コンテンツにスキップ

ポルトガル君主一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポルトガル君主一覧では、1139年ポルトガル王国の建国から1910年10月5日革命による王政の廃止とポルトガル第一共和政の成立に至るまでのポルトガル君主について記述する。

概要

[編集]

ポルトガルでは約800年の間君主制がとられ、歴代の国王は「ポルトガル王」以外に様々な称号を保持、もしくは自称した。フェルナンド1世アフォンソ5世の2人はカスティーリャ王国の王位を請求し、カスティーリャへの介入を試みた。16世紀ハプスブルク家(アブスブルゴ家)が勢力を拡大した時代、一時期はスペイン・ハプスブルク朝の君主がスペインナポリシチリアの国王とポルトガル国王を兼ねていた。ブラガンサ王朝の君主はポルトガル王位のほかにブラジル王、ブラジル皇帝などの称号も保有していた。

1910年の王政打倒後、1919年1月19日に王党派が王政の復活を宣言して政府に反乱を起こしたが(北部王国英語版)、2月13日に内戦は終結する[1]。最後のポルトガル王マヌエル2世の死後、ミゲル1世の孫であるドゥアルテ・ヌノがポルトガルの王位請求者となった。1949年3月には、ドゥアルテ・ヌノにポルトガル国内への居住が許可された[2]。王政の支持者はドゥアルテ・ヌノから始まる王位請求者を歓迎しているが、ポルトガルの州および議会は彼らをポルトガル王として認めていないため、権力を有しない象徴的な存在に留まっている。

歴代ポルトガル王はいずれも建国者のアフォンソ1世を祖先に持つが、しばしば直系の子孫が断絶した。ポルトガルには、以下の王朝が存在していた。

ボルゴーニャ家(1143年 - 1383年)

[編集]

ボルゴーニャ家はポルトガル王国を創始した一族として知られている。ボルゴーニャ王朝の祖であるエンリケ・デ・ボルゴーニャ(アンリ・ド・ブルゴーニュ)はフランスブルゴーニュ出身の有力貴族であり、カスティーリャ王国アルフォンソ6世の求めに応じてイベリア半島に渡り、レコンキスタに参加した[3]。エンリケはカスティーリャ王国の封臣としてポルトゥカーレ伯領コインブラ伯領を統治し[4]、ポルトガル独立の基礎が形成されていく[3]。エンリケの息子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)がポルトガルの独立を宣言した時、ボルゴーニャ家は一貴族から2世紀以上にわたってポルトガルを統治する王家へと転身する。

フェルナンド1世の死後に起きた後継者断絶の危機の後、フェルナンド1世の娘であるベアトリスがポルトガル女王となるが、彼女の夫であるカスティーリャ王フアン1世がポルトガル王位を請求した。ベアトリスをポルトガルの君主に含めるか否かについては、研究者の間で意見が分かれている[5][6]

君主名生没年月日即位退位補足家系画像
アフォンソ1世
1109年
1185年12月6日
1139年7月25日1185年12月6日ポルトガル王国の建国者ボルゴーニャ家
サンシュ1世
1154年11月11日1212年3月26日1185年12月6日1212年3月26日アフォンソ1世の子ボルゴーニャ家
アフォンソ2世
1185年4月23日1223年3月25日1212年3月26日1223年3月25日サンシュ1世の子ボルゴーニャ家
サンシュ2世
1209年9月8日1248年1月4日1223年3月26日1247年12月4日アフォンソ2世の子ボルゴーニャ家
アフォンソ3世
1210年5月5日1279年2月16日1248年1月4日1279年2月16日アフォンソ2世の子ボルゴーニャ家
ディニス1世
1261年10月9日1325年1月7日1279年2月6日1325年1月7日アフォンソ3世の子ボルゴーニャ家
アフォンソ4世
1291年2月8日1357年5月28日1325年1月7日1357年5月28日ディニス1世の子ボルゴーニャ家
ペドロ1世
1320年4月19日1367年1月18日1357年5月8日1367年1月18日アフォンソ4世の子ボルゴーニャ家
フェルナンド1世
1345年10月31日1383年10月22日1367年1月18日1383年10月22日ペドロ1世の子ボルゴーニャ家

アヴィス家(1385年 - 1580年)

[編集]

1385年にボルゴーニャ王朝に代わってアヴィス王朝が成立する。アヴィス王朝は、即位前にアヴィス騎士団長を務めていたペドロ1世の庶子ジョアン1世を王朝の祖とする[9]。ジョアン1世の曾孫ジョアン2世が嗣子に先立たれて死亡した後、従弟で義弟であるベージャマヌエルが王位を継承した。セバスティアン1世は結婚を避けていたため子がおらず[10]、その戦死後に大叔父である枢機卿エンリケが王位を継承した。1580年1月にエンリケ1世は後継者を指名しないまま没し、マヌエル1世の孫であるクラト修道院長ドン・アントニオとブラガンサ公ジョアンの妻カタリーナが有力な後継者候補として挙げられた[11]。彼らと同じくマヌエル1世の孫であるスペイン王フェリペ2世(ポルトガル王としてはフィリペ1世)が王位を請求し、アントニオを破った。

君主名生没年月日即位退位補足家系画像
ジョアン1世1358年4月11日1433年8月14日1385年4月6日1433年8月14日ペドロ1世の非嫡出子アヴィス家
ドゥアルテ1世
1391年10月31日1438年9月9日1433年8月14日1438年9月9日ジョアン1世の子アヴィス家
アフォンソ5世
1432年1月15日1481年8月28日1438年9月13日
1477年11月15日
1477年11月11日
1481年8月28日
ドゥアルテ1世の子アヴィス家
ジョアン2世
1455年3月3日1495年10月25日1477年11月11日
1481年8月28日
1477年11月15日
1495年10月25日
アフォンソ5世の子アヴィス家
マヌエル1世
1469年5月31日 - 1521年12月13日1495年10月25日1521年12月13日ジョアン2世の従弟アヴィス家
ジョアン3世
1502年6月7日 - 1557年6月11日1521年12月13日1557年6月11日マヌエル1世の子アヴィス家
セバスティアン1世
1554年1月20日 - 1578年8月4日1557年6月11日1578年8月4日ジョアン3世の孫アヴィス家
エンリケ1世
1512年1月31日1580年1月31日1578年8月4日1580年1月31日マヌエル1世の子アヴィス家

ハプスブルク家(1581年 - 1640年)

[編集]

1581年から1640年までの間、スペイン・ハプスブルク家(フィリペ王朝)がポルトガルを統治した。アルカンタラの戦いでドン・アントニオを破ったフェリペ2世は、1580年12月にリスボンへ入城し、トマールで開催されたコルテスでポルトガル王を称した[13]イベリア連合として知られる同君連合の下、ポルトガルは自治権を付与された。時代が進むにつれてスペインへの中央集権化が進められ、ポルトガルには財政・軍事の負担が重くのしかかる[14]。ポルトガル内では独立の機運が高まり、1640年6月のカタルーニャの反乱が再独立運動を後押しした[15]

君主名生没年月日即位退位補足家系画像
フィリペ1世
1527年5月21日 - 1598年9月13日1581年3月25日1598年9月13日マヌエル1世の孫ハプスブルク家
フィリペ2世
1578年4月14日 - 1621年3月31日1598年9月13日1621年3月31日フィリペ1世の子ハプスブルク家
フィリペ3世
1605年4月8日 - 1665年9月17日1621年3月31日1640年12月1日フィリペ2世の子ハプスブルク家

ブラガンサ家(1640年 - 1910年)

[編集]

1640年12月のクーデターの成功の後にポルトガルの再独立が宣言され、コルテスでブラガンサ公ドン・ジョアンのポルトガル王位が承認される[16]。ドン・ジョアンの即位により、ブラガンサ王朝が成立する。ポルトガル王政復古戦争を経て、1668年にポルトガルとスペインの和平が成立した[16]。1853年から1910年までポルトガルに君臨した4人のブラガンサ家の国王の出身家系を指して、「ブラガンサ=コブルゴ家」という呼称が使われる。なお、1910年に父と同時に襲撃され、父の崩御から20分後に死去した王太子ルイス・フィリペについては、父の崩御と同時に王位に即位したとする説とそれを否定する説がある。

君主名生没年月日即位退位補足家系画像
ジョアン4世
1603年3月18日1656年11月6日1640年12月1日1656年11月6日マヌエル1世の玄孫ブラガンサ家
アフォンソ6世
1643年8月21日1683年9月12日1656年11月6日1683年9月12日ジョアン4世の子ブラガンサ家
ペドロ2世
1648年4月26日1706年12月9日1683年11月6日1706年12月9日ジョアン4世の子ブラガンサ家
ジョアン5世
1689年10月22日 - 1750年7月31日1706年12月9日1750年7月31日ペドロ2世の子ブラガンサ家
ジョゼ1世
1714年6月6日1777年2月24日1750年7月31日1777年2月24日ジョアン5世の子ブラガンサ家
マリア1世1734年12月17日 - 1816年3月20日1777年2月24日1816年3月20日ジョゼ1世の娘ブラガンサ家
ペドロ3世
1717年7月5日 - 1786年5月25日1777年2月24日1786年5月25日マリア1世の夫、ジョアン5世の子
マリア1世の共同統治者
ブラガンサ家
ジョアン6世
1767年5月13日1826年3月10日1816年3月20日1826年3月10日マリア1世とペドロ3世の子ブラガンサ家
ペドロ4世
1798年10月12日1834年9月24日1826年3月10日1826年5月2日ジョアン6世の子ブラガンサ家
マリア2世
1819年4月4日1853年11月15日1826年5月2日
1834年5月26日
1828年6月23日
1853年11月15日
ペドロ4世の娘ブラガンサ家
ミゲル1世
1802年10月26日1866年11月14日1828年2月26日1834年5月6日ジョアン6世の子ブラガンサ家
フェルナンド2世
1816年10月29日1885年12月15日1837年9月16日1853年11月15日マリア2世の夫
共同統治者
ザクセン=コーブルク=ゴータ家
君主名生没年月日即位退位補足家系画像
ペドロ5世
1837年9月16日1861年11月11日1853年11月15日1861年11月11日マリア2世とフェルナンド2世の子ブラガンサ=コブルゴ家
ルイス1世
1838年10月31日1889年10月19日1861年11月11日1889年10月19日マリア2世とフェルナンド2世の子ブラガンサ=コブルゴ家
カルロス1世
1863年9月28日1908年2月1日1889年10月19日1908年2月1日ルイス1世の子ブラガンサ=コブルゴ家
ルイス・フィリペ
1887年3月21日1908年2月1日1908年2月1日1908年2月1日カルロス1世の子ブラガンサ=コブルゴ家
マヌエル2世
1889年11月15日1932年7月2日1908年2月1日1910年10月4日カルロス1世の子ブラガンサ=コブルゴ家

脚注

[編集]
  1. ^ 合田昌史「現代のポルトガル」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年6月)、440頁
  2. ^ 井上『南欧史』、382頁
  3. ^ a b 関哲行「キリスト教諸国家の確立」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年6月)、94、96-97頁
  4. ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、18頁
  5. ^ David Williamson, «Debrett's Kings and Queens of Europe»,1988,Webb & Bower, Exeter, ISBN 0-86350-194-X; César Olivera Serrano, «Beatriz de Portugal»
  6. ^ García de Cortázar, Fernando (1999), Breve historia de España, Alianza Editorial, page 712; Armindo de Sousa, in História de Portugal coordinated by José Mattoso, Editorial Estampa, vol. II, ISBN 972-33-0919-X, pages 494/95
  7. ^ Alphonso(1911 Encyclopædia Britannica)
  8. ^ 井上『南欧史』、352頁
  9. ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、24頁
  10. ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、54頁
  11. ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、390-391頁
  12. ^ 井上『南欧史』、357頁
  13. ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、55,58頁
  14. ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、392頁
  15. ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、392-393頁
  16. ^ a b 金七『図説 ポルトガルの歴史』、74頁

参考文献

[編集]
  • 安部真穏『波乱万丈のポルトガル史』(泰流選書, 泰流社, 1994年7月)
  • 井上幸治編『南欧史』(世界各国史, 山川出版社, 1957年3月)
  • 金七紀男『図説 ポルトガルの歴史』(ふくろうの本, 河出書房新社, 2011年5月)
  • 合田昌史「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年6月)
  • Sousa, D. António Caetano de (1946) [1735–49] (Portuguese). História Genealógica da Casa Real Portuguesa. Coimbra: Atlântida-Livraria Eds.. OCLC 20210378 
  • Jiří Louda & Michael Maclagan (1981), "Portugal", in Lines of Succession. Heraldry of the Royal families of Europe, London, Orbis Publishing, pp. 228–237. ISBN 0-85613-672-7. (revised and updated edition by Prentice Hall College Div - November 1991. ISBN 0-02-897255-4.)
  • Luís Amaral & Marcos Soromenho Santos (2002), Costados do Duque de Bragança, Lisboa, Guarda-Mor Edições.
  • Afonso Eduardo Martins Zuquete (dir.)(1989), Nobreza de Portugal e Brasil, vol. I, Lisboa, Editorial Enciclopédia.
  • Jacob Wilhelm Imhof, Stemma Regum lusitanicum sive Historia genealogica Familiae Regiae Portugallicae, Amsterdam, 1708 (reprint http://www.orsinidemarzo.com/en/index.php?m0=pubblicazioni_dettaglio&articolo_id=192&articolo_tipo=ODM).

関連項目

[編集]