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小松俊広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小松 俊広
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 高知県高知市[1]
生年月日 (1940-01-13) 1940年1月13日
没年月日 (2023-10-08) 2023年10月8日(83歳没)
身長
体重
174 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1958年
初出場 1958年4月6日
最終出場 1960年9月27日[2]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

小松 俊広(こまつ としひろ、1940年昭和15年〉1月13日 - 2023年令和5年〉10月8日[3])は、高知県高知市出身のプロ野球選手投手)。プロ入りまでの名は小松 敏宏(読み同じ)。

来歴・人物

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高知商業高等学校では、エースとして1957年春の選抜に出場[1]小倉高八幡商を破り準決勝に進出する。準決勝でも倉敷工渡辺博文らに3-1で投げ勝つ。しかし決勝では王貞治投手を擁する早稲田実業と対戦し3-5で敗退、準優勝にとどまった[4]。同年夏の南四国大会でも決勝に進出するが高知高に0-1で9回サヨナラ負け、甲子園出場を逸する。この時のチームメイトでは捕手の坂本宏一(大洋)、遊撃手尾崎靖夫外野手の倉内顕(西鉄)がプロ入りしている。王、清沢忠彦とともに左腕投手の三羽烏として注目される。

1958年に巨人入団[1]。1年目から一軍で起用され、4月16日広島カープを相手に初先発。同年は14試合に登板し、リリーフ、抑え投手として実績をあげる。同年の最終戦で2度目の先発、広島の橋本敬包と投げ合い5回を無失点に抑えるが、打線の援護がなく勝ち星はつかなかった。しかし翌1959年7月2日には大洋ホエールズを相手に先発、鈴木隆との左腕対決となるが、5回2/3を2失点に抑え初勝利を挙げる。将来を期待されたが、その後は故障もあって伸び悩み、1962年限りで引退した[1]

引退後は巨人のチーム付スコアラー(1963年 - 1964年, 1984年 - 1985年)、先乗りスコアラー1965年 - 1983年)に回り[1]、公式戦での対戦相手のデータを調査し、巨人首脳陣、王貞治や長嶋茂雄ら主力選手に提供する役目を担うなどし、巨人軍V9を支えた、いわば先乗りスコアラーの元祖とも言える人物でもあった[5][6]

2023年10月8日に川崎市内の病院で死去した。83歳没[3]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1958 巨人 14 2 0 0 0 0 0 -- -- ---- 140 31.2 20 1 26 0 0 23 5 0 13 7 1.97 1.45
1959 11 3 0 0 0 1 1 -- -- .500 126 29.0 23 3 18 0 0 35 2 0 14 14 4.34 1.41
1960 10 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 76 18.0 14 1 10 0 0 14 0 0 11 9 4.50 1.33
通算:3年 35 6 0 0 0 1 2 -- -- .333 342 78.2 57 5 54 0 0 72 7 0 38 30 3.42 1.41

記録

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背番号

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  • 45(1958年 - 1961年途中)
  • 47(1961年途中 - 1962年)

脚注

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  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、230ページ
  2. ^ 偵察メンバーとしての出場
  3. ^ a b 【巨人】元投手、スコアラーの小松敏宏さんが死去 王貞治と甲子園決勝で対戦”. スポーツ報知 (2023年10月11日). 2023年10月11日閲覧。
  4. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  5. ^ プロ野球選手を丸裸に…仕事人「スコアラー」の知られざる伝説」『週刊現代』、講談社、2020年3月18日、1-5頁。 
  6. ^ "巨人・王の"眼"だったスコアラー・小松敏宏さん死去…王選手の868本塁打を影で支える". スポーツ報知. 報知新聞社. 11 October 2023. 2023年10月16日閲覧

関連項目

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外部リンク

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