七田一郎
七田 一郎 | |
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生誕 |
1886年11月20日 日本 佐賀県 |
死没 | 1957年4月4日(70歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1908年(明治41年) - 1945年(昭和20年) |
最終階級 | 陸軍中将 |
七田 一郎(しちだ いちろう、1886年(明治19年)11月20日[1][2] - 1957年(昭和32年)4月4日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]本籍佐賀県[1][2][3]。東京陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となった[1][4]。1914年(大正3年)9月から11月まで青島の戦いに従軍した[1]。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業した[1][2][3]。
歩兵第46連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員を歴任[1]。1922年(大正11年)4月から一年間、陸軍委託学生として東京外国語学校でフランス語を学んだ[1]。歩兵第1連隊大隊長、教育総監部課員、陸軍歩兵学校教官、陸軍省人事局課員を歴任し、1931年(昭和6年)5月から11月までフランスに出張した[1]。
1932年(昭和7年)8月、歩兵大佐となり歩兵第22連隊長に就任[1][3]。教育総監部第2課長を経て、1937年(昭和12年)3月、陸軍少将に進級[1][3]。歩兵第24旅団長、陸士幹事を歴任し、1939年(昭和14年)8月、陸軍中将に昇進[1][2][3]。翌月、第20師団長に親補された[1][2][3]。太平洋戦争を陸軍予科士官学校長として迎えた[1][2][3]。駐蒙軍司令官、第2軍司令官、参謀本部付、陸軍科学学校長、兼陸軍戸山学校長を歴任し、1945年(昭和20年)4月、予備役に編入された[1][2][3]。同月、召集を受け第56軍司令官となり[1][2][3]、九州飯塚で本土決戦に備えていたが終戦を迎えた[2]。西部軍管区司令部付を経て、1945年12月、召集解除となった[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
栄典
[編集]- 位階
- 1909年(明治42年)3月1日 - 正八位[6]
- 1912年(明治45年)3月1日 - 従七位[7]
- 1917年(大正6年)3月20日 - 正七位[8]
- 1922年(大正11年)4月20日 - 従六位[9]
- 1927年(昭和2年)5月16日 - 正六位[10]
- 1937年(昭和12年)5月1日 - 正五位[11]
- 外国勲章佩用允許
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、79頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官辞典』365-366頁。
- ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』254頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』251、254頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」138頁。
- ^ 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。
- ^ 『官報』第8608号「叙任及辞令」1912年3月2日。
- ^ 『官報』第1389号「叙任及辞令」1917年3月22日。
- ^ 『官報』第2913号「叙任及辞令」1922年4月21日。
- ^ 『官報』第151号「叙任及辞令」1927年7月1日。
- ^ 『官報』第3101号「叙任及辞令」1937年5月8日。
- ^ 「畑俊六外七十二名」 アジア歴史資料センター Ref.A10113475800
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。