当山弘道
当山 弘道 | |
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生誕 |
1895年3月18日 日本 東京府 |
死没 | 1969年2月16日(73歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1916年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
墓所 | 多磨霊園 |
当山 弘道(とうやま ひろみち[1]、1895年〈明治28年〉3月18日[2] - 1969年〈昭和44年〉2月16日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]東京府出身[2]。陸軍士官学校第28期、陸軍大学校第40期卒業[2]。米国駐在を経て[1]、1926年(大正15年)3月11日、陸軍歩兵大尉に進級し[3]、3月29日に歩兵第1連隊附となり[3]、世田谷中学校に配属された[3]。1928年(昭和3年)11月に歩兵第1連隊中隊長に転じ[4]、1930年(昭和5年)3月に歩兵第1連隊附参謀本部附勤務に移った[5]。同年12月に参謀本部部員となり[6]、1931年(昭和6年)8月に陸軍歩兵少佐に進級した[6]。1932年(昭和7年)4月に陸軍歩兵学校教導隊附兼教官に転じ[7]、1933年(昭和8年)8月に戦車第2連隊附(第1師団[8][9])[10]、1934年(昭和9年)4月に歩兵第1連隊附と歴任した[11]。
1936年(昭和11年)3月7日に戦車第2連隊附となり[12]、8月1日に陸軍歩兵中佐に進級し[12]、12月1日には陸軍戦車学校教官に転じた[1]。1937年(昭和12年)8月に留守第1師団参謀長(東部防衛司令部[13][14][15])に転じ[1]、1938年(昭和13年)7月に陸軍歩兵大佐に進級[1]、1939年(昭和14年)3月に第32師団参謀長(第12軍)に就任して日中戦争に出動[1][2]。魯南剿共作戦などに参加した[2]。1940年(昭和15年)12月に公主嶺陸軍戦車学校教官に転じた[1]。
1942年(昭和17年)8月1日、陸軍少将進級と同時に戦車第1旅団長(関東軍・機甲軍・戦車第1師団)に着任し[1][2]、1943年(昭和18年)6月に千葉陸軍戦車学校長に転じた[2]。1944年(昭和19年)7月8日に戦車第4師団司令部附(防衛総司令部)となり[2]、11月22日に教導戦車旅団長(関東軍)に着任した[2]。1945年(昭和20年)4月16日に独立戦車第8旅団長(第1総軍・第13方面軍)に就任し[2]、4月30日に陸軍中将に進級した[1]。同旅団は静岡県三ケ日に布陣し[2]、本土決戦に備えていた[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 外山 1981, 394頁.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 福川 2001, 492頁.
- ^ a b c 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和2年9月1日調449頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和3年9月1日調426頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和5年9月1日調415頁
- ^ a b 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和6年9月1日調264頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和7年9月1日調258頁
- ^ 外山・森松 1987, 372頁.
- ^ 外山・森松 1987, 373頁.
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和8年9月1日調241頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和9年9月1日調218頁
- ^ a b 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和11年9月1日調177頁
- ^ 外山・森松 1987, 566頁.
- ^ 外山・森松 1987, 567頁.
- ^ 外山・森松 1987, 568頁.
参考文献
[編集]- 外山操・森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。