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ラウドン伯爵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラウドン伯爵
Earl of Loudoun
創設時期1633年5月12日
創設者チャールズ1世
貴族スコットランド貴族
初代2代卿ジョン・キャンベル
現所有者15代伯サイモン・アブニー=ヘイスティングズ英語版
推定相続人マーカス・アブニー=ヘイスティングズ閣下
付随称号ラウドンのキャンベル卿
タリナン=モウクリン卿
現況存続
4度の女系継承後、現在はアブニー=ヘイスティングズ家が保持

ラウドン伯爵: Earl of Loudoun[ˈldən])は、イギリスの貴族伯爵スコットランド貴族爵位。第2代ラウドンのキャンベル卿ジョン・キャンベル1633年に叙されたことに始まる。度重なる女系継承を経て、現在はアブニー=ヘイスティングズ家が爵位を保持する。

歴史

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初代ラウドン伯爵の肖像画
かつての伯爵家の居城ラウドン城英語版、2003年撮影。
14代ラウドン伯爵。

キャンベル氏族の一員ヒュー・キャンベル(1622年没)は、1601年6月30日スコットランド貴族としてラウドンのキャンベル卿(Lord Campbell of Loudoun)に叙された[1][2]。彼の孫娘マーガレット(1607年没)は同族のジョン・キャンベルと結婚したが、キャンベル卿はこの義理の孫に爵位を譲るべく卿位を退いた[1][3]。ただしジョンが直ちに卿位を襲うことはなく、祖父の死去後の1622年に卿位を継承した。

このジョン・キャンベル(1598–1662)清教徒革命から王政復古期にかけて、同族の長たる初代アーガイル侯爵とともに王党派議会派を両天秤にかけて活動した[4][5]。新王チャールズ1世が1626年に失効法[注釈 1]を定めた際、同法の適用緩和を求めるスコットランド貴族使節団の一人に選ばれた[4]。ジョンはこの時の謁見で国王の知遇を得たのち、1633年に男子への相続を求めるスコットランド貴族爵位のラウドン伯爵(Earl of Loudoun)タリナン=モウクリン卿(Lord Tarrinzean and Mauchline,[təˈriŋən-ənd-ˈmɑːwxlin] )[7]を授けられた[4][3][8]。これが伯爵家の嚆矢で、以降は彼の直系子孫で継承が続く。

初代伯の孫にあたる3代伯ヒュー(1675-1731)スコットランド王国国務大臣を務めた政治家で、1706年3月のイングランド王国との合同交渉ではスコットランド側の交渉委員の一人に選ばれている[9][10]。彼は翌年に一旦爵位を王冠に返上して再叙爵を受け(ノヴォダマス)、伯爵位の継承条件を初代伯爵の両系相続人に変更させている[10][8]。これにより、ラウドン伯爵位は男子相続人を欠いた場合にも女性による襲爵が可能となり、現代まで連綿と続く爵位継承のきっかけとなった。

その子の4代伯ジョン(1705-1782)七年戦争を戦った将軍で、在北米英軍総司令官英語版エディンバラ城代英語版を務めている[11][10]。彼の死後は息子のジェームズが爵位を襲った。

5代伯ジェームズ(1726–1786)には息子がいなかったため、最初の女系継承が発生して一人娘のフローラ(1780–1840)が伯爵位を継承した[8][12]。彼女はアイルランド貴族第2代モイラ伯爵フランシス・ロードン=ヘイスティングズと結婚したため、爵位はヘイスティングズ家に継承されることとなる[12]。なお、夫のモイラ伯爵はインド総督としてゴルカ戦争第三次マラータ戦争を推進した人物で、1816年には連合王国貴族ヘイスティングズ侯爵へと位階を進めている[13][14]。そのため、夫妻の子ジョージは父からヘイスティングズ侯爵やモイラ伯爵を、母からはラウドン伯爵以下のスコットランド貴族爵位を相続している[15]。しかし、2代侯ジョージ(1808–1844)の長男3代侯ポーリン(1832–1851)、次男4代侯ヘンリー(1842–1868)はいずれも夭折したことから、ヘイスティングズ侯爵位を始めとする初代侯の得た爵位・モイラ伯爵位は4代侯の死後に断絶した[15]。この際にラウドン伯爵位は再び女系継承が起こり、4代侯の姉イーディスが爵位を継いでいる。

10代女伯イーディス(1833–1874)は伯爵位継承後の1871年に4代侯の死後保持者不在となっていたイングランド貴族爵位群(ボトリー男爵ハンガーフォード男爵英語版ド・モリンズ男爵英語版ヘイスティングズ男爵英語版)の継承者に確定している[16][17]。なお、彼女の夫チャールズ・クリフトン自身も1880年に連合王国貴族としてドニントン男爵英語版を得ていたことから[18]、夫妻の子チャールズは父からはドニントン男爵位を、母からはラウドン伯爵位やイングランド貴族爵位群を継承した[16][19]

その11代伯チャールズ(1855-1920)は子のないまま死去したことで三度女系継承が発生、弟の娘イーディス・モード英語版が第12代ラウドン伯爵となる[8][19]。他方、ドニントン男爵位は弟が継承し、4つのイングランド貴族爵位は弟の娘3名の間で停止状態となった[19]

しかし、12代女伯イーディス(1883–1960)は一人息子を第二次世界大戦で失ったために[20]、四度目の女系継承が行われた[8]。ラウドン伯爵位はイーディスの長女バーバラ(13代女伯、1919-2002)が継承している。以降は彼女の長男(14代伯マイケル)の系統で存続している[8]

14代伯マイケル(1942-2012)は2004年に Channel 4ドキュメンタリー番組『Britain's Real Monarch英語版』で「英王位の正当な継承者」として取り上げられて反響を呼んだ[注釈 2][21]

その子である15代伯サイモン(1974-)が2021年現在のラウドン伯爵家当主を務めている。

現当主の保有爵位

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現当主である第15代ラウドン伯爵サイモン・マイケル・アブニー=ヘイスティングズ英語版は以下の爵位を有する[8]

  • 第15代ラウドン伯爵(15th Earl of Loudoun)
    1633年5月12日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第15代ラウドンのキャンベル卿(15th Lord Campbell of Loudoun)
    1601年6月30日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第15代タリナン=モウクリン卿[7](15th Lord Tarrinzean and Mauchline)
    (1633年5月12日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)

一覧

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第4代ラウドン伯爵英語版。七年戦争期の軍人として活躍。

ラウドンのキャンベル卿(1601年)

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ラウドン伯爵(1633年)

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爵位の推定相続人は現当主の弟であるマーカス・ウィリアム・アブニー=ヘイスティングズ閣下。

脚注

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注釈

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  1. ^ 1540年以前に王室あるいは教会からスコットランド貴族に対して贈与された土地を対象に遡及的に贈与を取り消す法律。同法では貴族らが土地所有権を維持したい場合、毎年王室に一定の賃料を支払う義務を課したため、国王は貴族から大変な反感を買った[6]
  2. ^ 伯爵家は王族のクラレンス公爵ジョージ・プランタジネットの子孫であり、その兄のエドワード4世には王位継承資格がなかったとした場合、14代伯がイギリス王位の有資格者となる[21]

出典

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  1. ^ a b Heraldic Media Limited. “Campbell of Loudoun, Lord (S, 1601)” (英語). www.cracroftspeerage.co.uk. Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2021年3月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月1日閲覧。
  2. ^ Cokayne 1893, p. 150.
  3. ^ a b Cokayne 1893, p. 151.
  4. ^ a b c Stevenson, David. "Campbell, John, first earl of Loudoun". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/4511 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  5. ^ シセリー・ヴェロニカ・ウェッジウッド英語版 瀬原 義生訳 (2015). 『イギリス・ピューリタン革命 - 王の戦争 (初版 ed.). 京都府京都市: 文理閣. p. 88. ISBN 9784892597510 
  6. ^ 木村, 正俊『スコットランド通史 ―政治・社会・文化』(第1刷)株式会社原書房東京都新宿区、2021年、183頁。ISBN 9784562058433 
  7. ^ a b Pointon, G.E. (1-September-1990). 『BBC Pronouncing Dictionary of British Names』. Oxford Reference (Subsequent ed.). Oxford Univ Pr. p. 237. ISBN 0-19-282745-6 
  8. ^ a b c d e f g Heraldic Media Limited. “Loudoun, Earl of (S, 1633)” (英語). www.cracroftspeerage.co.uk. Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月7日閲覧。
  9. ^ Barker, George Fisher Russell (1886). "Campbell, Hugh" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 8. London: Smith, Elder & Co. pp. 359–360.
  10. ^ a b c Cokayne 1893, p. 152.
  11. ^ Brumwell, Stephen. "Campbell, John, fourth earl of Loudoun". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/4516 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  12. ^ a b Cokayne 1893, p. 153.
  13. ^ Thorne, Roland. "Hastings, Francis Rawdon, first marquess of Hastings and second earl of Moira". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/12568 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  14. ^ 浜渦哲雄『大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか』中央公論新社東京都千代田区、1999年、80-81頁。ISBN 978-4120029370 
  15. ^ a b Heraldic Media Limited. “Hastings, Marquess of (UK, 1817 - 1868)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2019年9月9日閲覧。
  16. ^ a b Cokayne 1893, p. 153-154.
  17. ^ "No. 23793". The London Gazette (英語). 7 November 1871. p. 4553. 2020年6月6日閲覧
  18. ^ "No. 24840". The London Gazette (英語). 30 April 1880. p. 2786. 2021年11月8日閲覧
  19. ^ a b c Arthur G.M. Hesilrige (1921). 『Debrett's peerage, and titles of courtesy, in which is included full information respecting the collateral branches of Peers, Privy Councillors, Lords of Session, etc』. Wellesley College Library. London, Dean. p. 589. https://archive.org/details/debrettspeeraget00unse/page/588/mode/2up 
  20. ^ CWGC. “Casualty Details” (英語). CWGC. 2021年11月7日閲覧。
  21. ^ a b 英国王になるはずだった?男性、オーストラリアで死去”. www.afpbb.com. 2021年11月7日閲覧。

参考文献

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関連項目

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