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十二諸侯年表

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十二諸侯年表(じゅうにしょこうねんぴょう)は、司馬遷の『史記』の十四巻で、十三巻の第一表「三代世表」と十五巻の第三表「六国年表」との間にある、西周共和元年(前841年)から東周敬王四十三年(前477年)までの周王朝と、の十三諸侯の年表である。

名称をめぐる論争

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十二諸侯年表には、周を除くと十三の諸侯国が記載されているが、年表は「十二諸侯」という名前で、どの諸侯国を除いたのかについて、呉説、秦説、魯説などの異なる学説がある。

呉説によると、十二諸侯にはが含まれておらず、呉が四夷であり、この時期の末期に台頭したため、司馬遷はこれを除いて十二諸侯としたとする[1]。秦説によると、後に国を統一した秦は特殊な地位にあったため、十二諸侯には秦を含まなかったとする[2]。魯説によると、十二諸侯には魯が含まれておらず、年表で魯は周の次に位置しているため、十三諸侯の筆頭とされているが、これは「春秋」を作った魯の孔子を独尊するためとする[3]

年表収録諸侯

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以下、年表順(周を除く):

国名 国姓 建国時期 滅亡時期 建国君主 建国君主の出自 滅ぼした国 史記出典 爵位
姫姓 B1043 B256 魯伯禽 周武王四弟周公旦の子 「魯周公世家」 公爵
姜姓 B1045 B386 呂尚 克殷の功臣 田斉 「斉太公世家」 侯爵
姫姓 B1033 B376 唐叔虞 周武王の三子 「晋世家」 侯爵
嬴姓 B900 B207 秦非子 悪来の五世孫 西楚 「秦本紀」 伯爵
羋姓 B1042 B223 楚熊繹 帝顓頊の後裔 「楚世家」 子爵
子姓 B286 宋微子 帝辛の庶兄 田斉 「宋微子世家」 公爵
姫姓 B209 衛康叔 周武王の少弟 「衛康叔世家」 侯爵
嬀姓 B1045 B478 陳胡公 帝舜の後裔 「陳杞世家」 侯爵
姫姓 B1045 B447 蔡叔度 周武王の五弟 「管蔡世家」 侯爵
姫姓 B1045 B487 曹叔振鐸 周武王の少弟 「管蔡世家」 伯爵
姫姓 B806 B375 鄭桓公 周宣王の弟 「鄭世家」 伯爵
姫姓 B1045 B222 燕侯克 周武王族人召公奭の子 「燕召公世家」 侯爵
姫姓 西周初年 B473 呉太伯 周太王の長子 「呉太伯世家」 伯爵

脚注

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  1. ^ 司馬貞史記索隠》:“篇言十二,實叙十三者,賤夷狄不數呉,又霸在後故也。不數而叙之者,闔閭霸盟上國故也。”
  2. ^ 李景星(1876年–1934年),《史記評議》:“‘十三’而名‘十二’,非不数呉,乃不数秦也。何以不数秦?殊之也。何殊乎?爾十二国皆世家,独秦本紀,故殊之。”
  3. ^ 傅占衡(1606年–1660年):“其不数者蓋魯也。吾嘗並《六国表》而観之,按表首周次魯,而後斉晋秦楚次之,宋衛陳蔡曹鄭燕呉又次之。其曰十二者,以魯為主也。猶《六国表》首周次秦,而後曰魏曰韓、曰趙曰楚、曰燕曰斉継之,其不曰七国者以秦為主也。夫《十二諸侯表》,拠《春秋》而次者也。《六国表》拠《秦紀》而次者也。《春秋》詳于魯,故序皆言《春秋》。”参見:許勇強、李浩淼、劉曄,“論《史記・十二諸侯年表》之‘十二’”,《樂山師範學院學報》2006年 第2期。