コンテンツにスキップ

小林浅三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小林こばやし 浅三郎あささぶろう
南京での降伏受諾式。小林浅三郎(左)と何応欽
生誕 1891年4月1日
日本の旗 日本 兵庫県
死没 (1974-03-07) 1974年3月7日(82歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1912年 - 1946年
最終階級 陸軍中将
テンプレートを表示

小林 浅三郎(こばやし あささぶろう、1891年明治24年)4月1日 - 1974年昭和49年)3月7日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

[編集]

兵庫県出身。農業・小林荘助の三男として生れる。鳳鳴中学校卒を経て、1912年明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第70連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て1922年大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業。

1923年(大正12年)1月、歩兵第70連隊中隊長に就任。陸軍歩兵学校教官を経て、1927年昭和2年)3月から1929年(昭和4年)6月までイギリスに駐在。この間、1927年12月、歩兵少佐に昇進した。1929年8月、歩兵学校教官となり、教育総監部課員に転じ、1931年(昭和6年)8月、歩兵中佐に進級。1933年(昭和8年)8月、秩父宮雍仁親王付武官に就任。1935年(昭和10年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵学校教官となる。1936年(昭和11年)8月、近衛師団参謀長に発令され、歩兵第3連隊長を経て、1938年(昭和13年)11月、陸軍少将に進級し第12軍参謀長に着任、日中戦争に出征。

1939年(昭和14年)12月、教育総監部第1部長に転じ、歩兵学校長、第4軍参謀長を歴任。1941年(昭和16年)8月、陸軍中将に進み、同年12月、防衛総参謀長に就任し太平洋戦争を迎えた。1943年(昭和18年)6月、第30師団長に親補され平壌に赴任。1944年(昭和19年)3月、防衛総参謀長に再任。1945年(昭和20年)2月、支那派遣軍総参謀長に異動し南京で終戦を迎えた。1946年(昭和21年)7月に復員

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

栄典

[編集]

親族

[編集]
  • 息子 小林秀樹(陸軍少佐)
  • 息子 小林卓樹(陸軍中尉)
  • 義父 北山弥三郎(陸軍少将)

脚注

[編集]
  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。
  2. ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。