コンテンツにスキップ

呂号第百七潜水艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴
計画 昭和16年度計画(マル臨計画[1]
起工 1941年12月17日[1]
進水 1942年5月30日[1]
就役 1942年12月26日[1]
その後 1943年7月6日消息不明[1]
亡失認定 1943年8月1日[1]
除籍 1943年9月1日[1]
性能諸元
排水量 基準:525トン 常備:601トン
水中:782トン
全長 60.90m
全幅 6.00m
吃水 3.51m
機関 艦本式24号6型ディーゼル2基2軸
水上:1,000馬力
水中:760馬力
電池 1号15型120個[2]
速力 水上:14.2kt
水中:8.0kt
航続距離 水上:12ktで3,500海里
水中:3ktで60海里
燃料 重油:50トン
乗員 38名
兵装 25mm機銃連装1基2挺
魚雷発射管 艦首4門
53cm魚雷8本
備考 安全潜航深度:75m

呂号第百七潜水艦(ろごうだいひゃくななせんすいかん)は、日本海軍潜水艦呂百型潜水艦(小型)の8番艦。

艦歴

[編集]

1941年昭和16年)の昭和16年度計画(マル臨計画[1]により1941年12月17日、呉海軍工廠で起工。1942年(昭和17年)5月30日進水。1942年12月26日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、佐世保鎮守府籍となり[3]、訓練部隊である呉鎮守府呉潜水戦隊に編入された。

1943年(昭和18年)3月15日、第八艦隊第7潜水戦隊に編入[3][4]

3月31日、呂107は佐世保を出港し、4月12日にラバウルに到着[4]。15日、第7潜水戦隊は南東方面艦隊所属となる。

22日、呂107はラバウルを出港し、ガダルカナル島東方沖に進出し哨戒。5月14日、ラバウルに到着[4]

27日、呂107はラバウルを出港し、ガダルカナル島東方沖に進出して哨戒。6月20日、ラバウルに到着。

30日、呂107はラバウルを出港し、レンドバ島近海に進出[4]。7月6日、レンドバ島東方沖からの連絡を最後に消息不明[1]

アメリカ側記録にも記録はなく[注釈 1]、艦長の江木尚一大尉以下乗員42名全員行方不明(戦死認定)[5]

8月1日、ソロモン諸島方面で亡失と認定され、9月1日に除籍された。

歴代艦長

[編集]

艤装員長

[編集]
  • 不詳

艦長

[編集]
  • 江木尚一 大尉:1942年12月16日 - 1943年8月1日戦死認定[5]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 7月12日、コロンバンガラ島ベネット東方で米駆逐艦テイラー(USS Taylor, DD-468)の砲撃、爆雷攻撃を受けて沈没(『日本海軍史』第7巻、378頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』160頁。)とあるが、実際に攻撃を受けたのは呂101である。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j 『日本海軍史』第7巻、378頁。
  2. ^ 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』73頁。
  3. ^ a b 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』97頁。
  4. ^ a b c d 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』160頁。
  5. ^ a b 『艦長たちの軍艦史』458頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』160頁。

参考文献

[編集]
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
  • 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
  • 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9