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利用者:Muji tv/test

Muji tv/test
原語表記 川崎フロンターレ
愛称 フロンターレ、イルカ
クラブカラー     サックスブルー
    ブラック
    ホワイト
創設年 1955年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン Jリーグ ディビジョン1(J1)
ホームタウン 神奈川県川崎市
ホームスタジアム 等々力陸上競技場
収容人数 25,000
運営法人 株式会社川崎フロンターレ
代表者 武田信平
監督 日本の旗相馬直樹
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
株式会社川崎フロンターレ
Kawasaki Frontale Co., Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 213-0013
神奈川県川崎市高津区末長1331-1
設立 1996年11月21日
業種 サービス業
事業内容 サッカークラブ運営
代表者 武田信平
資本金 349,375,000円
売上高 36億0,400万円(2010年1月期)
営業利益 6,100万円(2010年1月期)
純利益 600万円(2010年1月期)
決算期 1月期
主要株主 富士通
外部リンク  http://www.frontale.co.jp
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川崎フロンターレ(かわさき - 、Kawasaki Frontale)は、日本神奈川県川崎市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するサッカークラブ。

クラブ概要

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1955年に富士通サッカー部として設立。1997年にJリーグへ準会員加盟し、1999年に同正式加盟。ホームタウン神奈川県川崎市。ホームスタジアムは中原区等々力陸上競技場。練習は同市内麻生区川崎フロンターレ麻生グラウンドを使用する。

チーム名の「フロンターレ (Frontale)」はイタリア語で「正面の、前飾り」を意味し、常に最前線で挑戦し続けるフロンティアスピリッツ、正面から正々堂々と戦う姿勢を表している。ちなみに富士通にはアメリカンフットボールチームの富士通フロンティアーズXリーグ所属。1985年創設・チーム名制定)、女子バスケットボール富士通レッドウェーブWリーグ・1985年創部)、富士通カワサキレッドスピリッツV・チャレンジリーグ男子)があり、すべて川崎市を本拠地としている。

歴史

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1955年 - 1996年(前身)

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富士通サッカー部は中原区の国鉄(現東日本旅客鉄道南武線武蔵中原駅前にある川崎工場の従業員を中心に設立され、1967年の関東サッカーリーグ発足時のオリジナルメンバーとなった。1972年日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格し、1976年にはGKで主将を務めた小浜誠二の活躍もあって同1部に昇格した。しかし1部からは2年後に降格し、その後はJSL2部での活動が続いた。この1部昇格時を含む1973年から1991年は八重樫茂生が監督または総監督を務め(中断期を含む)、富士通サッカー部の基礎を築いた。

Jリーグとしてのトップリーグのプロ化には参加せず、1992年からは企業内チームのままジャパンフットボールリーグ(JFL)へ参加。1988-1995年には元中国代表の沈祥福2002年W杯中国代表コーチ、2004年アテネ五輪予選中国代表監督)が選手・コーチとして活躍し、他チームのプロ化が進むJFLで中位の維持に貢献した。外国人選手を除くと大学のサッカー部からの選手補強が多く、選手は富士通所属の社員選手となってアマチュア契約でプレーをしていた。

等々力や大和などで主催試合を行い、特にホームタウンを決めずに活動を続ける富士通を母体としたJリーグクラブ創設に動き、川崎市をホームタウンにJリーグ参加を決定した。沈が中国へ帰国し、1983-1989年に選手として富士通サッカー部でプレーした城福浩が監督となった1996年シーズンにクラブは「富士通川崎サッカー部」へ改称、11月21日に「富士通川崎スポーツ・マネジメント」を設立しチームを法人化。クラブは9位に終わったチームの実力を引き上げて翌年のJFLでJリーグ昇格条件の2位以内に入るための大型補強を開始すると共に、ブラジルの名門サッカークラブ・グレミオとの業務提携を行う事も発表した。ちなみに、現在のチームカラーが水色と黒なのは、グレミオのチームカラーを模した名残である。また、この年の第76回天皇杯では3回戦でジェフユナイテッド市原を下し、初めて公式戦でJリーグのクラブを倒した。城福は翌シーズンの続投を希望したが容れられず、富士通の社業に専念する事になった[1]

1997年 - 1999年(JFL -J2)

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川崎フロンターレ試合風景 (2006年11月26日)

1997年、クラブは現在のチーム名へ改称、Jリーグ準会員と認められ、1976年のJSL1部昇格の中心だった小浜が常務として事実上の責任者となった。クラブは富士通からの豊富な資金力を利用して多くの選手をJリーグの各クラブから獲得し、1年でのJリーグ昇格を目指したが、1997年はわずか勝ち点1の差で、1998年はJ1参入決定予備戦の末に昇格を逃した。

1999年はJ2リーグ (J2) で開幕を迎え、前年の昇格失敗でも契約を延長したベット監督のチームは序盤で出遅れた。しかし、松本育夫が監督に就任すると一気に盛り返し、11月5日のサガン鳥栖戦(等々力)に勝利してJ1昇格を決めた(11月8日にはJ2優勝も決定)。また、この年には初のマスコットとしてふろん太が発表され、5月には練習場が東京都稲城市にある富士通南多摩工場の敷地内の「富士通南多摩グラウンド」(2005年の工場閉鎖後に稲城市営南多摩スポーツ広場に移管・改称)から、川崎市麻生区片平にある麻生グラウンド(旧・大東学園高等学校グラウンド)に移転。さらに市内全体での広報活動を強化し、川崎市も市民後援会を発足させた。

2000年 - 2004年(J1 - J2)

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2000年はゼッカが監督に就任。パラグアイ代表アルバレンガ、元日本代表森山泰行等を獲得したが、従来の選手と新加入選手との融合が全く図れず、結局J1の年間総合順位では最下位(16位)となり、わずか1年でJ2へ降格した。しかし、リーグ戦では不振を極めた一方、ヤマザキナビスコカップでは鹿島に次ぐ準優勝となり、入団2年目のFW我那覇和樹が優秀新人賞を獲得した。

2001年、クラブでは経営陣のトップが一新された。J2降格により富士通からの支援資金が削減される中、運営会社名を「富士通川崎スポーツマネジメント」から「株式会社 川崎フロンターレ」へ変更し、川崎市や他企業およびサポーター持株会などからの資本受け入れた。また、川崎市も資本参加に本格的に乗り出し、他方で市民後援会とフロンターレファンクラブを統合した。

同年監督に就任した堀井美晴は前半戦のみで解任され、シーズン後半の7月からは石崎信弘が監督に就任した。石崎はプレス戦術を浸透させ、天皇杯では好結果を残すが、結果的に3年連続でJ1昇格に失敗して2003年に職を辞した。

2004年、石崎の後任監督として鹿島でコーチを務めていた関塚隆を招聘。元日本代表の相馬直樹アルビレックス新潟で2年連続でJ2リーグ得点王に輝いたマルクス等を補強した。戦力に厚みを増したこのシーズンは、前年以上の圧倒的な攻撃力で開幕直後からJ2で首位を独走。同年9月26日、アウェーの水戸ホーリーホック戦に2対1で勝利して5年ぶりのJ1昇格を決定した。10月2日にはホームの横浜FC戦で1999年以来5年ぶり2度目のJ2優勝を決め、11月23日のホームゲーム最終戦となるヴァンフォーレ甲府戦で「勝ち点100、得点100」を達成した。

2005年 -(J1)

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2005年、J1昇格を機にエンブレムから「FUJITSU」という企業名が外された。昇格初年度は残留争いに巻き込まるが、2006年からは毎年優勝争いに顔を出す強豪クラブへ成長し、2006年、2009年シーズンはともに準優勝でリーグ戦を終えてAFCチャンピオンズリーグ(以下ACL)出場権を獲得した[2]。2006年ドイツW杯終了後には、我那覇、中村憲剛が日本代表デビューを果たし、2010年南アフリカW杯では、川島永嗣稲本潤一、中村憲剛の3人が日本代表に、鄭大世北朝鮮代表に選出されている。

初出場となった2007年のACLでは、リーグ戦とのターンオーバー制を敷いたことがJリーグ軽視と取られ、Jリーグ側の怒りを買った[3]。この問題は我那覇のドーピング裁定(詳細は我那覇和樹の項を参照)も相まって、両者の溝を更に深めた。また、この大会の川崎は準々決勝で敗退するが、勝ち残った浦和に情報を提供し[4]、浦和は決勝でセパハンを下して優勝した。優勝後、浦和からは川崎の協力へ感謝の言葉が贈られた。

2009年のヤマザキナビスコカップは決勝まで進んだが、2000年、2007年に続き準優勝に終わった。この決勝戦後の表彰式において、協会名誉総裁の高円宮妃久子はじめ協会幹部やスポンサー関係者の前で、川崎の一部選手が「首にかけて頂いた準優勝メダルを外す行為」、「握手を拒む行為」、「壁に寄り掛かかんだり、しゃがみ込む行為」、「ガムを噛みながらの表彰式参加」といった不適切な行動[5]をとったことが問題となった[6]。これを受けて川崎は謝罪[5]、準優勝賞金5000万円の自主返還、社長ら役員3人の減俸、選手の中で特に行動が問題視された森勇介の最低1試合の出場停止などの処分を発表[7]。詳細は2009年ナビスコカップ表彰式での悪態騒動を参照のこと。この後、12月26日には『公益のため多額の私財を寄附した』功に対して、日本政府より褒状を賜った[8]

2011年、2004年から2年間川崎でプレーし、前年までFC町田ゼルビアで監督を務めていた相馬直樹が監督に就任した。

地域密着

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富士通川崎サッカー部は1996年にプロ化を推進するにあたり、Jリーグの理念に沿った地域社会との共生を目指すことを大テーマに掲げた。選手には「プロだから」という特別な意識・扱いをせず、地元川崎市の各行政区でのサッカースクール(学校巡回スクール含む)の実施といったサッカーに関わることだけでなく、地域の市民・区民まつりへの参加、市内各商店街等の行事への選手らの派遣(お年始など)、また地元商店街加盟店舗などの協賛によるマン・オブ・ザ・マッチの表彰制度「あんたが大賞」、週末のホームゲームでのサイン会等を積極的に行うように務めた。特に、クリスマスシーズンに行われる入院児への訪問活動「青いサンタクロースは毎年恒例の奉仕活動として定着しており、社会的な評価も高い。なお、フロンターレでは地域密着活動への参加については選手との契約条件に盛り込まれていると言われている。

一方、ホームタウンである川崎市も、「プロスポーツの根付かない街」の汚名を返上し、市民意識の一体化を進める目的で、このようなクラブの働きかけに呼応すべく2004年9月に「川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー」を制定。フロンターレはこの創設メンバーとして認定を受け、これに基づく活動を推進していくことになった。また、その中で、川崎市は他の地元企業・団体、またサポーター持株会と共に、運営会社(当時の富士通川崎スポーツマネジメント)の株式の一部を取得した。

2006年はクラブ創立10周年に当たり、記念行事を通じてより一層の地域密着を図ろうとした。その一つとして、川崎市商店街連合会を通じ、市内の全商店街の街灯にチームの応援タペストリー(ふろん太のデザイン)を配布し、川崎市民全体へのアピールと地元からの支援体制強化を図っている。2006年1月の時点では、タペストリー掲示を了解したのが加盟全139団体(商店街以外を含む)中68団体と紹介されている。

また広報担当者のインタビュー記事には、後援会員の75%が等々力競技場と富士通本店・川崎工場のある中原区、クラブ事務所のある高津区、そして市が整備しフロンターレが指定管理者となって2006年4月に開業した「フロンタウン・さぎぬま」(フットサル場)のある宮前区の3区在住者で占められるとあり、クラブ方針としても特にこの3区での営業活動を先行して重視するとしている。

川崎競馬場で2006年11月2日にJBCマイル競走の前座として「祝10周年・フロンターレ特別」が行われた[9]

またトップチームの麻生練習場がある麻生区では2009年に「麻生アシストクラブ」が発足した。「しんゆり・芸術のまちづくりフォーラム」内に事務所が置かれ、商店街や各種団体などが構成する同クラブを川崎市役所(麻生区役所)やフロンターレが後援する形を取って、同区内での広報・支援活動を展開する事になった[10]。同クラブでは小田急電鉄の協力も受け、麻生練習場の最寄り駅である小田急多摩線栗平駅のホーム脇陸橋に告知看板を出すなどの活動をしている[11]

スポーツ交流パートナー事業以外の異競技交流では大相撲春日山部屋が川崎市にあるという縁で、フロンターレのファン感謝デーに春日山部屋の力士をゲスト出演してもらったり、その逆で両国国技館での本場所でフロンターレ応援団が春日王の応援に駆けつけた。(2010年9月13日 NHK総合テレビジョンBizスポ」より)

チーム成績・歴代監督

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富士通サッカー部

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年度 カテゴリ 順位 勝点 得点 失点 監督
1967 関東 2位 18 9 0 5 33 13 野沢量一郎
1968 優勝 23 10 3 1 42 15
1969 3位 17 7 3 4 34 19
1970 4位 15 6 3 5 27 24
1971 4位 17 7 3 4 24 16
1972 JSL2部 4位 17 4 9 5 19 23
1973 4位 22 9 4 5 33 28 八重樫茂生
(総監督)、
赤坂健二
1974 2位 22 9 4 5 32 19
1975 3位 26 10 6 2 37 17
1976 優勝 29 13 3 2 32 6
1977 JSL1部 9位 20 5 - 13 18 38 八重樫茂生
1978 9位 17 5 - 14 14 29
1979 JSL2部 3位 47 11 - 7 29 18
1980 2位 25 10 5 3 25 12
1981 5位 21 10 1 7 31 27
1982 7位 13 4 5 9 16 26 福家三男
1983 7位 15 6 4 8 26 26
1984 7位 14 5 4 9 20 30
1985 JSL2部・東 _ 10 4 2 4 16 12 八重樫茂生
JSL2部・下位 8位 8 4 0 0 17 2
1986 JSL2部・東下位 10位 24 11 2 7 37 26
1987 JSL2部・東下位 10位 22 9 4 7 25 17
1988-89 JSL2部・東 _ 20 8 4 2 22 13
JSL2部・上位 4位 16 6 4 4 16 15
1989-90 JSL2部 5位 55 17 4 9 58 35 八重樫茂生
(総監督)、
来海章
1990-91 5位 51 15 6 9 46 30
1991-92 5位 59 17 8 5 46 26 来海章
1992 JFL1部 6位 20 5 5 8 19 27
1993 6位 _ 8 (2/0) _ 10 (2/0) 27 37
1994 JFL 10位 _ 11 (0/0) _ 19 (2/1) 39 52 沈祥福
1995 12位 34 11 (1/0) _ 19 (4/1) 45 61
1996 9位 45 15 (5/3) _ 15 (0/0) 48 45 城福浩
  • 1996年は「富士通川崎」。
  • 「勝」「敗」内の(A/B)は勝敗のうちの(延長試合数/PK試合数)。「-」はそのシーズンに適用規定が無かった方式。延長・PKともに適用されなかったシーズンは( )を省略。
  • 1995年と1996年のJFLにおける1試合平均観客数は、1995年が1,129人、1996年が1,720人。出典は「週刊サッカーダイジェスト 2008年J1&J2選手名鑑」。

川崎フロンターレ

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リーグ 順位 勝点 勝利 引分 敗戦 天皇杯 ナビスコ杯 平均観客数 監督
1997 (旧)
JFL
3 67 23 (2/0) _ 7 (3/0) 2,974 斉藤和夫ジョゼ
1998 2 68 23 (1/0) _ 7 (3/0) 3,567 ベット
1999 J2 1 73 25 3 8 5,396 ベット/松本育夫
2000 J1・1st 15 10 3 2 10 3回戦敗退 準優勝 7,439 ゼッカ今井敏明
J1・2nd 15 11 4 2 9 今井敏明/小林寛
2001 J2 7 60 20 3 21 ベスト4 3,784 堀井美晴石崎信弘
2002 4 80 23 11 10 ベスト8 5,247 石崎信弘
2003 3 85 24 13 7 4回戦敗退 7,258
2004 1 105 34 3 7 5回戦敗退 9,148 関塚隆
2005 J1 8 50 15 5 14 ベスト8 予選リーグ敗退 13,658
2006 2 67 20 7 7 5回戦敗退 ベスト4 14,340
2007 5 54 14 12 8 ベスト4 準優勝 17,338
2008 2 60 18 6 10 5回戦敗退 予選リーグ敗退 17,565 関塚隆/高畠勉
2009 2 64 19 7 8 ベスト8 準優勝 18,847 関塚隆
2010 5 54 15 9 10 4回戦敗退 ベスト4 18,562 高畠勉
2011 相馬直樹
  • 「勝」「敗」内の(A/B)は勝敗のうちの(延長試合数/PK試合数)。「-」はそのシーズンに適用規定が無かった方式。延長・PKともに適用されなかったシーズンは( )を省略。
  • 「平均観客数」は、同年のリーグ戦における主催試合での1試合平均観客数。1997-1998年は旧JFL、1999年と2001-2004年はJ2、2000年と2005-2008年はJ1リーグ戦での数字。出典は『Jリーグ公式記録集2009』、および「週刊サッカーダイジェスト 2008年J1&J2選手名鑑」。

公式戦対戦通算成績(2010年第21節終了時点)

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対戦通算成績と得失点

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対戦チーム
(対戦経験のある前身のチーム名)
J1 J2 合計
ベガルタ仙台(←ブランメル仙台) 1 0 0 3 2 8 2 2 29 14 8 2 2 31 16
モンテディオ山形 2 1 0 3 0 9 6 5 30 17 11 7 5 33 17
鹿島アントラーズ 6 2 5 20 23 - - - - - 6 2 5 20 23
浦和レッドダイヤモンズ 3 3 5 16 21 - - - - - 3 3 5 16 21
大宮アルディージャ(←NTT関東) 5 3 3 21 14 10 2 8 23 20 15 5 11 44 34
FC東京 5 3 5 29 24 2 2 0 6 4 7 5 5 35 28
横浜F・マリノス(←横浜マリノス) 6 2 5 17 19 - - - - - 6 2 5 17 19
湘南ベルマーレ(←ベルマーレ平塚) 1 0 0 4 2 9 3 4 28 14 10 3 4 32 16
アルビレックス新潟 6 1 5 26 17 4 0 12 19 25 10 1 17 45 42
清水エスパルス 2 4 8 16 24 - - - - - 2 4 8 16 24
ジュビロ磐田 5 1 7 24 28 - - - - - 5 1 7 24 28
名古屋グランパス(←名古屋グランパスエイト) 8 4 2 29 15 - - - - - 8 4 2 29 15
京都サンガF.C.(←京都パープルサンガ) 6 0 3 20 12 4 1 3 17 15 10 1 6 37 27
ガンバ大阪 4 3 6 26 30 - - - - - 4 3 6 26 30
セレッソ大阪 5 1 1 13 9 1 2 1 9 9 6 3 2 22 18
ヴィッセル神戸 7 2 2 26 13 - - - - - 7 2 2 26 13
サンフレッチェ広島 6 4 2 26 10 2 2 0 6 4 8 6 2 32 14
コンサドーレ札幌 2 0 0 5 1 9 3 0 23 4 11 3 0 28 5
水戸ホーリーホック - - - - - 14 1 1 36 11 14 1 1 36 11
栃木サッカークラブ - - - - - - - - - - - - - - -
ザスパ草津 - - - - - - - - - - - - - - -
ジェフ千葉(←ジェフ市原) 6 3 3 16 11 - - - - - 6 3 3 16 11
柏レイソル 4 3 3 18 18 - - - - - 4 3 3 18 18
東京ヴェルディ(←東京ヴェルディ1969←ヴェルディ川崎) 3 2 1 6 4 - - - - - 3 2 1 6 4
横浜FC 2 0 0 7 0 13 2 1 46 15 15 2 1 53 15
ヴァンフォーレ甲府 2 1 1 6 2 13 4 3 40 23 15 5 4 46 25
カターレ富山 - - - - - - - - - - - - - - -
FC岐阜 - - - - - - - - - - - - - - -
ガイナーレ鳥取 - - - - - - - - - - - - - - -
ファジアーノ岡山 - - - - - - - - - - - - - - -
徳島ヴォルティス(←大塚製薬 - - - - - - - - - - - - - - -
愛媛FC - - - - - - - - - - - - - - -
アビスパ福岡 2 0 2 5 5 10 0 2 26 17 12 0 4 31 22
ギラヴァンツ北九州 - - - - - - - - - - - - - - -
サガン鳥栖 - - - - - 16 1 3 53 19 16 1 3 53 19
ロアッソ熊本 - - - - - - - - - - - - - - -
大分トリニータ 4 3 3 12 9 2 2 8 10 22 6 5 11 22 31
(Jリーグクラブ)計 84 39 64 329 286 126 36 53 401 232 210 75 117 730 518

タイトル

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国内タイトル

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※国内3大タイトルは、J1年間2位が3回、リーグカップ準優勝3回、天皇杯ベスト4が2回の成績を収めている。

個人タイトル

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ベストイレブン
得点王
ヤマザキナビスコカップ

国際試合

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開催年月日 大会名 対戦相手 会場 スコア 勝敗
2005年7月28日 親善試合 イングランドの旗 ボルトン・ワンダラーズFC 等々力陸上競技場 1-1 引分
2007年3月7日 ACL2007
グループリーグ
インドネシアの旗 アレマ・マラン ガジャヤナスタジアム 3-1 勝利
2007年3月21日 タイ王国の旗 バンコク・ユニバーシティ 等々力陸上競技場 1-1 引分
2007年4月11日 大韓民国の旗 全南ドラゴンズ 光陽専用球技場 3-1 勝利
2007年4月25日 大韓民国の旗 全南ドラゴンズ 等々力陸上競技場 3-0 勝利
2007年5月9日 インドネシアの旗 アレマ・マラン 等々力陸上競技場 3-0 勝利
2007年5月23日 タイ王国の旗 バンコク・ユニバーシティ Royal Thai Army Stadium 2-1 勝利
2007年9月19日 ACL2007決勝T
準々決勝
イランの旗 セパハン フーラドシャハル・スタジアム 0-0 引分
2007年9月26日 等々力陸上競技場 0-0
PK:4-5
PK負
2009年3月11日 ACL2009
グループリーグ
中華人民共和国の旗 天津泰達 等々力陸上競技場 1-0 勝利
2009年3月18日 大韓民国の旗 浦項スティーラース 浦項スティールヤード 1-1 引分
2009年4月8日 オーストラリアの旗 セントラルコースト・マリナーズ ブルータン・スタジアム 5-0 勝利
2009年4月21日 オーストラリアの旗 セントラルコースト・マリナーズ 等々力陸上競技場 2-1 勝利
2009年5月5日 中華人民共和国の旗 天津泰達 天津泰達足球場 1-3 敗戦
2009年5月19日 大韓民国の旗 浦項スティーラース 等々力陸上競技場 0-2 敗戦
2009年6月24日 ACL2009ラウンド16 日本の旗 ガンバ大阪 万博記念競技場 3-2 勝利
2009年9月23日 ACL2009決勝T
準々決勝
日本の旗 名古屋グランパスエイト 国立競技場 2-1 勝利
2009年9月30日 瑞穂陸上競技場 1-3 敗戦
2010年2月23日 ACL2010
グループリーグ
大韓民国の旗 城南一和 炭川総合運動場 0-2 敗戦
2010年3月9日 中華人民共和国の旗 北京国安 等々力陸上競技場 1-3 敗戦
2010年3月23日 オーストラリアの旗 メルボルン・ヴィクトリー 等々力陸上競技場 4-0 勝利
2010年3月31日 オーストラリアの旗 メルボルン・ヴィクトリー エティハド・スタジアム 0-1 敗戦 
2010年4月14日 大韓民国の旗 城南一和 等々力陸上競技場 3-0 勝利 
2010年4月28日 中華人民共和国の旗 北京国安 北京工人体育場 0-2 敗戦 

ユニフォーム

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ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 水色×黒
FP(2nd)
GK(1st) グレー グレー グレー
GK(2nd) オレンジ オレンジ
GK(3rd) グリーン グリーン
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd
GK 3rd
川崎フロンターレオフィシャルショップAZZURRO NERO(アズーロ・ネロ)

ユニフォームスポンサー

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掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
富士通 FUJITSU 1997年 -
背中 日興コーディアル証券 日興コーディアル証券 2007年 - 2005年 - 2007年途中までは
商品名のピーカブー
富士通ゼネラル 富士通ゼネラルエアコン 1997年 - 2003年
2009年 -
表記は1997年、1999年 - 2003年は
富士通ゼネラル
1998年はFUJITSU GENERAL
パンツ PFU PFU 2003年 - 2005年
2009年 -
  • スポンサーではないが、2004年から右袖にはJリーグのロゴのほかにホームタウン名「KAWASAKI」の文字が書かれたワッペンが付けられており、選手やスタッフ用にはさらに「市の花」であるツツジ刺繍が添えられている。
  • AFCチャンピオンズリーグについては規定によりスポンサーは1社に限られているため、FUJITSUの胸ロゴのみ[12]表記され、左袖に大会のロゴ、背番号上には選手名(アルファベット表記)を入れている。

ユニフォームサプライの遍歴

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歴代ユニフォームスポンサー年表

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年度 背中 パンツ サプライヤー
1997 FUJITSU 富士通ゼネラル NIFTY - PENALTY
1998 FUJITSU GENERAL Fsas -
1999 富士通ゼネラル - asics
2000 -
2001 -
2002 -
2003 PFU
2004 NOEL
2005 ピーカブー
2006 ふくしまの米
2007 ピーカブー/
日興コーディアル証券
2008 日興コーディアル証券
2009 富士通ゼネラル
エアコン
PFU
2010
2011 PUMA
  • この他、1997-98年は旧JFL、1999年以降はJリーグのロゴが右袖に付く。
  • 1998年 - 2004年の背中スポンサー、富士通エフサス (Fsas) の会社名は「富士通サポートアンドサービス」。
  • NOELは、2005年途中にCIの変更によりロゴが変更されたが、2005年シーズンは旧ロゴのままで、2006年シーズンより新ロゴに変更された。
  • 2007年9月30日施行の金融商品取引法に伴い、日興コーディアル証券はユニフォームでの掲示名を商品名の「ピーカブー」から自社名に変更。ちなみに、このマスコットはホームゲームでたびたび登場し、川崎のマスコットであるふろん太とは大の仲良しである。
  • NOEL(ノエル)は、2008年10月31日に倒産(自己破産) した。負債総額は417億円。チームも債権を有する。

応援番組

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アウェイゲーム観戦ツアー

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川崎フロンターレはサポーターのアウェイゲーム観戦ツアーに、他チームとは一風変わった企画を行うことが多い。

  • 2007年10月28日のFC東京ホームゲームの多摩川クラシコで、多摩川の「丸子の渡し」を約70年ぶりに復活させて船で東京へ乗り込むアウェイツアーを実施[13]
  • 2009年5月24日のFC東京ホームゲームの多摩川クラシコでは、試合前日の23日の夜に横浜から伊豆大島フェリーで行き、試合当日の24日に大島空港から飛行機で味の素スタジアムの隣にある調布飛行場へ行くという遠回りなアウェイツアー「多摩川クラシコエアーツアー」を実施[14]
  • 2009年7月11日のアルビレックス新潟ホームゲームのアウェイツアーではそれまで新潟に11連敗していたため、「新潟戦11連敗阻止キャンペーン『11回目のプロポーズ』」と題し、全員そろいの川崎のチームカラーパジャマを着て貸切列車で移動するというツアーを実施。帰りの貸切夜行列車では、わざわざ新潟まで来たふろん太らが見送っていた。[15]
  • 2009年10月7日の鹿島アントラーズとの16分間の再試合では、千円という格安のバスツアーを実施。平日にもかかわらず応募が殺到し、最終的にバス25台という大規模なものとなった。なお、この際には鹿島サポーターと思われる客は排除するという徹底ぶりだった[16]

関連項目

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脚注

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  1. ^ その後、城福はFC東京設立準備室からの勧誘を受け、1998年に富士通を退社して同室に所属し、FC東京の創設時から関わる事になった。2008年にはFC東京のトップチーム監督となり、フロンターレとは「多摩川クラシコ」で対戦した。
  2. ^ 2006年シーズンは2位の優勝クラブのみが出場権を獲得できたが、前シーズンの天皇杯で優勝し既にAFCチャンピオンズリーグ(ACL)出場権を得ている浦和がリーグ戦で優勝したため、規定により2007年度のACLへの出場権を獲得した(天皇杯前年度優勝クラブとJ1年間リーグ優勝クラブが同一クラブの場合、J1の年間準優勝クラブが繰り上げ出場となるため)。
  3. ^ イランからの帰国時にUAEのドバイまでのチャーター便費用を補助していたJリーグ専務理事(当時)の犬飼基昭は、ACLプロジェクトチームを主宰していたこともあり「ベストメンバーの出場を求めた自分達への背信行為であってサポーターへの裏切り行為だ」と主張した。川崎側は当該試合の前にJリーグ事務局へ予めベストメンバー規定に抵触していない旨を事前確認しており、川崎サポーターはこの批判が選手起用への越権介入であると反発した。
  4. ^ 特に、時差の関係で川崎の敗北が決まった後も、サウジアラビアリヤドにいた川崎のスカウトは準々決勝のアル・ヒラルvsアル・ワフダ戦を観戦し、勝ち上がったアル・ワフダのデータを浦和に提供した。アル・ワフダは準決勝でセパハンに敗れたが、JリーグチームのACL優勝を目指すための美談として伝えられた。
  5. ^ a b 弊クラブ所属選手の行為について(お詫び)、川崎フロンターレ公式サイト、2009年11月4日
  6. ^ 鬼武チェアマン川崎Fに激怒、nikkansports.com、2009年11月4日
  7. ^ 弊クラブ所属選手の行為について(対応・処分)、川崎フロンターレリリース、2009年11月5日
  8. ^ 官報』 {{subst:和暦/sandbox|2010}}1月8日付 第10頁 褒賞に告知されている。
  9. ^ 地方競馬全国協会ニュースリリース川崎競馬場ニュースリリース
  10. ^ k-press 2009年8月23日付「川崎市麻生区で川崎麻生アシストクラブが発足」[1]
  11. ^ 川崎公式サイト内「フロンターレ日記」2010年5月19日「新ランドマーク誕生!」 [2]
  12. ^ ただし、Jリーグとは違いFUJITSUの公式ロゴではなく角ゴシック体表記。
  13. ^ J'sGOALニュース|オフィシャルニュース|多摩川クラシコ「アウェイ舟ツアー」参加者募集のお知らせ
  14. ^ J'sGOALニュース|【無事に味スタヘ到着!】多摩川クラシコ:川崎F「エアーツアー」レポート(2009年5月24日)
  15. ^ J'sGOALニュース|川崎フロンターレ新潟戦アウェイツアー「11回目のプロポーズ」写真レポート(2009年7月12日)なお、この中にふろん太らが「交渉の末、JR東日本さんのご好意により、なんとかホームに入れて頂けることに。」とあるが、JR東日本はJリーグの他チーム(ジェフ千葉)の親会社である。
  16. ^ 「16分間」観戦ツアーにサポ殺到 豪雨中断の鹿島-川崎戦(MSN産経 2009年9月29日

外部リンク

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