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小金城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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小金城
千葉県
障子堀
障子堀
別名 大谷口城、開花城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 高城胤吉
築城年 天文6年(1537年
主な改修者 高城胤辰後北条氏?
主な城主 高城氏武田信吉
廃城年 文禄2年(1593年
遺構 空堀、土塁、切岸、曲輪
指定文化財 未指定
位置 北緯35度49分55.0秒 東経139度55分13.07秒 / 北緯35.831944度 東経139.9202972度 / 35.831944; 139.9202972
地図
小金城の位置(千葉県内)
小金城
小金城
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小金城(こがねじょう)は、千葉県松戸市大谷口付近(下総国葛飾郡)にあった日本の城

概要

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標高20mほどの丘陵地帯にあり、古利根川中川荒川流域の低地帯を一望できる場所である。城域は東西800m[注 1]、南北700mにおよび、12もの郭を備えて、当時の下総国北西部においては最大規模を誇った平山城である。大谷口城開花城とも呼ばれる。

金杉口土塁

要害の城であったが、太日川(現在の江戸川)の要でもあったため、水運により城下は市が立ち並んで金宿(後の小金宿)が形成され、周辺の本土寺東漸寺が領主高城氏の保護を受けて栄えるなど、軍事的にも経済的にも栄えた場所であった[注 2]

城の歴史

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千葉氏の家老原氏の重臣であった高城氏の居城である。原氏が室町時代享徳の乱上杉氏と対立関係に入った時期に、上杉勢力の下総侵攻を防ぐ拠点とするために重臣の高城氏を小金に配置したものと考えられている[注 3](金領(こがねりょう))。

小金城(大谷口城)は、享禄3年(1530年)に阿彦丹後入道浄意が縄張りをし、天文6年(1537年)9月に高城胤吉によって築かれた。高城氏は根木内城より居城を移して、胤吉、胤辰胤則と3代53年の居城となった。胤吉は城建設以前には近郊の栗ケ沢城根木内城を根拠地として構えていたが、小弓公方足利義明の進出に対抗するために大谷口に新城を築城して移った[1]

北に金杉口、東に大手口、丑寅に達磨口、西に横須賀口、南に大谷口を設け、横須賀口には家臣を住まわせ、その規模・内容は稀にみる大がかりなもので、完成の祝宴も盛大であったという。以来、天正十八年の豊臣秀吉の小田原攻めで落城するまで、三代に亘って栄えた。

永禄年間(1560年代)、古河御所を追われた古河公方足利義氏の仮御所[注 4]の役目と、義氏に敵対する関東管領上杉憲政を擁立して関東へ侵攻した上杉謙信に備えて拡張が行われたものと考えられている。実際、永禄4年(1561年)7月から12月[注 5]にかけて足利義氏は小金城に在城している[2]。また、永禄9年(1566年)2月には上杉方に小金城を包囲されたが、籠城して乗り切ることに成功している(黒田基樹は小金城が一時的とはいえ古河公方の御座所となったことで、古河公方の正統性を巡る争いにおいて特殊な意味を持つようになった可能性を指摘している)[3]

天正18年(1590年)の小田原征伐の際、後北条氏方の高城氏は小田原城に篭城し、豊臣氏方の浅野長政らに攻められ落城し、火をかけられた。発掘調査の際には本城と中城の表土が赤色化していたのはそのためであると考えられている[1]

その後、徳川家康の関東移封に伴い、家康の五男・武田信吉が入城する。信吉は文禄元年(1592年)に下総国佐倉城主として転封となり、小金城は文禄2年(1593年)に廃城となった[注 6]

高城・小金城落城後、元禄11年(1699年)4月、下総国葛飾郡栗ヶ沢村の知行所に代わり、下総国葛飾郡大谷口村236石が徳川幕府方直参旗本土屋正克の領地となり、圧政ではなく大熊家や八木原家などの有力者と相携えて村人と融和し両者対立することなく村の統治を行った。その後幕末まで土屋家が領主であり続ける。

現代

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畝堀

昭和40年代頃までは森林の中に遺構がほぼ完存していたが、宅地開発により、多くが消失している。残存した城跡の一部が大谷口歴史公園として整備されており、後北条氏関連の城跡で多く見られる畝堀障子堀、土塁などの遺構が残る。また達磨口にはかつて引き橋が架かっていたと言われている土塁と堀切の様な場所が残り、馬場と呼ばれる付近にも土塁や空堀のの名残らしき物が有る。なお、昭和37年(1962年)および平成3年(1991年)に宅地造成に際して松戸市によって発掘調査が行われており、多くの建物跡、櫓跡、また鉄砲の弾や陶磁器などが発見されている[1]

1960年代ごろまでは本城への土橋と空堀が完全に存在していて、その写真は日本城郭大系に掲載されているが、現在残るのは金杉口、達磨口付近の遺構だけである。最も戦闘的な主要建造物を有した「本城」「中城」などは昭和39年の宅地開発により消失している。

近年(2010年代半ば)まで本城と言われる部分の所々に土塁が残っていたが、徐々に減りつつある。

脚注

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注釈

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  1. ^ 900mという記載もある[1]
  2. ^ なお、小金城の発掘では瀬戸常滑焼中国産と見られる陶磁器も出土しており、こうした出土品からも小金が幅広い地域と水運を通じて結びついていた事実を示している。
  3. ^ 原氏の小金支配を巡っては、小金城の築城者を高城胤吉以前の原氏に求める意見もある。これは小金城や根木内城の遺構から室町時代の陶磁器が出土していることによる。原氏が戦国時代初期に小弓公方に追われて一時小金に拠点を置いていた事が知られており、高城氏以前の小金城(「前期小金城」)や根木内城などの小金付近のいずれかの城に原氏の拠点としての「小金城」があったと見られている。
  4. ^ ただし、北条氏康野田政保(古河公方家臣)に充てた書状では、「(義氏は)当初は江戸城に移る予定であったものが、芳春院(義氏生母・氏康の姉妹)逝去などで準備が遅れたためにその代替で小金城に移られた。」と書かれており、小金城の改築中に偶々公方移座が重なっただけであるとする見方もある。また、黒田基樹は小金移座を小金城と江戸城の中間にある葛西城が上杉方に奪われてしまったための措置としている。
  5. ^ 足利義氏の次の滞在先とみられる上総国佐貫城での在城が確認できるのは翌永禄5年5月であるため、小金から佐貫への移座はもう少し後であった可能性もある。黒田基樹は葛西城が永禄5年3月に北条方に取り戻されたにも関わらず、江戸城や葛西城への公方移座の話題が出た形跡がないため、3月時点では義氏は佐貫城にいたとしている。
  6. ^ ただし、慶長5年7月23日徳川家康に従って東軍(関ヶ原の戦い)に参加していた里見義康が小金に陣を設置しており、この陣が小金城と関連性があるともされるが不詳である。

出典

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  1. ^ a b c d 千葉県教育委員会 2021, p. 144.
  2. ^ 黒田基樹「総論 古河公方・足利義氏の研究」『古河公方・足利義氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三七巻〉、2024年5月、17頁。ISBN 978-4-86403-527-9 
  3. ^ 黒田基樹「総論 古河公方・足利義氏の研究」『古河公方・足利義氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三七巻〉、2024年5月、19-20頁。ISBN 978-4-86403-527-9 

参考文献

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  • 千葉城郭研究会 編『図説房総の城郭』(国書刊行会、2002年)ISBN 4-336-04433-3
  • 千野原靖方『東葛の中世城郭 千葉県北西部の城・館・城跡』(崙書房出版、2004年)ISBN 4-8455-1101-0
  • 『日本城郭大系 千葉県/神奈川県』
  • 「八木原家文書」
  • 「旧大谷口村名主大熊家文書(松戸市史史料編1)」
  • 『大倉邦夫自伝 : 希望に向かいて』(大倉邦夫自伝刊行会)
  • 千葉県教育委員会 編『千葉県の中世城館』 1巻(初版)、戎光祥出版、東京都千代田区麹町1-7 相互半蔵門ビル8階、2021年8月10日。ISBN 978-4-86403-389-3 

関連項目

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外部リンク

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