コンテンツにスキップ

マシュー・スチュワート (数学者)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マシュー・スチュワートのカラープリント

マシュー・スチュワート: Matthew Stewart (1717-01-15) 1717年1月15日[1] - 1785年1月23日(1785-01-23) )はスコットランド数学者スコットランド国教会教役者[2][3]王立協会フェローエディンバラ王立協会フェロー英語版

経歴

[編集]

ビュート島ロスシー牧師館で、地元の牧師デュガルド・スチュワート(Dugald Stewart)とJanet Bannantyneの間に生まれた[4]

ロスシー・グラマースクールで初等教育を終えた後、1734年にグラスゴー大学に入学し、ロバート・シムソンから古代幾何学を学んだ。パップスへの尊敬の念の一致などから、シムソンとスチュワートには親しい友情が芽生え、結果的にアポロニウスのDe Locis PlanisやエウクレイデスのPorismsへの尊敬を通じたコミュニケーションに繋がった[5]。この交流から、スチュワートは1743年3月からロバート・シムソンの「Apollonii Pergaei locorum planorum libri II」の作成を手伝っていた様子が見られる。

しかしながら、スチュワートの父はスチュワートが聖職者になることを望んだ(当時としては当然の望みだった)。1742,43年、彼はエディンバラ大学で神学を学びつつ、コリン・マクローリンの下で数学を学んだ。1744年3月、ダンウーン英語版のスコットランドの教会の聖職者席を認められ、1年後にダンバートンシャー英語版ロスネース英語版の教役者になった。

1746年のマクローリンの死に従い、エディンバラ大学の数学教授は空席となり、スチュワートは1年後に数学教授となるため教役者を辞めた。彼の作品の中で最も知られる出版物「Some General Theorems of Considerable use in the Higher Parts of Mathematics」は、教授の地位を確保することを助長したとされる[6]。 この本はロバート・シムソンの考えを拡張したもので、作品内の性質IIは現在スチュワートの定理と知られるチェバ線の長さを求める公式となっている[7]。1756年、スチュワートはケプラーの問題を幾何学的に解決する方法をもたらした[8]。また、1761年に惑星の動きと摂動について述べた書籍「Tracts Physical and Mathematical」を、1763年に太陽と地球の距離に関する附録「The Distance of the Sun from the Earth determined by the Theory of Gravity」を出版した。附録では、太陽と地球の距離を25%ほど多く見積もってしまい、スチュワートの幾何学的方法はあまりに単純だとして批判を受けた。

1772年、スチュワートの体調は悪化し始め、エディンバラ大学の教授としての責務は分担されるようになった。その後は息子のデュガルト・スチュワート英語版に引き継がれた。マシューは1775年に教職を辞めたが、エディンバラ大学において、1783年にエディンバラ王立協会英語版の共同創立者になるなど大きな役割を果たした[4]

家族

[編集]


フリーメイソンリー

[編集]

スチュワートはスコットランドのフリーメイソンである。1835年11月28日に第二ロッジ・キルウィニング英語版キャノンゲート英語版で入会した。デュガルトもまた1775年に同ロッジで入会している[11]

死没

[編集]

スチュワートは1785年1月23日、エアシャー英語版キャトリン英語版で没し、エディンバラ中心のグレーフライヤーズ協会墓地英語版に埋葬された。石材の使用に厳しい時代に埋葬されたため、墓標は存在しない。

関連項目

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. {{cite encyclopedia}}: |title=は必須です。 (説明) (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  2. ^ Playfair, John (1788). “Account of Matthew Stewart, D.D.”. Transactions of the Royal Society of Edinburgh 1: 57–76. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=hvd.hwhq6x;view=1up;seq=73. 
  3. ^  "Matthew Stewart". Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900.
  4. ^ a b Biographical Index of Former Fellows of the Royal Society of Edinburgh 1783–2002. The Royal Society of Edinburgh. (July 2006). ISBN 0-902-198-84-X. オリジナルの4 March 2016時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160304074135/https://www.royalsoced.org.uk/cms/files/fellows/biographical_index/fells_indexp2.pdf 9 September 2018閲覧。 
  5. ^ John Playfair, Biographical Account of Matthew Stewart, D.D., Transactions of the Royal Society of Edinburgh, Vol. 1 (1788). The correspondence appears in J.S. Mackay, Mathematical correspondence - Robert Simson, Matthew Stewart, James Stirling, Proceedings of the Edinburgh Mathematical Society, Vol. 21 (1903), pp. 2-39.
  6. ^ Downloadable version available in Google Books.
  7. ^ See video presentation on YouTube”. YouTube. 2021年12月12日時点のオリジナルよりアーカイブ7 October 2020閲覧。
  8. ^ Second volume of the Essays of the Philosophical Society of Edinburgh
  9. ^ Inspiring Physicians | RCP Museum”. history.rcplondon.ac.uk. 7 October 2020閲覧。
  10. ^ Waterston, Charles D.; Macmillan Shearer, A. (July 2006). Former Fellows of the Royal Society of Edinburgh 1783-2002: Biographical Index. II. Royal Society of Edinburgh. ISBN 978-0-902198-84-5. オリジナルの2006-10-04時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20061004113303/http://www.rse.org.uk/fellowship/fells_indexp2.pdf 2010年9月29日閲覧。 
  11. ^ History of the Lodge Canongate Kilwinning, No.2, compiled from the records 1677-1888. By Alan MacKenzie. 1888. P.245.

外部リンク

[編集]