勧修寺教秀
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時代 | 室町時代中期 - 戦国時代 |
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生誕 | 応永33年(1426年) |
死没 | 明応5年7月11日(1496年8月19日) |
官位 | 従一位、准大臣、贈左大臣 |
主君 | 後花園天皇→後土御門天皇→後柏原天皇 |
氏族 | 勧修寺家 |
父母 | 父:勧修寺経興、養父:勧修寺経直 |
兄弟 | 教秀、経熈、阿野公煕室 |
妻 | 正室:飛鳥井雅永の娘 |
子 |
政顕、松殿忠顕、万里小路賢房、 御荘顕賢、今出川公興室、蓮綱兼祐室、 後土御門天皇典侍房子、三条西実隆室、 後柏原天皇典侍藤子(豊楽門院、後奈良天皇国母) 養子:経茂 (従弟/養父・経直の子) |
特記 事項 | 後奈良天皇の外祖父 |
勧修寺 教秀(かじゅうじ のりひで)は、室町時代中期から戦国時代の公卿。勧修寺家第7代当主。武家伝奏を務めた。
生涯
[編集]第5代当主・経興の子として生まれる。経興の跡は、叔父(経興の弟)の経直が第6代当主となっていたが、のちにこの養子となり、やがて第7代当主となった。
勧修寺家歴代当主の中では初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受け、第6代将軍・足利義教から1字を賜って教秀と名乗った。
享徳2年(1453年)に参議、文明3年(1471年)、権大納言に任ぜられる。
明応5年(1496年)、准大臣・従一位に任ぜられた。同年7月11日に71歳で薨去。死後左大臣を贈位された。教秀の次は養父・経直の実子である従兄弟の経茂が第8代当主となった。