見られるとする「学説」を上記書籍で加藤氏が主張しているということはないと思います。
- 専門分野の複数の教科書においてイブン・ハルドゥーンが言及されていないというKazhikさんの確認結果は、労働価値説の発展についての記述において加藤氏の出典の用い方が不適切であるということを証明するものであります。専門分野の概説書や教科書で「触れられていない」ということはそれ自体重要です。大和屋敷さんの表現に合わせるならば、通説として経済学の教科書に乗せないと言う専門家の判断は、ある説を通説と並べて表記すべきであるというWikipedianの判断よりも重きをなすはずです。
- 適切ではない用い方をされている出典からの記述を、他の出典の内容と整合的でないことをもって削除できないとすれば、その記述は問題があることが明らかであるにもかかわらず永久に削除できません。上記の通り加藤氏は普遍的な経済学や経済学史を専門としてはおらず、労働価値説を研究する経済学者がその主張に反論する意図をもって何かを発表することはほとんど期待できないからです。学術分野や学説的な位置づけを考慮せず、そう書いてある本があるからと言う理由で一般的でない書き方がむやみに増大することは誤解を広めるのみであり、百科事典というプロジェクトの目的に沿うとは全く思えません。
- ですので、イブン・ハルドゥーン関連の記述を「§労働価値説の萌芽」から除去するのは、合理的かつ正当であると考えます。この記事で加藤氏の著作を出典として記述するとすれば、それは余談・関連する話題についての出典として用いる場合に初めて有効に機能すると思います。--TEN(会話) 2018年4月19日 (木) 16:17 (UTC)
- 信頼できる情報源からの適切な引用を他の外部の信頼できる情報源によらずに削除することは不適切だと説明しているのですが、なぜそのようなご理解になるのでしょうか。利用者‐会話:TEN氏に対話いたしますが、加藤博氏の該当書籍は①信頼できない情報源なのですか?②仮に信頼できる情報源だとして不適切な引用でしょうか?お答えください。--大和屋敷(会話) 2018年4月19日 (木) 20:56 (UTC)
- すでに十分説明されていることを質問しないでください。TENさんの説明をちゃんと読んでください。--Kazhik(会話) 2018年4月20日 (金) 11:12 (UTC)
- kazhikさんが言って下さっているように、基本的にご質問の答えに相当するものは既に述べたつもりです。ほぼ繰り返しにはなりますが、回答します。一応結論だけ最初に書きます。
- ①加藤氏の書籍は信頼できない情報源か?:§労働価値説の萌芽と題する節における出典としては、経済学史の教科書に載っていないことがより重要である。つまり、その教科書を無視して記載するための出典としては信頼できない情報源である。
- ②仮に信頼できる情報源だとして不適切な引用でしょうか?:§労働価値説の萌芽と題する節における引用としては不適切である。
- 以下、長くなりますが詳細です。
- ①について:加藤氏の具体的な研究成果はWeb上で多数参照可能ですので是非ご覧ください。「私的土地所有権とエジプト社会」(博士論文を元に構成、つまり加藤氏はエジプトの土地所有制と社会に関する研究によって博士として認められています )、「アブー・スィネータ村の醜聞―裁判文書からみたエジプトの村社会」「文明としてのイスラム―多元的社会叙述の試み」などが主要業績として並べられています。加藤博博士が中東の、特にエジプトの社会経済史の研究についての業績によって「経済学博士」と認められたことには議論の余地がありません。
- こうした社会経済史の研究と言うのは、現地の史料を丹念に調査し、具体的に地域社会・経済がいかなる変遷を遂げてきたかを明らかにする学問であり、人類社会における経済活動の普遍的な原則・理論を研究する経済学や、その経済学の発展史を研究する経済学史とは史料の取り扱いも方法論も全く異なる学問です。隣接分野ではありますが、間違いなく別物です。やや強引に例えて言えば加藤氏の著作を経済学/経済学史の記事である本記事の出典として用いるのは、同じ医学を扱っているからと言う理由で、眼科医や歯科医の著作を脳神経外科の記事の出典として用いるのに等しいです。大きい括りでは同じカテゴリーに属することから出典として全く無効とは思いませんが、どれほど業績のある眼科医の著作であっても、脳神経外科の教科書に載っていない記述であるならば、それを除去するのは全く正当です。同様に、加藤氏は優れたエジプト社会経済史、中東社会経済史の研究者ではありますが、その著作の記述を経済学/経済学史の教科書と同列の物として扱うのは正しくありません。その意味で、労働価値説という記事が属する学術分野を無視してただ「加藤博氏の該当書籍は①信頼できない情報源なのですか?」と言う問いを投げかける事自体が適切ではないです。
- ②について:①の話の前提を覆しかねないのですが、『イスラム経済論』からイブン・ハルドゥーンの記述を「§労働価値説の萌芽」という説に持ってきたのは、単純な誤りであり不適切であると思います。先に述べたように、この記述の加筆者の方が正確に出典元に従ってWikipedia記事を加筆していると仮定するならば、加藤氏は「イブン・ハルドゥーンの言説が労働価値説に類似している」ことを述べているのであり、労働価値説がイブン・ハルドゥーンの言説から発達したとは述べていません。しかし、「§労働価値説の萌芽」の冒頭にこの記述があれば、読者としてはイブン・ハルドゥーンの説が発展して労働価値説として結実したようにしか読みようがありません。つまりこの節の出典として加藤博氏の『イスラム経済論』を持ってきたのは単純な誤りであり、加藤氏がイブン・ハルドゥーンの『歴史序説』が労働価値説の萌芽であるというような学説を主張しているわけではないことは間違いありません。つまりそのような学説は存在しません。このことは、複数の教科書で言及されていないというKazhikさんの指摘と整合的であります。
- Wikipediaの方針。個人的にWikipediaの方針の細部を細かく検証して方針を決定するのは好みではないですが、一応述べておきます。出典そのものを参照して記載が無い事を確認するか、それを打ち消す記述に拠らないかぎり記述を除去できないというのが、一体どの方針から来ているのか理解できません。専門の学者の書いた記述でさえ突飛な説と言うのはいくらでもあります。そして、突飛な説であればあるほど、他の学者による具体的な反論は期待できません。「江戸しぐさ」や「グラハム・ハンコック」のように、特殊な状況によらない限りそうした説というのは無視されるだけだからです。つまり、出典に基づき特殊な説が加筆された場合、上記の理屈に従うとすればそれは半永久的に除去できません。大和屋敷さん自身が引用されているWikipedia:信頼できる情報源の記載を是非再度ご確認下さい。権威の詐称に注意してください。高い学位は、その学位の専門分野においてのみ権威を与えます。(中略)彼らが議論している分野において、修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです。もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です。こうした教科書の著者には、その科目について幅広く権威のある知識を持っていることが期待されるからです。一般的に、大学で使われる教科書は頻繁に改訂が行われ、権威を保ち続けようと努めます。とある通りです。加藤博氏は「エジプトの社会経済紙研究」によって「修士以上の学位」を得ており、このことは方針状中東社会経済史以外の分野についての権威が加藤博氏に十分保証されないことを意味します。また、当該分野の教科書は上記方針の通り極めて優先度の高い出典です。このことは正しいと思います。どのような学問でもまずは通説を土台とすべきですし、専門分野の教科書や概説書というのは通説を大前提として述べていることが期待できます。そして論争のある観点についてはその論争の存在自体を教えてくれることが期待できるからです。また、Kazhikさんは記述除去の際、除去したこととその理由をきちんとノートページで報告されており、十分に丁寧な対応をしていると思います。
- 上記のことから、Kazhikさんが教科書に基づいて記述を除去したことは、学術的にもWikipediaの方針的にも完全に正しいと考えます。少なくてもKazhikさんは、複数の経済学史の教科書で言及されていないと言う「外部の信頼できる情報源によって記述を除去している」と思います。弱みがあるとすれば、具体的に確認した教科書がなんであるのかが不明な点ではありますが、これに対する反証にはイブン・ハルドゥーンから労働価値説の説明を始めている教科書を2,3示す事ができれば十分であり、十分検証可能と言えるでしょう。また、具体的に検証をするつもりがあるならば、確認した教科書がなんであるかをKazhikさんに提示してもらえば済むことであります。
- 上に述べた通り、Kazhikさんの削除編集は学術的にもWikipediaの方針的にも合理的なものであり、加藤氏の説を明示的に否定する文章がある出典を見つける事ができなければ除去してはならないというのは間違っていると思います。また、編集を差し戻し止める以上は「なぜ加藤博『イスラム経済論』が信頼できる情報源だと思うのか」と言うKazhikさんの問いかけにはきちんと答えるべきだと思います。少なくても経済学理論に関する研究によって経済学博士と認められた人物でない以上、その地位を持っていることは『イスラム経済論』が本記事の出典として適切であるということの根拠にはなりえないです。--TEN(会話) 2018年4月20日 (金) 15:12 (UTC)
- 余談:分野に関する観点を無視して加藤博氏自体が信頼できるかどうかと言えば、非常に信頼できる学者であるとだけ述べておきます。私が読んだ事ががるのは『ムハンマド・アリー(世界史リブレット 人)』だけですが、近代エジプト史やオスマン帝国史、エジプト社会経済史に興味があるならば入門としては素晴らしい本です。加藤氏がどのようなことを研究しているかを確認するならば是非ご覧ください。ただ、「労働価値説」とは加藤博氏が関係が薄いというだけなのです。--TEN(会話) 2018年4月20日 (金) 15:12 (UTC)
- 私が確認した文献を書いておきます。(1) シュムペーター『経済学史』(岩波文庫)、(2) 内田義彦『経済学史講義』(未来社)、(3) 久留間鮫造・玉野井芳郎『経済学史』(岩波全書)、(4) 玉野井芳郎『経済学の主要遺産』(講談社学術文庫)、(5) 桜井毅・山口重克・侘美光彦・伊藤誠編『経済学I』(有斐閣)、(6) 伊藤誠編『経済学史』(有斐閣)。このうち(4)(5)(6)は、ウィリアム・ペティを労働価値説の萌芽として取り上げています。(1)(2)(3)は、労働価値説の萌芽について何も書いていませんが、経済学の歴史は17世紀イギリスの重商主義または重農主義から始まったと書いていますので、イブン・ハルドゥーンが登場する余地は全くありません。--Kazhik(会話) 2018年4月26日 (木) 21:58 (UTC)
- すでに十分説明されていることを質問しないでください。TENさんの説明をちゃんと読んでください。--Kazhik(会話) 2018年4月20日 (金) 11:12 (UTC)
大和屋敷さんから一週間以上返信がありませんので、本件の論議は終了と見なし、2018年4月11日 (水) 12:17の版を復活させました。また、大和屋敷さんについてWikipedia:コメント依頼/大和屋敷_20180428を提出しました。--Kazhik(会話) 2018年4月27日 (金) 23:56 (UTC)
- 先だってご提示しているように①加藤博『イスラム経済論』は信頼できる情報源である。②wikipedia記事はイブン・ハルドゥーンが労働価値説の端緒であると読めるようには執筆されておらずそのように読むことは不適切である、と提示しているではありませんか[2]。また③加藤「イスラム経済論」のなかで加藤は『イブン・ハルドゥーンは、文明の交代のメカニズムを科学的に論じた著名な「歴史序説」のなかで、卓越した市場経済論を展開している。それは労働価値説と社会分業論を二つの支柱とし、四世紀後の近代経済学の祖、アダム・スミスの議論を先取りしているのみならず、ある領域においては、それを凌駕さえしている。』(P.30)『イブン・ハルドゥーンにとって、生計を営むための手段は「農業」、「技術」つまり製造業、「商業」の三つであるが、富と所得の源泉は余剰労働力に(あり)、その規模は協業のレベルによって決定され(る。)つまり、この文章での協業を分業と読みかえるならば、ここで展開されているのは、アダム・スミスと同じ、労働価値説であり社会分業論である』(P.157-158)『先に述べたように、イブン・ハルドゥーンの経済思想は労働価値説に基づく。しかし、かれは同時に、労働の質を決定し、付加価値の高い財とサービスを作り出すのは技術であり、それは高い文化と同居すると述べる。そのうえで、文明の程度の差は、「文明の富力の差とか、とくに人口の多寡が問題となる民族の差とかいった無限の差異から生まれる」と指摘している。』(P.166)と、決して些細ではない形で言及しています。よってKazhik氏の削除は不適切です。④なお、もしかすれば誤解があるのかもしれませんが該当節を最初に執筆されたのはMokeさんのこの版[3]であり大和屋敷ではありません。Kazhik氏によれば大和屋敷は《編集対象である古典派経済学、労働価値説に関する基礎知識が欠けている。自ら文献をあたって調査する姿勢もない》との主張のようですが[4]、すくなくとも当記事についてはその批判は不適切なもので考慮する必要はないでしょう。--大和屋敷(会話) 2018年4月28日 (土) 04:03 (UTC)ある信頼できる情報源からの加筆を削除するのに別の信頼できる情報源からの批判が必要であるか[5]との編集方針についての質疑についてはwikipedia:信頼できる情報源に次のようにあります。《編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、できる限りより信頼でき、よりすぐれていると一般に認められているものの中から、出典を幅広く選ぶようにして下さい。信頼できる情報源であるかぎり出典は一つである必要はなく、複数挙げられていることがむしろ好ましいです。・・・権威ある情報源の間での不一致は、それが信頼できる情報源に基づくかぎり許容されます。しかしその不一致については明白な形で記事中で示されるべきです。》すなわち出典を幅広く選んでいるかぎり出典は一つである必要はなく意見の不一致は許容される(すなわちwikipediaに加筆されていてよい)。加藤博氏は一橋大学経済学博士号をお持ちの研究者であり長年同大学で教鞭を取られ名誉教授にまで選出された方であり、これ以上の専門家はいないというべき人物であり、その著書ですくなくない程度に有意に言及されている記述は信頼できるものと推定できます。よって①Kazhikさんがいかような理屈を立てようとも(不適切な引用だという指摘以外には)該当記述を削除することはできません(これは絶対です)②仮にこの記述が学術的に不適切であるとするならばそのように明確に記述した他の信頼できる文献を引用してきて加筆併記するのが適切である。編集方針については以上です。--大和屋敷(会話) 2018年4月28日 (土) 04:18 (UTC)
- コメント 《一橋大学経済学博士号をお持ちの研究者であり長年同大学で教鞭を取られ名誉教授にまで選出された方であり、これ以上の専門家はいないというべき人物》が真であったとしても、加藤さんが『労働価値説』に関する専門家であるか否かは不確定なので大和屋敷さんはその論理展開をなさるのであれば、その点をもう少し詳しく説明すべきかと。
一般論ですが、『○○理論』があった場合に「それって昔にAさんが言っていた理論と似ているね」ということはあるかと思います。しかし、そうだからといってそれが『○○理論』の起源となるのか、『○○理論』を説明するときに触れるべきことなのかというのはまた別の話です。
加藤さんには失礼なことを書きますが、イスラームに詳しい加藤さんが「『労働価値説』って、イスラームの思想家が先取りしていたよね」と気づき発表なさったというだけにすぎないのでは? ウィキペディアは百科事典なので「検証可能性」を満たせば何を書いてもいいわけではないことは大和屋敷もご理解なさっていると考えます。極論ですが、その分野の入門書程度の情報がわかり易くまとまっていればいいのではないでしょうか。仮にそうだとすれば、これは経済学という文脈における百科事典の記事として『労働価値説』に書くべきことでしょうか?
私としては、現状加藤さんしか言及なさっていない事柄については方針「Wikipedia:中立的な観点」を鑑みた上でも、加藤さんとは無関係であると類推される経済学の専門家が言及するまで百科事典の記事には書かない方が良いと判断します。--iwaim(会話) 2018年4月29日 (日) 03:28 (UTC)
- コメント 《一橋大学経済学博士号をお持ちの研究者であり長年同大学で教鞭を取られ名誉教授にまで選出された方であり、これ以上の専門家はいないというべき人物》が真であったとしても、加藤さんが『労働価値説』に関する専門家であるか否かは不確定なので大和屋敷さんはその論理展開をなさるのであれば、その点をもう少し詳しく説明すべきかと。
- ざっと検索したかぎりでは斎藤栄三郎「イスラムの社会思想」(明玄書房1964年、直接はコレ[6])および石丸純一「イブン・ハルドゥーンにおける権力概念」(1993年[7]脚注9)に言及があるくらいですね。平凡社世界大百科事典(第2版)では「すでにギリシアのアリストテレスはそれを問題にしていたが,財の価値の客観的な根拠を求めても得られるものではない,として探求を中途で放棄している。」[8]と記述がありますがこちらは執筆者名は不明。最終的には『編集方針は』過渡的にwikipedianの合議により決定するものですが通説でないから排除すべき(信頼できる情報源であっても)との編集方針はいかにも反知性主義に立つものでしょう。たとえば「加藤によれば」と一文節入れるだけで中立性が保持できるではないですか。--大和屋敷(会話) 2018年4月29日 (日) 11:22 (UTC)なお「『労働価値説』に関する専門家」という語については意味がわかりません。経済学博士の執筆された専門書に「労働価値説」について些細でない形で言及があれば、それは信頼できる筆者による有意な言及といえるのではありませんか?「『労働価値説』に関する専門家」とはどのような語義であるのか、あらかじめご説明頂きたいところです。--大和屋敷(会話) 2018年4月29日 (日) 11:28 (UTC)
- 返信 (大和屋敷さん宛) それを経済学という文脈における百科事典の記事として『労働価値説』に書くべきことであると確信なさっているという理解でよいですか?--iwaim(会話) 2018年4月29日 (日) 11:30 (UTC)
- Wikipedia読者の幅広い興味関心を喚起するために、幅広く信頼できる情報源から適切に執筆されてある、というのが適切な編集方針だと考えます。むろん通説を主軸に執筆してあるのが適切ですが通説以外を排除するのはまさに百科事典が敵とすべき行為でしょう。--大和屋敷(会話) 2018年4月29日 (日) 11:34 (UTC)
- 返信 (大和屋敷さん宛) 《幅広く信頼できる情報源から適切に執筆されてある》の「適切に」の解釈に揺れがあるのでしょうね。ただ《Wikipedia読者の幅広い興味関心を喚起するために》というのは首肯できないです。そんなこと言ったら「江戸時代#文化・芸術・風俗」にも「江戸しぐさ」を書かねばならない。
私としては大和屋敷さんを説得する必要はないと考えているので(百科事典のあり方については)ここではこの辺で。--iwaim(会話) 2018年4月29日 (日) 11:44 (UTC)
- 返信 (大和屋敷さん宛) 《幅広く信頼できる情報源から適切に執筆されてある》の「適切に」の解釈に揺れがあるのでしょうね。ただ《Wikipedia読者の幅広い興味関心を喚起するために》というのは首肯できないです。そんなこと言ったら「江戸時代#文化・芸術・風俗」にも「江戸しぐさ」を書かねばならない。
- Wikipedia読者の幅広い興味関心を喚起するために、幅広く信頼できる情報源から適切に執筆されてある、というのが適切な編集方針だと考えます。むろん通説を主軸に執筆してあるのが適切ですが通説以外を排除するのはまさに百科事典が敵とすべき行為でしょう。--大和屋敷(会話) 2018年4月29日 (日) 11:34 (UTC)
- 返信 (大和屋敷さん宛) 《「『労働価値説』に関する専門家」とはどのような語義であるのか》については、経済学博士といっても多分に漏れず経済学は幅の広い学問であるため、あらゆる「経済学」関連事項を専門的に扱う人っていないんじゃないですかね。これで回答になっていますか?--iwaim(会話) 2018年4月29日 (日) 11:37 (UTC)
- 返信 (大和屋敷さん宛) それを経済学という文脈における百科事典の記事として『労働価値説』に書くべきことであると確信なさっているという理解でよいですか?--iwaim(会話) 2018年4月29日 (日) 11:30 (UTC)
- コメント 加藤氏の経済学博士号位の取り扱いについては以前述べた通り専門分野を無視すべきではないです。それについての私のコメントには返信をいただいてないので繰り返しません。基本的に理論の専門家ではなく学説史における出典としては適さないと思います。
- 『イスラム経済論』について出典元を確認していただきありがとうございます。そして「労働価値説」と言う用語が用いられていることを重要視されているように見えますが、引用していただいた箇所を見る限り加藤氏はイブン・ハルドゥーンを労働価値説の学説史の中で位置付けているのではなく、その思想を労働価値説と言う用語をもって説明しているに過ぎないです。つまり学説史上イブン・ハルドゥーンの延長線上に将来の労働価値説が来ることを想定しているわけではないです。P.30、P.157-158、P.166の部分は、主語がずっと労働価値説ではなくイブン・ハルドゥーンはであることからも分かる通り、イブン・ハルドゥーン(の思想)について説明しているのであって、労働価値説について何らかの論考を加えているわけではありません。故に労働価値説の萌芽がイブン・ハルドゥーンであることを述べていないのは明らかです。この出典を「アダム・スミスの分業論や労働価値説との類似点を指摘される」と引用するのは正しく内容を把握したものだと思います。ただ、「§労働価値説の萌芽」にあるのは適切ではないと思いますし、それはやはりKazhikさんの意見通り経済学の教科書で通常言及されていないという出典に基づき削除されるべきと思います(あるいは適切な配置への是正)。
- iwaimさんの指摘には概ね同意です。ただ揚げ足取りになってしまい恐縮ですが、イブン・ハルドゥーンの言説の中に労働価値説と同様の要素を見る見解は加藤氏の独創ではなく、多分かなり一般的なものです。グーグルで調べる限り、英語圏でも同様の指摘は豊富にあるようですし、イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』を和訳した森本公誠氏がまさに同様の言及をしています(蛇足ですが、その翻訳の訳語に「資本」「余剰価値」等の現代社会科学の用語を充てるのはいかがなものか、と言う指摘がこちらの書評で行われており、イブン・ハルドゥーンの言説を「労働価値説」と言う近現代の用語で理解する場合には同様の注意が必要でしょう)。従って加藤氏はそれに気づいたのではなく(だからこそ加藤氏の「学説」でもなく)、単にイブン・ハルドゥーンに言及する際の一般的な説明に従っただけであると思います。--TEN(会話) 2018年4月29日 (日) 11:41 (UTC)
- 加藤は『イブン・ハルドゥーンは、文明の交代のメカニズムを科学的に論じた著名な「歴史序説」のなかで、卓越した市場経済論を展開している。それは労働価値説と社会分業論を二つの支柱とし、四世紀後の近代経済学の祖、アダム・スミスの議論を先取りしているのみならず、ある領域においては、それを凌駕さえしている。』(P.30)『先に述べたように、イブン・ハルドゥーンの経済思想は労働価値説に基づく』(P.166)とまで記述していますので《その思想を労働価値説と言う用語をもって説明しているに過ぎない》として除去を主張するのは無理があるでしょう。ここは「加藤博によれば14世紀の思想家イブン・ハルドゥーンは『歴史序説』の中において労働価値説と社会分業論を二つの支柱とした経済思想を記述しているとする。」とのみ記述し、Moke氏のこの版[9]の状態を参考に採録させておくべきでしょう(もっともこの版の状態は一次資料をもとにしたmoke氏の独自研究の投稿であり、Moke氏は2015年7月9日(木)01:02版[10]において加藤博を補充することでこの問題点を解消しようと加筆しておりますが、この編集においても(厳格な意味で)情報の合成(独自研究)がおこなわれてしまっており、wikipedia記事の状態として不適切になっています)。Moke氏の最初の版[11]をもとに、加藤博から直接引用する形で再編集すれば情報の合成の問題については解消すると考えます。--大和屋敷(会話) 2018年4月29日 (日) 18:19 (UTC)
- コメント くどいようですが、学者の持つ専門分野を無視すべきではありません。この点について特にコメントをいただけないようで残念です。先取りしていることは学説史上連続していることを意味しませんし、「先に述べたように、イブン・ハルドゥーンの経済思想は労働価値説に基づく」については、「エジプトの社会経済史の専門家」が「イブン・ハルドゥーンについて」説明した文章で労働価値説と言う用語を使用しているからと言って、これを労働価値説の学説史に該当する節の出典に用いるのは単なる誤りであって通説以外の多様な説に触れるということを意味しません。[12]の記載の仕方については「その他の労働価値説」と言う節名を改めれば私としては反対はしません。ですが本記事、そもそも労働価値説自体についての説明も一般的な学説史の説明も甚だ貧弱な状態にあり、それが解決されないまま「関係する話題」の情報が増大していくのは記事の出来として好ましくはないと思います。また、出典がついており外形的な学歴上専門家とみなせれば記事を削除できないというのは単に編集の自由度を狭め、記事が雑多な情報の寄せ集めになるのを助長するだけであり、Wikipediaの方針であるとは理解できません。ただ、これ以上繰り返しても同じことを別の表現で書くだけになるので私からは以上となります。--TEN(会話) 2018年4月29日 (日) 19:05 (UTC)
- どこの誰とも知れないあなたの加藤博氏に対する評価よりも一橋大学により授与された博士号のほうが信頼できると端的に申し上げておいたはずですが。--大和屋敷(会話) 2018年4月29日 (日) 19:07 (UTC)
- 一橋大学が加藤氏に授与した博士号が「エジプトの土地所有制」についての研究を評価してであったことは既に述べましたのでご確認下さい。--TEN(会話) 2018年4月29日 (日) 19:12 (UTC)
- 博士号は学位であり特定の論文の評価を行うものではないでしょう。いずれにせよ加藤博氏とその経済学博士号は信頼できるものであり、その学位のもとで執筆された専門書の記述を否定するのは「外部の信頼できる」媒体での批評によるべきでしょう。我々名無しのwikipedianには手にあまる価値判断です[13]--大和屋敷(会話) 2018年4月29日 (日) 19:29 (UTC)
- 《その学位のもとで執筆された専門書の記述を否定するのは「外部の信頼できる」媒体での批評によるべきでしょう》というのはさすがに無茶な主張です。全てをその基準で書くと百科事典にはならないですよ。--iwaim(会話) 2018年4月29日 (日) 19:34 (UTC)
- そのような狭義で学位を定義するならば「労働価値説」で学位を認定された研究者のみで執筆すべきということになるでしょう。いくら何でもそれはちょと。--大和屋敷(会話) 2018年4月29日 (日) 19:39 (UTC)
- これも繰り返しになるので前のコメントをご確認ください。評価しなければならないのは加藤氏が信頼できるかどうかではなく加藤氏の著作がその専門分野から見て「労働価値説」と言う記事主題、あるいは「労働価値説の萌芽」という節主題に対して適切かどうかということです。加藤氏自身が信頼に足る学者であることに何ら異論はありませんし、それをWikipedianの信頼性と比較しても意味はありません。もしWikipediaの方針上これの評価ができないとすれば、それは記事主題に対する参考文献の選別ができない事を意味しており、執筆上の障害にしかなりません。学位として「労働価値説」までテーマを絞る必要はありませんが、経済学の理論を研究対象とする学者なり教科書なりを用いるべきです。既に述べましたが特定地域の社会経済史の研究は労働価値説のような経済学理論の研究とは基本的に別物です。--TEN(会話) 2018年4月29日 (日) 19:46 (UTC)
- 「労働価値説」という後世の概念をもってイブン・ハルドゥーンを再定義することの危険性については理解しているつもりです(これはペディを労働価値説の萌芽とみたマルクスにさえ該当する危険性ですが)。よってイブン・ハルドゥーンをもって労働価値説の萌芽と記述することの危険性についてはすでに同意を述べているつもりでして[14]、逆に加藤博を排除するのは百科事典として勿体ない(本末転倒ないし反知性主義的編集方針だ)と考えております[15]--大和屋敷(会話) 2018年4月29日 (日) 19:54 (UTC)
- 返信ありがとうございます。であるならば、記述を除去するというKazhikさんの編集を差し止められる必要は特にないかなと思います。まさにWikipediaの方針において記事の最終稿という物は存在しないですし、Kazhikさんが教科書の記述に照らして「§労働価値説の萌芽」からこれを除去し、後に他の誰でもいいですが、必要と考える人が別途関連する話題なりなんなりの節に改めてイブン・ハルドゥーンの説が労働価値説に例えられることがあることを加筆する、と言う流れは別に相互に矛盾するものでもないのではないかと思います。そこでまた記事のあり方について議論となるとすればやむをえませんけれども、途中過程で記述が消えていたとして問題はないのではないでしょうか。私個人は関連分野に過ぎないイブン・ハルドゥーンについて現行の記事の状態においてはバランスを欠くので記述する必要は感じないというのが意見ですが、具体的な構想を持っているわけでもないです。記事の構成上の必要と学術性とに照らして随時記述は追加され、あるいは除去されるというだけであるかと思います。--TEN(会話) 2018年4月29日 (日) 20:46 (UTC)
本件の論議は終了、と2018年4月27日 (金) 23:56 (UTC)に宣言した後、議論が再燃しましたが、落ち着いたようです。あらためて、現在の版(イブン・ハルドゥーンへの言及は除去)で事実上の合意成立、と宣言します。--Kazhik(会話) 2018年5月8日 (火) 22:05 (UTC)
「労働価値説の萌芽」にたいする加筆について
[編集]大和屋敷さんによる「労働価値説の萌芽」にたいする加筆を取り消しました。労働価値説とは関わりのない記述だからです。要約で「(2015年7月9日 (木) 01:02版で無断削除されていた出典のある記述を戻す(信頼できる情報源からの加筆を無作為に削除しない)」と説明されていますが、信頼できる情報源が出典として挙げられていれば何でも書いていいわけではありません。また、この節について論議が終わっていないのに、出典の取り扱い方について疑問が提出されている大和屋敷さんが加筆を強行することにも違和感があります。Wikipedia:コメント依頼/大和屋敷_20180428が終了するまで控えるのが常識だと思います。--Kazhik(会話) 2018年4月29日 (日) 21:58 (UTC)
- ノートでの議論対象になっている箇所への編集は誰であっても控えた方が良いとは考えていますが、コメント依頼云々は無関係にしないと面倒な話になります。--iwaim(会話) 2018年4月30日 (月) 11:57 (UTC)
前史とか起源とか
[編集]加藤博『イスラーム経済論』の扱い
[編集]加藤博『イスラーム経済論』を実際に読んだ方は気づいたはずですが、同書の当該記述はただ『歴史序説』から経済思想に関する箇所を幾つか抜粋引用して、感想や評価を付す形になっています。地の文よりも抜粋部分のほうが多いかもしれません。脚注がつけられていないので断言はできませんが、参考文献一覧を見る限り、Charles Issawi, An Arab Philosophy of History: Selections from the Prolegomena of Ibn Khaldun of Tunis (1332-1406)., Darwin Press Inc., Princeton, 1987 978-0878500567 にあるイッサウィによる解説を参考にしていると思います。自分なら、『イスラーム経済論』の当該部分を単独のソースとして使用するのを躊躇います。ただ、Wikipedia:信頼できる情報源の独立した二次資料とは?「編集者の監視や、事実の検証プロセスを経ている」「合作していない」「利用できる一次資料を彼ら自身で見ており、評価するに当たっては彼ら自身の判断を使っている」はクリヤしているようですし、ウィキペディア的には、「手許の教科書に掲載されていない情報はアウト」というルールも、「専門領域が厳密に一致していなければアウト」というルールも、「当該ディスィプリンで博士号を授与されていないとアウト」というルールも無いでわけですから、独自ルールを押し付けようとすれば、無用な軋轢を生むでしょうし、POV違反の原因にもなるでしょう。いずれにしても、 TENさんも指摘されているように、ハルドゥーン云々は、加藤博さん独自の学説などではありませんから、「加藤博によれば、、、」という書き方はダメですし、他の出典が見つかるまで当該部分に{{単一の出典}}を添付しておくのがベストだったんです。いずれにしても、コメント依頼やブロック依頼まで出して腕ずくで解決しようとするのはいただけませんね。Takabeg(会話) 2018年5月26日 (土) 13:02 (UTC)
英語版ウィキペディアでの扱い
[編集]英語版ウィキペディアの起源のところにはアリストテレス、トマス・アクィナス、イブン・ハルドゥーン、ウィリアム・ペティ、ジョン・ロック、ベンジャミン・フランクリンなどの名前が並んでいます。ところで、英語版ウィキペディアが常に正確な情報を提供していると考えるのは危険なことで、誤情報も含め日本語版に翻訳され続けているのが現状です。英語版のイブン・ハルドゥーンの箇所にも違和感を感じました。シュンペーターは、生存中の著作ではイブン・ハルドゥーンに言及していませんでした。上記の議論で提示されていた『経済学史』(岩波文庫、1950年)に見当たらないのは当然です。彼の死後、最後の夫人の経済史家エリザベス・ブーディ・フィルスキ (シュンペーター)が遺稿を編集したものがJoseph A. Schumpeter, History of Economic Analysis, edited from manuscript by Elizabeth B. Schumpeter and published after his death, New York: Oxford University Press, 1954 (出版前に夫人も亡くなっています、和訳『経済分析の歴史』) で言及しています。ネットで読めるものですと、こちらの132頁と755頁でイブン・ハルドゥーンに言及しています。しかし、価値論と絡めて言及した訳ではありません。一方、イブン・ハルドゥーンが「所得とは人間の労働によって生じる価値量-労働によってえた収入-である。したがって労働は所得をうみだす源泉であるから、労働量が多いほど必然的に所得 (富)も増大する。そして、その所得が必要よりも大きいばあいは、資本の蓄積となるのである」と書いています。英語版における記述は、シュンペーターがイブン・ハルドゥーンの労働価値説に言及しているかのような印象操作を行っている、ないしは 発表済みの情報の合成であると言えます。英語版よりも正確かつまともな形にして記述しましょう。Takabeg(会話) 2018年5月26日 (土) 13:02 (UTC)
ペティの時代に「労働価値説」という概念は存在していたか
[編集]TENさんは「イブン・ハルドゥーンの時代には労働価値説という概念が存在していないからです」とおっしゃっていますが、 「まず当然かもしれないが,労働価値説という言葉自体ベティの著作には当時まだ存在していない。」そうです。実は、この論文の冒頭で「ウィキベディア」に言及しているので気になって読んでみました。執筆者は経済学博士だそうです。でも、「経済学の論文でウィキペディアの項目なんか相手にしちゃダメだよ」というのが率直な感想です。学術論文ではないのかもしれませんが。
ペティと言えば
[編集]ペティと言えば、この項目に「ウィリアム・ペティを「経済学の父」と呼び、ペティが労働価値説を唱えたことに着目したのはカール・マルクスである」とありますが、これは主語と述語が逆なんじゃないでしょうか? 本記事は、マルクスの項目でもなければ、マルキシストペディアでもないのですから。出典として付された「ウィリアム・ペティの経済思想」だって、そんな書き方してませんよ。Takabeg(会話) 2018年5月26日 (土) 13:02 (UTC)
清水和裕さんの指摘
[編集]清水和裕さん (専門はイスラム文明史学で経済学ではありません) が「十四世紀の著作の訳語に剰余価値資本等の現代社会科学の用語を用いるのはいかがなものであろうか」というのは、言わんとしていることはわかりますが、イブン・ハルドゥーンは「資本」に相当する語として、ra's al-māl, ra's al-amwāl , ra's amwāl (amwāl は māl の複数形です)を使用しています。これは日本語の語彙が豊富というか繊細というか、ちょっと贅沢な注文かなぁと思いました。マルクスの『資本論』も ra's al-amwāl でおんなじすから。Takabeg(会話) 2018年5月26日 (土) 13:02 (UTC)
どう書いたらいいのか
[編集]ウィキペディアの方針に執筆者が独自の視点を持っているのは当然ですが、完全な情報を伝えるように誠実に努力しなければいけません。ある特定の観点を他方に優先して推進するものではありませんし、ある特定の観点を除外するものでもありません。とありますから、イブン・ハルドゥーンについても書かないというのは不味いのではないかと思います。当該部分は、「起源」とか「前史」になるかと思いますが、TENさんもおっしゃっているように、そこだけが増大していくのは避けるべきだと思います。それと、イブン・ハルドゥーンだけが突出するのも避ける必要があると考えます。アメリカの学部水準の教科書に「ハルドゥーンこそ、18世紀と19世紀の古典経済学者の関心事である労働価値論を初めて定式化した人物であった。」という一文を見つけましたが、「そこまで言うか!」というのが個人的な感想です。イブン・ハルドゥーンと労働価値説に言及した経済学史家の手になる二次資料はかなり集まっていますので、時間があるときに、著作権に触れない程度で、このノートで転記する予定です。参考までにですが、 エルネスト・マンデルは、孟子、プラトン、アリスト、スコラ派、グロセテスト、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、そしてイブン・ハルドゥーンに言及しています (ちなみに、マンデルはベルリン自由大学から経済学博士号を授与されているそうです。仮にマンデルが経済学博士号を授与されていなくても、ウィキペディア的には「信頼できる情報源」なんですけどね) 。Takabeg(会話) 2018年5月26日 (土) 13:02 (UTC)
- コメント 非常に良く調べられていて参考になります。ありがとうございます。英語版Wikipediaについての認識はざっとしか見ていませんが同感です。また、「『イスラーム経済論』の当該部分を単独のソースとして使用するのを躊躇います」についても同じです。
- ウィリアム・ペティの言説の中に労働価値説を見出すこととイブン・ハルドゥーンのそれについて労働価値説を見出すことが論理的には同じ、と言う理解であっているでしょうか?であれば、この点に関してこの議論内の私の見解は単純な知識不足ですね。清水氏の指摘の件については、私の見解とは必ずしも同じではないですが、Takabegさんのご意見は適切であるように思います。
- 加藤博氏の著作を用いるのが本記事については不適切であるという点は変わらず、イブン・ハルドゥーンについて『イスラム経済論』を出典にした文章を教科書を参考にこの記事から除去したKazhikさんの編集はやはり妥当であったろうとは思います。『イスラム経済論』の前書きでまさに「私は経済に興味を持っているとはいえ、歴史家であり、理論的であれ実践的であれ、イスラム金融は私の能力を超えた分野である。」と率直に加藤氏自身が語っておられるように、氏は経済学自体の専門家でなく、その人がイブン・ハルドゥーンの思想について述べた文章を、主客を反転させて労働価値説の萌芽の説明の出典として用いるのは「専門領域が厳密に一致していない」という以上の相違があると思うからです。これは元々加藤氏がどんなことを研究しているかを別の書籍で知っていたので当初よりそう思ってコメント依頼からこの議論に参加したのですけれども。
- とはいうものの、経済学史家が労働価値説に関連してイブン・ハルドゥーン言及する資料が普通に存在しているならば『イスラム経済論』云々は別に重要ではなく、適切な出典に沿った形でイブン・ハルドゥーンについて言及が行われるのは素晴らしいことだと思います。もっとも私自身はそれを行うだけの能力は持っていないですけれども。それにしても孟子やアリストテレスの時代にまで遡る言及というのは驚きですね。
- なお、ノートへの資料転記時にこの位置のコメントが邪魔であれば、別の場所にどけていただいて構いません。--TEN(会話) 2018年5月26日 (土) 18:08 (UTC)
- 続きがありそうなので待っていたのですが、なかなか出てこないので現時点での私の意見を書きます。(1) イブン・ハルドゥーンについて書かないのはまずい、とは思いません。書くべきなのは、イブン・ハルドゥーンとスミス・リカード・マルクスとのあいだに直接または間接の影響関係があった、と言える場合です。ジョン・ロックやベンジャミン・フランクリンならそのような関係があると思いますが、イブン・ハルドゥーンについてはないでしょう。(2) イブン・ハルドゥーンに言及した経済学史家の文献があるなら、「XXXは、労働価値説に通じる考え方を先行して提示した思想家としてイブン・ハルドゥーンを挙げている」といった形で書くことはできるでしょう。Charles Issawiの解説にそう書かれているなら、XXXはCharles Issawiでよいと思います。ただ、そういう形で書くなら孟子やプラトンにも言及せざるをえなくなりますので積極的に賛成はしません。--Kazhik(会話) 2018年6月15日 (金) 21:13 (UTC)
TENさん、Kazhikさん、かなり遅くなってすみませんでした。「ウィリアム・ペティの言説の中に労働価値説を見出すこととイブン・ハルドゥーンのそれについて労働価値説を見出すことが論理的には同じ」と考えています。マルクスのほうがマンデルよりずいぶんビッグネームではありますけど (ただし、最初に見出したのがマンデルってわけではないようです、「見出す」というか「指摘した」って感じでしょうか)。Kazhikさん、孟子やプラトンの心配はしなくていいと思います。見た限り、そこまでさかのぼっているのはマンデルくらいですから。しかも名前出してるだけですし。
- まず、件の教科書ですが、Robert B. Ekelund, Jr., Robert F. Hébert, A History of Economic Theory and Method, Waveland Pr Inc., の第五版だと26頁、第六版だと27頁には、「ガザーリーには数多くの生徒たちがおり、彼らも他の生徒たち影響に与え、その結果、連続的な線での経済的分析(常に道徳学の従属的な一部門としてではあったが)が11世紀、12世紀および13世紀に確立された。この知的伝統は、14世紀にイブン・ハルドゥーン(1332-1404)の作品で頂点に達した。ハルドゥーンこそ、18世紀と19世紀の古典経済学者の関心事である労働価値論を初めて定式化した人物であった。」とあります。
- ベルギーの経済学者ルイ・ベックは、Laurence S. Moss (ed.), Joseph A. Schumpeter: Historian of Economics: Perspectives on the History of Economic Thought, Routledge, 1996 所収のLouis Baeck, "Ibn Khaldun’s Political and Economic Realism" という論文の95頁で、「我らが中世の学者たちは、労働価値、分業の生産性効果、利潤刺激、利潤動機、蓄積過程、そしてインフレーションによる経済成長の刺激を論述した。労働の重要性と利潤動機は特別な言及に値する。『歴史序説』の 第5章第1節は、「利益は人間の労働から実現した価値」とか「資本は労働から実現した価値」とかの言説で充実している。バツィエヴァ (スヴェトラーナ・ミハイローヴナ・バツィエーヴァ (Бациева, Светлана Михайловнаという東洋学者のことを指しているようです)のような多くのマルクス主義者の著述家たちは、我らの著者を初期の社会主義者や労働価値の理論家として描きたがった。イブン・ハルドゥーンがそんなレッテルを貼られるのは初めてのことだったろう。豪奢、寄生的怠惰、有閑支配階級の財政的飢餓を糾弾した著述家にとり、価値の真の源泉としての労働の強調は、彼の経済的現実主義の例証であるだけでなく、彼の封建的寄生への道徳的不満の例証でもあった。」と書いています。
- エルネスト・マンデル『現代マルクス経済学』第一八章の三節目が「労働価値説の起源」、四節目が「労働価値説の展開」となっています。ちなみに、マンデルはベルリン自由大学から経済学博士を受けていて、『後期資本主義』として出版されています。この本のフランス語原書 Ernest Mandel, Traité d'économie marxiste, R. Julliard, 1962 (英語版はErnest Mandel, Marx Economic Theory, NYU Press, 1962) の第二巻の392頁をかいつまんで訳すと「他のスコラ哲学者たち、とくにドゥンス・スコトゥスは、「労働と費用」に基づいた交換価値の理論を継承し発展させたが、それは、アリストテレス的伝統の偉大な継承者であるアブドゥルラフマーン・イブン・ハルドゥーン (1332-1406)が同じ理念を継承しより明確化させ、さらには、マルクスに先立つこと四世紀半前に!歴史的唯物論に近い社会史の観念の中に具現化させたのは、イスラーム帝国において、小規模商品生産に依拠した別の社会においてであった。」「アダム・スミスに先立って、イブン・ハルドゥーンは、諸国民の富は、芸術と工芸の生産物 (商品)のうちに存在すると言い切った。」「小規模商品生産に依拠した社会において、イブン・ハルドゥーンは先駆者の役割を演じた。人が商品生産と商品自体に固有のあらゆる矛盾を意識できるようになるためには、政治経済が科学として真に誕生する前に、生産様式における生々しく深い激動が必要であった。」「14世紀と17世紀のあいだ、価値論は、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥスとイブン・ハルドゥーンによって成し遂げられた進歩と比べると、停滞し、後退さえした。しかし、当時の胚芽の政治経済は発展を止めなかった。この発展は、イブン・ハルドゥーンをウィリアム・ペティから隔てる短い距離を埋める前に、縦横の道に入り込んだ。この迂回のおかげで、それは多くの新しい問題によって豊かになり、関連する問題の全体を把握し、プラトンとアリストは言うまでもなく、イブン・ハルドゥーンとトマス・アクィナスに欠けていた大量の経験的な与件の認識を獲得するところとなった。」という具合になります。この本は日本語訳も出ているようですので、誤訳があれば直していただければ幸いです。
- 同じくマンデルですが、Ernest Mandel, The Place of Marxism in History, p. 26. (これは日本語訳が無いみたいです)では、「労働価値説として知られる理論には、古くからの血統があった。中世において、スコラ哲学の理論家たちとイスラームの理論家 (トマス・アクィナス、アルベルトゥス・マグヌス、イブン・ハルドゥーン) によって既にざっくりと定式化されていた。17世紀にウィリアム・ペティによって洗練化され、18世紀にアダム・スミスの研究、19世紀初頭にはデイヴィッド・リカードの研究で最終的な形をとった。」と書いています。
- あとは、イブン・ハルドゥーンに絞った論文はけっこうあります。例えば、Oweiss, I. M. (1988), "Ibn Khaldun, the Father of Economics". Arab Civilization: Challenges and Responses, New York University Press. ISBN 0-88706-698-4, pp.112-127. には「ジョセフ・A・シュンペーター、彼は死の数か月前にイブン・ハルドゥーンの文書を見出した、ジョセフ・J・スペングラー、チャールズ・イッサウィを例外として、主要な欧米の経済学者たちは、価値の逆説に合理的な説明を見出そうとしたので、アダム・スミスとデイヴィド・リカードの価値論までさかのぼった。アダム・スミスによると、デイヴィド・リカードによりさらに発展させられたところによると、対象物の交換価値は生産に使用された労働時間と等しくなければならない。この概念を基礎として、カール・マルクスは「労働賃金は労働力の生産に等しくなければならない」と結論づけ、労働者階級ないしは無産階級の労力を搾取する資本家に与えられた不当な報酬を意味する「余剰価値」という革命的な用語を導入した。しかし、カール・マルクスの拡張子無しの労働価値説を最初に導入したのは、自由市場経済を信じるイブン・ハルドゥーンであった。」と書かれています。そのほか、Jean David C. Boulakia, "Ibn Khaldun: A Fourteenth-Century Economist", Journal of Political Economy, 79(5):1105-18 · February 1971, とか Joseph J. Spengler, 1964. "Economic Thought of Islam: Ibn Khaldun", Comparative Studies in Society and History, 6(3), p p. 268-306. The Hague), VI, : 268-306 とかがよく参照されているようですが、時間がなくて訳していません。ムスリム諸国の研究者のものはたくさんありますが、ちょっと手前みそ的な感も否めないので、非ムスリムの研究者を中心に参照していったほうがいいかなぁと思っています。とりあえず、これらの研究者たちの書いていることの「最大公約数」をもって「前史・起源」にあてればいいのではないかと考えますが、TENさん、Kazhikさん、いかがでしょうか?大和屋敷さんはどう考えますか?Takabeg(会話) 2018年6月23日 (土) 14:47 (UTC)
- 調査お疲れ様です。「最大公約数」を元に記述するという方向性で問題無いように思います。もっとも私の方では知識も参考文献も十分ではないので賛成です、としか言えませんけれども。「§前史・起源」を設けるのであれば上に書いていただいた内容をざっくり要約したものがあれば十分わかりやすいのではないかと思います。--TEN(会話) 2018年6月24日 (日) 14:29 (UTC)
- 結局のところイブン・ハルドゥーンについてどのように言及すべきなのか、案を示してくれませんか。私の意見はすでに書いたとおりです。労働価値説の始祖としての地位はウィリアム・ペティではなくイブン・ハルドゥーンに与えるべきだ、という説は英語圏においても通説ではなくて少数説でしょうから、Wikipediaにおいてもそのように扱うべきだと思います。--Kazhik(会話) 2018年6月25日 (月) 21:17 (UTC)
- 一ヶ月以上待ちましたが返信がありませんので、「ウィリアム・ペティを「経済学の父」と呼び、ペティが労働価値説を唱えたことに着目したのはカール・マルクスである」という文はおかしい、という指摘にのみ対応しました。出典はマルクスの『経済学批判』に変えました。ついでに脚注を改善しました。
- ちなみに、マルクスが『経済学批判』のなかでスミス以前に労働価値説の発展に貢献した者として挙げているのは、ペティのほか、ボアギユベール、ベンジャミン・フランクリン、ジェームズ・ステュアートです。--Kazhik(会話) 2018年7月27日 (金) 10:38 (UTC)
- だいぶ以前になりますけれど、会話ページでコメントを求められていたので来ました。ノートで結論が出ているようであり、他に詳しい方もいらっしゃるので、お任せいたします。お手数をかけました。Takabegさんの調査は素晴らしいと思います。--Moke(会話) 2019年6月28日 (金) 15:52 (UTC)