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ヒュー・マケルヘニー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヒュー・マケルヘニー
Hugh McElhenny
refer to caption
2014年のマケルヘニー
基本情報
ポジション ハーフバック
生年月日 (1928-12-31) 1928年12月31日
没年月日 (2022-06-17) 2022年6月17日(93歳没)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カリフォルニア州ロサンゼルス
身長: 6' 1" =約185.4cm
体重: 195 lb =約88.5kg
経歴
大学 ワシントン大学
NFLドラフト 1952年 / 1巡目全体9位
初出場年 1952年
初出場チーム サンフランシスコ・49ers
所属歴
1952-1960 サンフランシスコ・49ers
1961-1962 ミネソタ・バイキングス
1963 ニューヨーク・ジャイアンツ
1964 デトロイト・ライオンズ
受賞歴・記録
オールプロ選出(5回)
1952年、1953年、1954年、1956年、1957年
プロボウル選出(6回)
1952年、1953年、1956年、1957年、1958年、1961年
その他受賞・記録
  • NFL1950年代オールディケイドチーム
NFL 通算成績
ラン獲得ヤード 5,281ヤード
平均ラン獲得ヤード 4.7ヤード
ラッシングTD 38回
レシーブ数 264回
レシーブ獲得ヤード 3,247ヤード
TDレシーブ 20回
Player stats at NFL.com
Player stats at PFR

ヒュー・マケルヘニー(Hugh McElhenny 1928年12月31日-2022年6月17日 )はカリフォルニア州ロサンゼルス出身のアメリカンフットボール選手。ポジションはランニングバック。優れたオープンフィールドランナーであった彼はその爆発的なランにより"The King"[1][2][3]、"Hurryin' Hugh"と呼ばれた。1950年代のNFLで彼はロックンロールにおけるエルヴィス・プレスリーのような存在だった[2]。彼とY・A・ティトルジョー・ペリージョン・ヘンリー・ジョンソンの揃ったバックフィールドは、ミリオンダラーバックフィールドと形容された[4]

経歴

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カレッジ時代

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高校を卒業後、アラバマ大学ノートルダム大学海軍兵学校ネブラスカ大学UCLAアリゾナ州立大学など多くの大学から奨学金の申し出があった。地元USCからアメリカンフットボールと陸上競技により奨学金を受け、入学したものの3ヶ月でやめてしまいコンプトン・ジュニア・カレッジに進学[3]、1948年彼の所属したチームは無敗でシーズンを終えた。1949年3月ワシントン大学に転入した[3]。大学3年時の1950年のシーズン最終戦ワシントン州立大学戦で大学記録となる296ヤードを走り[3]、5タッチダウン[5]、30得点をあげて52-21の勝利に貢献した[1]。チームはローズボウルに出場したがカリフォルニア大学に7-14で敗れた。4年次のUSC戦では100ヤードのパントリターンタッチダウンを見せた[1][3][6]。この年17タッチダウン、125得点をあげた彼は3勝6敗1分のチームから、オールアメリカンのファーストチームに選ばれて[1][3]1952年のフラボウルに出場した[6]。他にもミネソタ大学戦では96ヤードのキックオフリターン、カンザス州立大学戦では91ヤードのラン、イリノイ大学戦では77ヤードのレシーブを見せている[3]。1951年のハイズマン賞の投票では8位となっている[7]。彼が大学時代に作った記録は16個でありその内上述の1試合でのラン296ヤード、1試合での平均獲得ヤード14.8ヤード、5ラッシングタッチダウンの3つは大学記録、最後の2つはパシフィック・テン・カンファレンスの記録としても残っている[6]

NFL

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1952年のフラボウルで彼はサンフランシスコ・フォーティナイナーズのQBフランキー・アルバートに目を付けられた。アルバートはチームオーナーのバック・ショーに彼をドラフトで獲得するよう直訴、同年のNFLドラフト1巡目全体9位でサンフランシスコ・フォーティナイナーズに指名されて入団した[6]。当時のサラリーは7,000ドルだった(1950年の10,000ドルは2004年現在74,000ドルにあたる。)[3]。この年彼はデビュー戦となるシカゴ・カージナルス戦でボールを持たされた最初のプレーで42ヤードのタッチダウンラン[6]ダラス・テキサンズ戦で89ヤードのタッチダウンラン(現在でもナイナーズ歴代2位の記録)[3]を含む7回のランで170ヤードを走り[3]シカゴ・ベアーズ戦で94ヤードのパントリターン(現在でもナイナーズ歴代2位の記録)を見せた[8][3][9]。この試合では彼はエンドゾーンに5回ボールを持って走り込んだが3回は味方のファウルのためタッチダウンが無効となった[3]。このシーズン彼はラン平均7.0ヤードとリーグトップの成績を残した。この活躍により満場一致で最優秀新人選手に選ばれた[2]。またプロボウルでも2タッチダウンをあげている。

1954年にはナイナーズのバックフィールドには彼の他にジョー・ペリージョー・ヘンリー・ジョンソンY・A・ティトルといずれもが後にプロフットボール殿堂入りを果たすメンバーが揃ったもののメンバーの負傷などによりチームはチャンピオンシップ優勝を果たせなかった[6]

9シーズンをナイナーズで過ごした後、1961年にミネソタ・バイキングスが加入した際のエクスパンション・ドラフトでプロテクトされず指名を受けてバイキングスに移籍[10]、古巣のナイナーズ戦で32ヤードのタッチダウンランをあげた[3]

2年後の1963年にはニューヨーク・ジャイアンツに移籍、この頃彼のひざはボロボロだったが念願のNFLチャンピオンシップゲームに出場した[2]。1958年のプロボウルではMVPに輝いている[3]。1964年に現役を引退したがラン、レシーブ、キックオフリターン、パントリターン、ファンブルリターンによる獲得ヤードは当時11,000ヤード以上を記録した3人の1人であった[2][9]

現役時代タイトルゲームとは無縁でプレーオフ出場も1957年にデトロイト・ライオンズにホームで27-31と敗れた試合1試合のみである[3]

現役引退後

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現役引退後、ペプシコのシアトル地区での系列会社、Alpac Corporationのマネージャーとなった[6]

引退から7年後の1971年にはミネソタ州の実業家、Wayne Field と共にシアトルにNFLの新フランチャイズを誘致する運動に加わった。ハスキー・スタジアムでのエキシビションゲーム2試合を実現し、その内1試合はテリー・ブラッドショーピッツバーグ・スティーラーズジョー・ネイマスニューヨーク・ジェッツの対戦であった。その後シアトル・シーホークスが新しいフランチャイズとして誕生したがこれはノードストロームファミリーによるもので彼はチームの運営に加わる希望を持っていたがそれはかなわなかった[3]

1970年にプロフットボール殿堂、1981年にカレッジフットボール殿堂入りを果たした。

2004年現在、ギラン・バレー症候群に罹った彼は首から下が麻痺してしまい、シアトルの病院に入院し寝たきりになっている[3]

脚注

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  1. ^ a b c d Hall of Fame Inductee Search”. カレッジフットボール殿堂. 2010年11月26日閲覧。
  2. ^ a b c d e Hall of Famers”. プロフットボール殿堂. 2010年11月26日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q The untold story of Hugh McElhenny, the King of Montlake”. Hearst Seattle Media (2004年9月2日). 2010年11月26日閲覧。
  4. ^ Dan Mori (2011年7月25日). “The 25 Most Electrifying San Francisco 49ers Players of All Time”. bleacherreport.com. 2012年12月29日閲覧。
  5. ^ A look at Apple Cup history”. シアトル・タイムズ (2007年11月21日). 2010年11月27日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g HUGH McELHENNY”. hofplayers.com. 2010年11月27日閲覧。
  7. ^ Huskies QB Jake Locker lives, plays by hometown rules”. シアトル・タイムズ (2010年8月28日). 2010年11月27日閲覧。
  8. ^ San Francisco 49ers 40 at Chicago Bears 16Sunday, October 19, 1952”. pro-football-reference.com. 2010年11月27日閲覧。
  9. ^ a b HALL OF FAMERS”. サンフランシスコ・フォーティナイナーズ. 2010年11月26日閲覧。
  10. ^ 50 Greatest Vikings”. ミネソタ・バイキングス. 2011年9月17日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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