内藤政義
表示
内藤政義 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文政3年3月3日(1820年4月15日) |
死没 | 明治21年(1888年)11月18日 |
改名 | 直恭(初名)、政義 |
別名 | 帯刀(通称) |
戒名 | 興徳院行誉立道常山居士 |
墓所 | 東京都港区の青山霊園 |
官位 | 従五位下能登守、右近将監 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶→家定→家茂 |
藩 | 日向延岡藩主 |
氏族 | 井伊氏(掃部頭家)→内藤氏 |
父母 |
父:井伊直中、母:中島氏 養父:内藤政順 |
兄弟 | 井伊直清、穠姫、某、井伊直亮、鋭三郎、亀五郎、知、井伊中顕、充、秩、中川久教、政成、芳、松平勝権、新野親良、井伊直元、横地義之、政優、井伊直弼、政義 |
妻 |
正室:溝口直諒の3女・豊姫 継室:立花鑑賢の娘 |
子 | 養子:政挙 |
内藤 政義(ないとう まさよし)は、日向国延岡藩の第7代藩主。延岡藩内藤家宗家12代。
生涯
[編集]近江彦根藩主・井伊直中の15男。井伊直弼(直中の14男)の異母弟に当たる。
文政3年(1820年)3月3日に生まれ、彦根での元服後の初名は直恭といった。天保5年(1834年)7月、藩主であった兄・直亮(直中の3男)の招きで、兄・直弼とともに彦根から江戸へ赴く。嗣子のいなかった延岡藩主・内藤政順の養子候補者に挙げられたためである。その結果、選ばれた直恭は政順と養子縁組し、政義と改名した。なお、直弼は翌年8月に彦根へ帰国し、以後は長らく部屋住みとなった。
天保5年(1834年)10月13日、養父・政順の死去により、家督を相続した。同年12月、従五位下能登守に叙任された。藩政においては天保12年(1841年)、嘉永元年(1848年)の相次ぐ飢饉における救済対策、軍制改革、学制改革、新田開発などの改革に従事している。嘉永3年(1850年)、藩校学寮を「廣業館」と改称した。
文久2年(1862年)10月24日、養嗣子の政挙に家督を譲って隠居した。
明治21年(1888年)11月18日に69歳で死去した。
系譜
[編集]父母
正室、継室
養子