住木諭介
住木 諭介(すみき ゆすけ、1901年〈明治34年〉2月10日 - 1974年〈昭和49年〉9月11日)は、日本の農芸化学者。農学博士。元東京大学農学部学部長、元理化学研究所副理事長。東京大学名誉教授、日本農芸化学会名誉会員。
略歴
[編集]新潟県新潟市東堀前通6番町(現 新潟市中央区東堀前通6番町)の旅館「室長(むろちょう)」[注 1]の長男として出生[1]。
1919年(大正8年)3月に新潟中学校を卒業、1922年(大正11年)3月に新潟高等学校を卒業[2]、1925年(大正14年)3月に東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業、1929年(昭和4年)3月に東京帝国大学農学部大学院を修了[3][注 2]。
1929年(昭和4年)4月に東京帝国大学農学部農芸化学科(主任:鈴木梅太郎)副手に就任[4]、1932年(昭和7年)9月に東京帝国大学農学部農芸化学科助手に就任、1936年(昭和11年)8月に東京帝国大学農学部農芸化学科助教授に就任[3]。
1938年(昭和13年)に藪田貞治郎とともに稲の馬鹿苗病菌の培養液から植物ホルモンの「ジベレリン」を結晶化させることに成功した[5][6]。
1944年(昭和19年)に大日本帝国陸軍から抗生物質のペニシリン(碧素)を生産するための研究を依頼され、藪田貞治郎、坂口謹一郎、朝井勇宣たちとともに研究した[7][8][9]。
1946年(昭和21年)12月に東京帝国大学農学部農芸化学科農芸化学第四講座[注 3]教授に就任、1949年(昭和24年)に東京大学農学部農芸化学科農産製造学講座[注 4]教授に就任[注 5]、1950年(昭和25年)にブラジルとアメリカに出張[10]、1953年(昭和28年)に理化学研究所[注 6]抗生物質研究室初代主任研究員に就任[4][注 7]、1957年(昭和32年)11月に東京大学農学部学部長に就任[3][注 8]。
1958年(昭和33年)にいもち病の防除に有効な世界初の農薬用の抗生物質の「ブラストサイジンS」を発見した[6][12]。
1961年(昭和36年)3月に東京大学を定年退官、5月に東京大学名誉教授の称号を受称、1962年(昭和37年)10月に理化学研究所副理事長に就任[3][注 9]。
食糧不足の日本の食糧の増産と安定供給のため、新農薬の開発を目指し、理化学研究所に、1962年(昭和37年)から1970年(昭和45年)まで、9年間に9研究室の農薬研究部門を編成した[14]。
1974年(昭和49年)9月11日午前6時45分に東京大学医学部附属病院で胃癌のため死去[15]。
日本の抗生物質研究の先駆者で、それまで農薬に使用されていた有機水銀の代わりに、抗生物質を世界で最初に農薬として実用化した[15][16][17]。
役職
[編集]- 1949年(昭和24年) 1月 - 日本学術会議会員[3][10] - 1951年(昭和26年)1月
- 1951年(昭和26年) 6月 - 国立遺伝学研究所評議員[10]
- 1958年(昭和33年)12月 - 微生物化学研究所理事[18]
- 1961年(昭和36年) 4月 - 日本農芸化学会会長 - 1963年(昭和38年)3月[19]
- 1962年(昭和37年)10月 - 理化学研究所副理事長 - 1970年(昭和45年)6月[13]
- 1963年(昭和38年) 1月 - 日本抗生物質学術協議会理事長 - 1970年(昭和45年)5月[20][21]
- 1965年(昭和40年) 9月 - 植物化学調節研究会会長 - 1974年(昭和49年)9月[22]
- 1965年(昭和40年)11月 - 日本食品照射研究協議会会長[23]
- 1966年(昭和41年) 1月 - 日本農学会会長 - 1969年(昭和44年)12月[3][24]
表彰
[編集]- 1946年(昭和21年)10月 - 報公賞「稲馬鹿苗病菌の生化学的研究」[25]
- 1952年(昭和27年) 4月 - 日本農学賞「抗生物質に関する研究」[26]
- 1960年(昭和35年) 7月 - 藤原賞「ジベレリンの研究」[27]
- 1963年(昭和38年) 5月 - 日本学士院賞「Blasticidin Sに関する研究」[5][28]
親族
[編集]著作物
[編集]著書
[編集]- 『植物ホルモン』河出書房〈科学新書 46〉、1943年。
- 『ペニシリン』産業図書、1946年。
- 『味の化學』創元社〈科学の泉 20〉、1948年。
- 『食品製造要覽』技報堂、1951年。
- 『抗生物質 上巻』東京大学出版会、1961年。
- 『抗生物質 下巻』東京大学出版会、1961年。
- 『抗生物質 補遺 I』東京大学出版会、1970年。
- 『抗生物質 補遺 II』東京大学出版会、1970年。
編書
[編集]校閲書
[編集]- 『農產物利用學』谷田澤道彦[著]、経営評論社、1950年。
論文
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1955年(昭和30年)10月1日の新潟大火で焼失して新潟県新潟市上大川前通5番町(現 新潟市中央区上大川前通5番町)に移転。
- ^ 1932年(昭和7年)6月に東京帝国大学から農学博士号を取得。
- ^ 1954年(昭和29年)に有機化学講座に改称。
- ^ 1954年(昭和29年)に農産物利用学講座に改称。
- ^ 1953年(昭和28年)から1956年(昭和31年)まで農芸化学第四講座(1954年〈昭和29年〉から有機化学講座)を兼任。
- ^ 1948年(昭和23年)3月1日から1958年(昭和33年)10月20日までは「科学研究所」。
- ^ 東京大学農学部農芸化学科教授および東京大学応用微生物研究所教授を兼任[4][11]、1962年(昭和37年)10月に退任。
- ^ 1960年(昭和35年)11月に退任。
- ^ 1970年(昭和45年)6月に退任[13]。
出典
[編集]- ^ 『新潟県大百科事典 別巻』232頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1060頁。
- ^ 『THE JAPANESE JOURNAL OF ANTIBIOTICS』第27巻第5号、705頁。
- ^ a b c d e f 『日本農芸化学会誌』第48巻第11号、viii頁。『植物の化学調節』第9巻第2号、巻頭。
- ^ a b c 『Discussion Paper No. 50』27頁。
- ^ a b 専攻・専修のなりたち|東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻/応用生命工学専攻
- ^ a b 『日本人名大辞典』1027頁。『日本大百科全書 13 すけ-せん』186頁。
- ^ 『化学と生物』第22巻第9号、568頁。『化学と生物』第22巻第9号、601-602頁。
- ^ 『事典 日本の科学者 科学技術を築いた5000人』436頁。
- ^ 『年次学術大会講演要旨集』第24巻、811頁。
- ^ a b c 『第十六版 人事興信錄 上』す40頁。
- ^ 『Discussion Paper No. 50』62頁。『高分子』第6巻第9号、453頁。
- ^ 『20世紀日本人名事典 あ〜せ』1384頁。
- ^ a b 「第III編 資料」11頁。『理化学研究所百年史』
- ^ 『Discussion Paper No. 50』30-31頁。『理研精神八十八年』208-216頁
- ^ a b 『新潟日報』1974年9月12日付夕刊、7面。
- ^ 『Discussion Paper No. 50』31頁。『化学と生物』第13巻第6号、376頁。
- ^ 住木・梅澤記念賞 概要 - 公益財団法人日本感染症医薬品協会
- ^ 『THE JOURNAL OF ANTIBIOTICS, SERIES B』第12巻第3号、225頁。
- ^ 歴代会長一覧 | 公益社団法人 日本農芸化学会
- ^ 歴代理事長 - 本協会のご紹介 - 公益財団法人日本感染症医薬品協会
- ^ 『THE JAPANESE JOURNAL OF ANTIBIOTICS』第27巻第5号、706頁。
- ^ 歴代会長 | 一般社団法人植物化学調節学会
- ^ 原子力年表 (1895〜2006年) (PDF) - 日刊工業新聞社
- ^ 歴代会長・副会長 - 日本農学会
- ^ 「報公賞」歴代授賞者および授賞の業績 (PDF) - 服部報公会
- ^ 日本農学賞受賞者 - 日本農学会
- ^ 藤原賞受賞者 - 藤原科学財団
- ^ 恩賜賞・日本学士院賞・日本学士院エジンバラ公賞授賞一覧|日本学士院
参考文献
[編集]- 「住木諭介先生の逝去を悼んで」『日本農芸化学会誌』第48巻第11号、vii-viii頁、田村三郎[著]、日本農芸化学会、1974年。
- 「住木諭介先生の逝去を悼んで」『植物の化学調節』第9巻第2号、巻頭、植物化学調節研究会、1974年。
- 「本協議会前理事長 住木諭介先生を追悼して」『THE JAPANESE JOURNAL OF ANTIBIOTICS』第27巻第5号、705-706頁、米原弘[著]、日本抗生物質学術協議会、1974年。
- 「座談会 「化学と生物」誌の歩みをめぐって 住木諭介先生をしのぶ」『化学と生物』第13巻第6号、368-376頁、松居宗俊・田村三郎・古賀正三・中村道徳[談]、日本農芸化学会、1975年。
- 「住木諭介氏」『新潟日報』1974年9月12日付夕刊、7面、新潟日報社、1974年。
- 「住木諭介」『新潟県大百科事典 別巻』232頁、渡辺秀英[著]、新潟日報事業社[編]、新潟日報事業社、1977年。
- 「住木諭介」『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1060頁、渡辺秀英[著]、新潟日報事業社出版部[編]、新潟日報事業社出版部、1984年。
- 「住木諭介」『事典 日本の科学者 科学技術を築いた5000人』436頁、板倉聖宣[監修]、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2014年。
- 「住木諭介」『20世紀日本人名事典 あ〜せ』1384頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2004年。
- 「住木諭介」『日本人名大辞典』1027頁、上田正昭・西澤潤一・平山郁夫・三浦朱門[監修]、講談社、2001年。
- 「住木諭介」『日本大百科全書 13 すけ-せん』186頁、佐藤七郎[著]、小学館、1987年。
- 「住木諭介」『第十六版 人事興信錄 上』す40頁、人事興信所[編]、人事興信所、1951年。
- 「わが国の抗生物質研究」『化学と生物』第22巻第9号、568-575頁、大岳望[著]、日本農芸化学会、1984年。
- 「私の“転機”」『化学と生物』第22巻第9号、598-603頁、坂口謹一郎[著]、日本農芸化学会、1984年。
- 「ローカルな科学のグローバルな奮闘 農芸化学のユニークネスに関する一考察」『年次学術大会講演要旨集』第24巻、808-811頁、上野彰[著]、研究・技術計画学会、2009年。
- 「長い歴史を持つラボラトリーの系譜学的検討」『年次学術大会講演要旨集』第23巻、256-259頁、上野彰・永田晃也[著]、研究・技術計画学会、2008年。
- 『長い歴史を持つラボラトリーの組織的知識に関する研究 ラボラトリーの系譜学的検討 事例1』上野彰[著]、文部科学省科学技術政策研究所、2008年。
- 「研究所だより 東京大学応用微生物研究所」『高分子』第6巻第9号、453頁、高分子学会、1957年。
- 「日本抗生物質学術協議会記事 LXXIII」『THE JOURNAL OF ANTIBIOTICS, SERIES B』第12巻第3号、221-229頁、日本抗生物質学術協議会、1959年。
- 「第3章 農薬研究 新農薬創製に向けて (PDF) 」「第II編 科学技術史に輝く理研」『理研精神八十八年』207-223頁、理化学研究所史編集委員会[編]、理化学研究所、2005年。
- 「役員・所長・センター長一覧 (PDF) 」「第III編 資料」11-14頁、『理化学研究所百年史』理化学研究所百年史編集委員会[編]、理化学研究所、2018年。
関連文献
[編集]- 「旅人宿 室長」『北越商工便覽』川﨑源太郎[著]、龍泉堂、1889年。
- 「旅人宿 室長」『北越商工便覽』川﨑源太郎[著]、龍泉堂、1889年。
- 「創刊のことば」『化学と生物』第1巻第1号、1頁、住木諭介[著]、日本農芸化学会、1962年。
- 「発刊のことば」『食品照射』第1巻第1号、1-2頁、住木諭介[著]、日本食品照射研究協議会、1966年。
- 「故人を偲ぶ」『日本釀造協會雜誌』第69巻第10号、659頁、山田正一[著]、日本醸造協会、1974年。
- 「歴史は語る」『日本釀造協會雜誌』第70巻第7号、484頁、山田正一[著]、日本醸造協会、1975年。
- 「編集後記」『植物の化学調節』第9巻第2号、131頁、植物化学調節研究会、1974年。
- 「住木諭介教授を悼む」『新潟日報』1974年9月19日付朝刊、12面、坂口謹一郎[著]、新潟日報社、1974年。
- 「竹松哲夫 一雑草学者の足跡 除草剤処理層理論の確立の過程」『科学の先端を拓く 一人一話集』207-214頁、竹松哲夫[著]、松尾学術振興財団 松尾研究会[編]、科学新聞社出版局、2004年。
外部リンク
[編集]- 住木諭介 - 20世紀日本人名事典 - コトバンク
- 住木諭介 - デジタル版 日本人名大辞典+Plus - コトバンク
- 住木諭介 - 日本大百科全書(ニッポニカ) - コトバンク
- 住木・梅澤記念賞 - 公益財団法人日本感染症医薬品協会
学職 | ||
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先代 森高次郎 |
日本農芸化学会会長 第33代:1961年 - 1963年 |
次代 片桐英郎 |
先代 小島三郎 |
日本抗生物質学術協議会理事長 第4代:1963年 - 1970年 |
次代 梅澤濱夫 |
先代 設立 |
植物化学調節研究会会長 初代:1965年 - 1974年 |
次代 塚本洋太郎 |
先代 設立 |
日本食品照射研究協議会会長 初代:1965年 - 197?年 |
次代 小原哲二郎 |
先代 平塚英吉 |
日本農学会会長 第7代:1966年 - 1969年 |
次代 越智勇一 |