コンテンツにスキップ

尾高亀蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

尾高 亀蔵(すえたか[1] かめぞう、1884年明治17年)9月28日[1][2] - 1953年昭和28年)8月1日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・大谷。

経歴

[編集]

佐賀県出身[1][2][3]。農業・大谷平治の二男として生まれ、尾高家の養子となる[1]唐津中学校を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)を卒業する[1][2][4]。同期には岡村寧次土肥原賢二板垣征四郎安藤利吉陸軍大将がいる。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる[1][4]日露戦争に出征後、陸士生徒隊付、歩兵第13連隊中隊長などを経て、1916年大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した[1][2][3]

陸軍歩兵学校教官、関東兵站参謀教育総監部付、教育総監部課員などを歴任し、1923年(大正12年)8月、第14師団参謀となる[1]。第1戦車隊長、陸士本科生徒隊長、イギリス出張、歩兵第61連隊長などを経て、1932年(昭和7年)8月、陸軍少将に進級し陸軍兵器本廠付となる[1][2][3]東京警備参謀長第2独立守備隊司令官を勤め、1936年(昭和11年)4月、陸軍中将に昇進した[1][2][3]

第19師団長の際、張鼓峰事件が発生しソ連軍と交戦した[2]。新設の第12軍司令官となり、中国北部での任務に従事[1][2][3]。次いで第3軍司令官となり、満州東部の警備を担った[1][2][3]軍事参議官を経て、1941年(昭和16年)6月、予備役に編入された[1][2][3]

1942年(昭和17年)6月から終戦まで満州国建国大学副総長を務め、1946年(昭和21年)9月に帰国した[1]

著作

[編集]
  • 太田庄次編『尾高亀蔵の遺稿と追憶』私家版、1982年。

親族

[編集]

栄典

[編集]
位階
勲章

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、84頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官辞典』189-190頁。
  3. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』207頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』205、207頁。
  5. ^ 『官報』第6441号「叙任及辞令」1904年12月17日。※大谷亀蔵と記載
  6. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。