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中野忠利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中野又兵衛忠利(幼名は阿槌曽知という。慶長3年(1598年12月30日) 織田家にて旗本武将、弓衆頭。尾張国熱田の田島で死去した織田方の武将である。

法名は学雲宗参居士。妻は那古野城主の今川氏豊息女。主な功績は、小豆坂の合戦にて七本槍にて諸功名は信長公記にて。最高知行は二千貫。中野一安、中野重吉(徳川家家臣)らは中野又兵衛と称しているが中野又兵衛忠利とは別人である。

嫡子

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  • 中野藤左衛門秀盛(赤堀藤太郎秀基)は伊勢国赤堀村居住にて、伊勢国の中野城主及び西坂部城主を兼任する。織田家家臣となり、豊臣家の滅亡後に阿波国徳島藩蜂須賀家に300石(大坂の陣で功名50石加増)で客分仕となる。隠居後は剃髪し高野山の光明院仕。元和年間に光明院で死去した。法名は即空覚心大居士である。

中野又兵衛忠利の子孫

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  • 子孫系図は次の通りである。中野藤左衛門秀盛(中野藤太郎→赤堀新左衛門秀重(従来の家名に変更する)→赤堀所右衛門重克→赤堀五郎兵衛重為→赤堀所右衛門重元→赤堀弁次良亮→赤堀伊勢助良郷→赤堀郷次郎秀村→赤堀弁次清武→赤堀岩太郎能孝→赤堀真之助古壽→赤堀 真。
  • 中野藤左衛門秀盛(赤堀藤太郎)は、織田家武将、滝川一益の与力として天目山の戦い田野合戦)で、武田勝頼家臣の首2つを討ち功名を称えられ、信州会田内に200貫の知行を与えられる。

参考文献

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  • 客観的な公的実証史料(古文書)
  • 東京大学史料編纂所(影写史料所蔵)
  • 赤堀真、赤堀幸男所蔵(中野文書)
  • 蜂須賀家所蔵(藩士成立書