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伊居太神社 (尼崎市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊居太神社

拝殿
所在地 兵庫県尼崎市下坂部4丁目13-26
位置 北緯34度44分50.2秒 東経135度26分1.6秒 / 北緯34.747278度 東経135.433778度 / 34.747278; 135.433778座標: 北緯34度44分50.2秒 東経135度26分1.6秒 / 北緯34.747278度 東経135.433778度 / 34.747278; 135.433778
主祭神 武甕槌神
天児屋根命
經津主神
姫大神
社格 式内社(小)論社
創建 (伝)第16代仁徳天皇77年
本殿の様式 春日造
例祭 10月9日
地図
伊居太神社の位置(兵庫県内)
伊居太神社
伊居太神社
伊居太神社 (兵庫県)
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伊居太神社(いこたじんじゃ)は、兵庫県尼崎市下坂部にある神社

摂津国河辺郡式内社伊居太神社論社の1つ(もう1つは池田市伊居太神社(いけだじんじゃ))。

祭神

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歴史

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坂合部氏の居住地で、氏族の首長大彦命及びその後胤を祀る神社であったが、藤原氏が支配した際に春日大社勧請したと信じられる。[1]

「大阪府全志」には池田市の伊居太神社式内社とし、川辺郡小坂田村(現伊丹市)から豊能郡遷座したとする。 これは「摂津志」の説に依拠するもので、そもそも「条里制から見ても豊島郡で川辺郡でないから神名帳は郡を誤っている」[2]との指摘もある。

『兵庫縣神社誌』に「大阪府豊能郡池田町の伊居太神社は、呉織里の呉織祠のあるところ。中古同地方の繁栄にともない、穴織大神を祀る当社を同町の入口に遷座して産土神と仰ぎ、呉織祠の御旅所と定め、いつしか呉織祠を伊居太神社と混称するに至る」とあり[3]、旧地名でいえば当地に鎮座する伊居太神社の方が該当する。

平成7年(1995年)1月の阪神・淡路大震災で社殿等が倒壊し、平成11年(1999年)4月に新社殿等が再建された。

伊居太古墳

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伊居太古墳
所在地 兵庫県尼崎市下坂部4丁目
位置 北緯34度44分49.70秒 東経135度26分1.70秒 / 北緯34.7471389度 東経135.4338056度 / 34.7471389; 135.4338056 (伊居太古墳)
形状 前方後円墳
規模 墳丘長92m
埋葬施設 不明
築造時期 5世紀
史跡 なし
特記事項 墳丘は非現存
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伊居太古墳(いこたこふん)は、伊居太神社境内にあった古墳。形状は前方後円墳。現在では墳丘は失われている。

墳形は前方後円形で、前方部を南方向に向けた。墳丘の規模は次の通り(1963年昭和38年)の測量調査値)[4]

  • 墳丘長:約92メートル
  • 後円部 直径:約46メートル
  • 前方部 幅:約53メートル

墳丘長は尼崎市内では最大規模になる[5]。墳丘の周囲には周濠が巡らされており、幅約20メートルを測る[4]。出土遺物は知られていない[5]

この伊居太古墳は、古墳時代中期の5世紀末頃の築造と推定される[4]。被葬者は明らかでないが、伊居太神社側では坂合部連(坂合部氏)の氏族祖神の墳墓とし、この墳墓上に神社が建立されたとする[6]。前方部の南側にはかつてサムライ塚・白馬塚という2塚があり、伊居太古墳の陪塚であったとも伝える[6]

なお、現在までの発掘調査では伊居太古墳が確かに古墳であるとする積極的証拠は得られていない[7]

遺跡歴

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  • 1950年昭和25年)、後円部中央における試掘調査。明確な遺構・遺物の確認はなし[4]
  • 1963年(昭和38年)、測量調査[4]
  • 1965年(昭和40年)以降の区画整理事業で、周濠部分が大きく改変[4]
  • 近年、周濠推定地における発掘調査。遺構・遺物の確認はなし[4]

交通アクセス

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脚注

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  1. ^ 伊居太神社 「沿岸と由来」(1999)
  2. ^ 志賀 剛「式内社の研究 第3巻」 (1977)全国書誌番号:77010794
  3. ^ 吉井貞俊 「式内社調査報告 第5巻」 (1977)全国書誌番号:78005760
  4. ^ a b c d e f g 伊居太古墳(続古墳) 2002.
  5. ^ a b 伊居太古墳(尼崎市ホームページ)。
  6. ^ a b 神社由緒書。
  7. ^ 『古墳時代の猪名川流域 -猪名川流域に投影された畿内政権の動静-(池田市立歴史民俗資料館平成22年度特別展)』池田市立歴史民俗資料館、2010年。

参考文献

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外部リンク

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