ラヂミチ族
ラヂミチ[1][2](ラジミチ[3])族(ベラルーシ語: Радзімічы、ウクライナ語: Радимичі、ロシア語: Радимичи)は、9 - 12世紀の年代記(レートピシ)に言及される、スラヴ人の部族あるいは部族連合である。ドニエプル川の上流域からソジ川流域(現ベラルーシ・ホメリ州、マヒリョウ州)にかけての範囲を居住地としていた[4]。
『原初年代記』には、ラヂミチ族はリャフ人(ru)(ポーランド人)より出でてルーシの地に定住し、またルーシ(キエフ大公国)にダーニ(貢税)を支払っているということが記されている。この記述を含め、伝説的にはポーランド由来の部族とみなされているが[5]、その起源に関する定説は打ち出されていない。
歴史
[編集]年代記にはラヂミチ族の名は、その先祖のラヂムという人物に由来すると記されている[6]。また、ラヂムはラヂミチ族の長であり、原ポーランド(年代記上はレヒトィ(ru):リャフ人の地)から来たとされている[7]。年代記には、ラヂミチ族の公(クニャージ)の名は記されていないが[4][注 1]、ラヂミチ族独自の軍隊の存在を示す記述があり、自前の指導者を有した集団であったことは確実である。
年代記上の初出は885年の、キエフ公オレグが支配圏を拡大し、ラヂミチ族がそれまでハザールに対して行っていた税の支払いをやめさせ、新たにダーニ(貢税)を課したという記述である[8]。907年、ラヂミチ族はオレグの軍に加わり、コンスタンティノープルへの遠征(ru)を行った[8]。ラヂミチ族はこのように、しばらくの間キエフの統治下にいたが後に決別し、984年にはキエフ大公ウラジーミル1世のヴォエヴォダ(軍司令官)ヴォルチー・フヴォスト(ru)の軍勢に攻め込まれた[8]。両軍はソジ川支流のペシチャニ川(現スラウハラド付近)で戦闘となり、ラヂミチ族は敗れた。ラヂミチ族の地はキエフ大公国領に組み込まれ、後にチェルニゴフ公国、スモレンスク公国領となった[8]。
ラヂミチ族に関する最後の言及は1169年の記述である[8]。それ以前に、ラヂミチ族の居住範囲において言及されている都市には、クレチュト(現クルィチャウ。1136年)、プラポシャスク(現スラウハラド。1136年)、ゴミー(現ホメリ。1142年)、ロガチョフ(現ラハチョウ。1142年)、チェチェルスク(現チャチェルスク、1159年)がある[注 2]。なお、現在のベラルーシ人の祖先を、ラヂミチ族や隣接するクリヴィチ族・ドレゴヴィチ族らが融合したものであるとする説がある[4][9]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『ロシア史』p17等
- ^ 『世界歴史大系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』p18等
- ^ 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p39等
- ^ a b c Радимичи // ブロックハウス・エフロン百科事典
- ^ 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p40
- ^ 『ロシア史』p20
- ^ Шахматов А. А. Древнейшие судьбы русского племени. — Пг., 1919. — С. 25, 37-39.
- ^ a b c d e Радимичи // ソビエト大百科事典
- ^ 『歴史の狭間のベラルーシ』p6
参考文献
[編集]- ブロックハウス・エフロン百科事典
- ソビエト大百科事典
- 和田春樹編 『ロシア史』山川出版社、2002年
- 伊東孝之・井内敏夫・中井和夫編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 、山川出版社、1998年
- 服部倫卓 『歴史の狭間のベラルーシ』 東洋書店、2004年
- 田中陽兒・倉持俊一・和田春樹編『世界歴史大系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』山川出版社、1995年