モンモランシー家
モンモランシー家 | |
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貴族 | |
国 | フランス王国 |
創設 | 997年ごろ |
家祖 | ブシャール1世 |
分家 | ラヴァル家 |
モンモランシー家(フランス語:Maison de Montmorency)は、フランスで最も古く著名な貴族の家系の1つである。
起源
[編集]モンモランシーという家名は、993年にラテン語で「Mons Maurentiacus」と記されたペイ・ド・フランスの城に由来している。城の周辺地域の名である「Maurentiacus」は、おそらくガロ・ローマ人の地主の「マウレンティウスの領地」を意味していたとみられる。城の近くで発展したこの村も「Montmorency」としても知られ、パリの北西15km(9マイル)にあり、アンギャン=レ=バンとサン=ドニのすぐ近くにあるヴァル=ドワーズ県モンモランシーの語源となっている[1]。
歴史
[編集]この家は、10世紀にモンモランシー公ブシャール1世として歴史に初めて登場して以来、フランスの6人の軍総司令官と12人の元帥、数人の提督と枢機卿、多数の王家の重臣および様々な騎士団の団長を輩出してきた。フランス王アンリ4世は「もしブルボン家が断絶した場合、モンモランシー家以上にフランスの王冠に値するヨーロッパの一族はいない」と言ったという。ブシャール1世の息子、ティボー・ド・モンモランシーはモンレリ領主家の祖となった[1]。
マチュー1世・ド・モンモランシーは1138年に軍総司令官となり、1160年に死去した。最初の妻はアリス(アリックス)で、イングランド王ヘンリー1世の庶子であった。また、2番目の妻はルイ6世の未亡人でルイ7世の母であるアデル・ド・サヴォワであり、デュシェーヌによると第2回十字軍でルイ7世が不在の間、シュジェールとともにフランスの摂政をつとめたという[1]。
マチュー2世・ド・モンモランシーは、ブーヴィーヌの戦い(1214 年)における勝利に重要な役割を果たした。マチュー2世はブーヴィーヌで12の敵旗を捕獲したため、国王から紋章に12羽の鷲を表示することを許された。また、1218年に軍総司令官に任命された。ルイ8世の治世において、マチュー2世は主に南フランス(ニオール、ラ・ロシェル、ボルドー)で頭角を現した。ルイ9世の即位に際しては、王太后で摂政のブランシュ・ド・カスティーユの主な支援者の一人であり、すべての家臣を従わせることに成功した。マチュー2世は1230年に亡くなった[1]。
マチュー2世の次男、ギーは母親の権利によりラヴァル家を継承した。カナダ最古のフランス語の大学であるラヴァル大学は、大学が誕生した当時のヌーベルフランス初代司教であり、ケベック神学校の創設者であるフランソワ・ド・モンモランシー=ラヴァルにちなんで命名された[1]。
アンヌ・ド・モンモランシーは、代母であったアンヌ・ド・ブルターニュにちなんで名付けられ、1551年に初代モンモランシー公となった[1]。
アンヌの長男フランソワ・ド・モンモランシー(1530年 - 1579年)は、アンリ2世の庶子ディアーヌと結婚した[1]。
もう一人の息子、アンリ1世・ド・モンモランシー(1534年 - 1614年)は、1579年に兄の死後にモンモランシー公となったが、1563年よりラングドック総督を務めた。「Politiques」と呼ばれる党の指導者として、彼はユグノー戦争において重要な役割を果たした。1593年に軍総司令官に任命されたが、フランス王アンリ4世はアンリ1世が君主のようにラングドックを統治していることに不安を感じ、ラングドックからアンリ1世を遠ざけた[1]。
アンリ2世・ド・モンモランシー(1595年 - 1632年10月30日)は、アンリ1世の息子であり、大提督に任命されていたが、1614年に父の公位を継承した。また、ラングドック知事もつとめた。1625年にスービーズ公バンジャマン・ド・ロアン率いるフランスのプロテスタント艦隊を破り、レ島とオレロン島を占領したが、リシュリューの嫉妬によりこの優位な立場を利用する手段を奪われた。1628年から1629年にかけて、アンリ2世はラングドックのロアン公アンリに対峙するため指揮を執ることを許された。1630年にピエモンテ軍を破り、ヴェイッラーネの戦いでカルロ・ドリアを捕らえ、サルッツォを占領した。同年に元帥に任命された。1632年にオルレアン公ガストンの党に加わり、反乱軍の先頭に立ったが、反乱軍はカステルノーダリの戦いにおいてアンリ・ド・ションベール元帥に敗北した(1632年9月1日)。重傷を負ったアンリ2世は敵に捕らえられ、ガストンに見捨てられ、10月30日にトゥールーズで裏切り者として処刑された。公爵位は姉のコンデ公妃シャルロット=マルグリットが継承した[1]。
15世紀にブラバント公領におこったモンモランシー家の分家であるフォスー男爵家からはブットヴィル領主家が誕生し、同家出身で決闘を行ったフランソワ・ド・モンモランシー=ブットヴィルは1627年に斬首された[1]。フランソワの息子、フランス元帥フランソワ・アンリは、ピネー女公マルグリット・ド・リュクサンブールの娘マドレーヌ・ド・クレルモン=トネールとの結婚によりピネー=リュクサンブール公となった[1]。
フランス元帥フランソワ・アンリの息子であるシャルル・フレデリック・ド・モンモランシー=リュクサンブールは、1688年にボーフォール公に、1689年にモンモランシー公に叙爵された[1]。
1767年、ボーフォール=モンモランシー公の称号は結婚によりモンモランシー=フォスー家の別の分家に継承された。この分家は1862年に消滅し、その称号はタレーラン=ペリゴール家に継承され、この分家の2人の相続人のうちの1人と結婚したヴァランセ公が継承した(1864年)。モンモランシー家にはラヴァル領主家など他にも多くの分家があった[1]。
19世紀、アイルランドのモーレス家はモンモランシー家の子孫であると主張した。モーレス家の子孫は、名前を変更する王室の許可を取得し、子孫であると主張し続けた[2]。
系図
[編集]André Du Chesne. Histoire généalogique de la maison de Montmorency et de Laval(1624) およびSteven Runciman. A History of the Crusades, Vol.II, Cambridge University Press (1954) を参照した。
ブシャール1世 モンモランシー領主 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ブシャール2世 モンモランシー領主 | ティボー モンレリ領主 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ブシャール3世 モンモランシー領主 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ティボー モンモランシー領主 | エルヴェ マルリー領主 | ギー1世 モンレリ領主 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ブシャール4世 モンモランシー領主 | ミロン1世 モンレリ領主 | ギー1世 ロシュフォール伯 | メリザンド =ルテル伯ユーグ1世 | イザベル =ジョスラン・ド・クルトネー | アリス =ユーグ1世・デュ・ピュイゼ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マチュー1世 モンモランシー領主 | ギー2世 モンレリ領主 | ミロン2世 モンレリ領主 | ギー3世 ロシュフォール伯 | ユーグ クレシー領主 | リュシエンヌ =フランス王太子ルイ | エルサレム王 | エデッサ伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ブシャール5世 モンモランシー領主 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マチュー2世 モンモランシー領主 フランス元帥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ブシャール6世 モンモランシー領主 | ギー7世 ラヴァル領主 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マチュー3世 モンモランシー領主 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マチュー4世 モンモランシー領主 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マチュー5世 モンモランシー領主 | ジャン1世 モンモランシー領主 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
シャルル1世 モンモランシー領主 フランス元帥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジャック モンモランシー領主 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジャン2世 モンモランシー領主 | アンヌ ラヴァル領主 | ジル・ド・レ フランス元帥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジャン ニヴェル領主 | ルイ フォスー領主 | ギヨーム モンモランシー領主 | ギー14世 ラヴァル領主 | アンドレ・ド・ラヴァル フランス元帥 | マリー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンヌ モンモランシー公 フランス元帥 | ルイーズ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランソワ モンモランシー公 フランス元帥 | アンリ1世 モンモランシー公 フランス元帥 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フィリップ ホールン伯 | シャルロット=マルグリット | アンリ2世 モンモランシー公 フランス元帥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランソワ・アンリ ピネー=リュクサンブール公 フランス元帥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
シャルル1世・フレデリック モンモランシー公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
シャルル2世・フレデリック モンモランシー公 フランス元帥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Lundy, Darryl (15 January 2017). “Reymond Hervey de Montmorency”. The Peerage. p. 34654 § 346534. 2023年8月8日閲覧。
- Mosley, Charles, ed (2003). Burke's Peerage, Baronetage & Knightage. 1 (107th edition, in 3 volumes ed.). Wilmington, Delaware: Burke's Peerage (Genealogical Books). p. 1083
- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Montmorency". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 11 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 787.