呉竹 (駆逐艦)
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艦歴 | |
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発注 | 1918年度計画 |
起工 | 1922年3月15日 |
進水 | 1922年10月21日 |
就役 | 1922年12月21日 |
その後 | 1944年12月30日戦没 |
除籍 | 1945年2月10日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:820トン |
全長 | 83.8m |
全幅 | 8.08m |
吃水 | |
機関 | オールギアードタービン2基2軸 21,500shp |
最大速力 | 35.5ノット |
航続距離 | |
乗員 | |
兵装 | 12.0cm単装砲3基 6.5mm単装機銃2基 53cm連装発射管2基4門 |
呉竹(くれたけ)は、日本海軍の駆逐艦。若竹型駆逐艦の2番艦である。
艦歴
[編集]株式会社川崎造船所で建造。1922年(大正11年)10月、進水。進水時の名称は「第四駆逐艦」であった。12月21日、竣工。
1924年(大正13年)4月1日、「第四号駆逐艦」に艦名変更。1928年(昭和3年)8月1日、「呉竹」に艦名変更。
1932年(昭和7年)12月5日、暴風雨により沈没した早蕨乗組員の救助活動を行う[1]。
1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦時は呉鎮守府所属。大戦中はシンガポール方面の船団護衛に従事する。
1943年11月13日、船団護衛中にアメリカ潜水艦「トリガー」に対して爆雷攻撃を行い、被害を与えた[2]。
1944年(昭和19年)12月30日、バシー海峡にてアメリカの潜水艦「レザーバック」の雷撃により沈没。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』377-378頁による。階級は就任時のもの。
艤装員長
[編集]駆逐艦長
[編集]- 佐野哲 少佐:1922年12月21日[4] - 1923年8月13日[5]
- 戸須賀千之 少佐:1923年8月13日 - 1924年12月1日
- 森口重市 少佐:1924年12月1日 - 1925年12月1日
- 福田良三 少佐:1925年12月1日 - 1926年12月1日
- (兼)野末信次郎 少佐:1926年12月1日[6] - 1927年3月15日[7]
- 藤田俊造 大尉:1927年3月15日[7] - 1929年11月30日[8]
- 古村啓蔵 少佐:1929年11月30日 - 1930年11月15日
- (兼)倉永恒記 大尉:1930年11月15日 - 1931年4月1日[9]
- 市坪正雄 大尉:1931年4月1日 - 1931年10月12日[10]
- 北村昌幸 少佐:1931年10月12日 - 1934年11月15日[11]
- 馬場曻 大尉:1934年11月15日[11] - 1935年10月31日[12]
- 勝見基 少佐:1935年10月31日 - 1936年12月1日
- 小滝久雄 少佐:1936年12月1日 - 1937年12月15日[13]
- (兼)吉井五郎 少佐:1937年12月15日[13] - 1938年1月2日[14]
- 井手元男 少佐:1938年1月2日 - 1938年6月1日[15]
- 橋本金松 大尉:1938年6月1日 - 1939年7月20日[16]
- 藤田淳 大尉:1940年10月15日 - 1941年9月10日[17]
- 鹿嶋正徳 少佐:1941年9月10日[17] -
- 古谷卓夫 少佐:1942年10月20日 -
- 田中弘国 大尉:1943年1月13日 -
- 吉田宗雄 少佐(海兵62期):1944年3月10日 - 1944年12月30日戦死
脚注
[編集]- ^ 駆逐艦「早蕨」、台湾沖合で沈没『東京日日新聞』昭和7年12月5日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p47 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 潜水艦攻撃、229ページ
- ^ 『官報』第3077号、大正11年11月2日。
- ^ a b 『官報』第3120号、大正11年12月23日。
- ^ 『官報』第3312号、大正12年8月14日。
- ^ 『官報』第4283号、大正15年12月2日。
- ^ a b 『官報』第61号、昭和2年3月16日。
- ^ 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
- ^ 『官報』第1275号、昭和6年4月2日。
- ^ 『官報』第1439号、昭和6年10月14日。
- ^ a b 『官報』第2364号、昭和9年11月16日。
- ^ 『官報』第2651号、昭和10年11月2日。
- ^ a b 「海軍辞令公報 号外 第107号 昭和12年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072900
- ^ 「海軍辞令公報 号外 第116号 昭和13年1月6日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073300
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第189号 昭和13年6月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073900
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第361号 昭和14年7月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076000
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第708号 昭和16年9月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082000
参考文献
[編集]- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 木俣滋郎『潜水艦攻撃 日本軍が撃沈破した連合軍潜水艦』光人社、2000年、ISBN 4-7698-2289-8
関連項目
[編集]- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- やなせたかし - 乗艦していた弟の海軍予備学生により海軍少尉柳瀬千尋が沈没時に戦死している。