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伊東長久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊東長久
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文2年(1533年[1]
死没 天正13年8月(1585年
改名 祐之/祐久(初名)→ 長久
別名 編笠清蔵、伊東七蔵、伊東清蔵
通称:七蔵、清蔵、法名:善眞[2]
主君 織田信長羽柴秀吉
氏族 伊東氏岩倉伊東家[4]
父母 父:伊東祐元(若狭守)
兄弟 武兵衛長久
川崎氏
長実、女(平野道茂[5]室)
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伊東 長久(いとう ながひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将赤母衣衆の一人。備中伊東氏岡田藩主家の祖。は初め祐之(すけゆき)[3]、『寛政譜』では祐久(すけひさ)[6]で、後に織田信長より偏諱を賜って長久に改める。通称は七蔵とも清蔵ともいい、七蔵と清蔵は別人との説もあるが、谷口克広は同一人物としている[3]

生涯

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若狭守の子[1]武兵衛は兄。一族はもともと相模国の出身だが、祖父の長時の頃に尾張岩倉に移住し、祐之はかなり早くに織田信長に仕えた。堀田左内城戸少左衛門と共に「鑓三本」に数えられた槍の名手[7]

天文21年(1552年)、尾張三本木村(萱津の戦い)では、兜をつける隙きも無く編笠をかぶって奮戦したことで、信長より「編笠清蔵」の異名で呼ばれたと伝わる[8][1]

永禄年間に選抜された信長の母衣衆では赤母衣衆に選抜された[3]

元亀元年(1570年)の小谷城攻めで活躍し、信長から一字拝領を受けて長久と改めた[9]

天正元年(1573年)8月からの小谷城の戦いの終盤には、羽柴秀吉の配下として参戦[1]。この戦闘では刀、脇差などを紛失しながらも無刀で三人を討ったという[8]。その後も羽柴秀吉に従い、同年9月、秀吉の腰母衣衆に選ばれ、旗奉行ともなる[8][1]

天正12年(1584年)の小牧の戦いに従軍した[10]。秀吉本陣の備えとして佐久間忠兵衛、真野助宗、池田与左衛門、速水守久、佐藤主計頭、尼子六郎左衛門と共に小姓組七手の合計4,000を率いた[11]

天正13年(1585年)8月、佐々成政に対する越中征伐に従軍したが、加賀国金沢城で病死したという[8][12]。死地は金沢ではなく小松ともいう[1]。享年53[1]

跡を継いだ子の長実は岡田藩初代藩主となり、子孫は明治維新まで一貫して岡田藩主を務め華族子爵)に列せられている。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 高柳 & 松平 1981, p. 23.
  2. ^ 堀田 1923, p. 696.
  3. ^ a b c d e f g h i 谷口 1995, p. 59.
  4. ^ 姓は「堀江」とも称したという[3]
  5. ^ 茂右衛門。豪商で豊臣秀吉の河内代官も務めた末吉利方の弟・平野道忠の子。
  6. ^ 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第5輯』國民圖書、1923年、696頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/357 国立国会図書館デジタルコレクション 
  7. ^ 信長公記』による[3]
  8. ^ a b c d 武家事紀』による[3]
  9. ^ 『小川栄一氏文書』による[3]
  10. ^ 『浅野家文書』による[3]
  11. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本古文書. 家わけ第2 (浅野家文書)』東京帝国大学、1906年、37頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994445/42 国立国会図書館デジタルコレクション 
  12. ^ 賤ヶ岳の戦いの途上で病死したというのは誤伝[3]

参考文献

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  • 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、59頁。ISBN 4642027432 
  • 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、23頁。