戸川秀安
戸川秀安の墓(玉野市有林堂) | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文7年(1538年) |
死没 | 慶長2年9月6日(1597年10月16日) |
改名 | 富川正利→富川秀安(戸川秀安)→友林(号) |
別名 |
戸川通安 通称:平助、平右衛門尉 |
戒名 | 自任斎枋授友林居士 |
墓所 | 岡山県玉野市宇藤木の常山麓にある友林堂 |
官位 | 肥後守 |
主君 | 宇喜多直家→秀家 |
氏族 | 戸川氏 |
父母 |
父:門田某、または、戸川定安 母:宇喜多忠家の乳母 |
妻 | 正室:鷹取備中守の妹 |
子 | 達安、正安、勝安、女(坂崎直盛室) |
富川 秀安/戸川 秀安(とがわ ひでやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。宇喜多氏の家臣。通称は平助、平右衛門尉、肥後守。諱ははじめ正利。また通安とも。秀安の諱はのちに豊臣秀吉から一字拝領を受けたもの。正室は鷹取備中守の妹。子に戸川達安、戸川正安(達安の次男と同名)、戸川勝安、坂崎直盛室。
なお、姓は本来富川であり、戸川を名乗るようになったのは、子の達安の代からである。
出自
[編集]秀安の出自には2説あり、いずれも一定の支持を受けている。
門田氏説
[編集]『戸川家系譜』などがこの説を採っている。父は備後国の国人である門田某とされるが、早くに父が死去したことで母と共に美作国へ移り、姉婿である富川禅門の許へ寄寓した。まもなく母が備前福岡に逃れていた宇喜多興家の子(忠家ら)の乳母として奉公したことから、秀安も宇喜多直家に仕えるようになった。
宇喜多能家妾腹説
[編集]『寛政重修諸家譜』などはこの説を採っている。父は宇喜多能家の妾腹の子である定安で、家臣の富川正実の元に養子に出されたといわれる。能家が島村盛実らに襲撃された際に、美作国に在した正実の兄である富川禅門の元に逃れ、後に母が備前福岡に逃れていた宇喜多興家の子(忠家ら)の乳母として奉公したことから、秀安も宇喜多直家に仕えるようになった。
生涯
[編集]母が備前福岡で宇喜多直家の弟(忠家・春家)の乳母であった関係で、直家が乙子城主となった天文14年(1545年) 頃から小姓として仕えはじめ、永禄9年(1566年)、三村家親の弔い合戦と称して三村五郎兵衛が寡兵を率いて、備前に攻め入ったときに、宇喜多忠家らとともに迎え討っている姿が見える。その後は三村氏や毛利氏らとの戦いにたびたび出陣し、武功を立てた。
元亀元年(1570年)、直家が謀略により金光宗高を切腹させた後の石山城(岡山城)の接収を馬場職家とともに執り行った。
天正3年(1575年)には常山城主となり、2万5千石を領して、宇喜多氏随一の有力家臣となっていた。
天正4年(1576年)7月13日の第一次木津川口の戦いでは宇喜多水軍を率いて、石山本願寺に兵糧を運び込む毛利方として参戦し、戦後の7月15日に毛利軍の木梨元恒、村上吉充、生口景守、児玉就英、村上武満、粟屋元如、井上春忠、包久景勝、桑原元勝、村上景広、香川広景、村上吉継、乃美宗勝、村上元吉と共に連名で児玉元良、児玉春種、岡就栄に対し、木津川口の戦いについての報告をしている[1]。
岡家利や長船貞親と並ぶ宇喜多三老の一人であったが、直家の信任は三老の中で最も厚かったといわれており、直家の晩年頃から宇喜多氏の国政を任されたが、直家の死後は家督を嫡男の戸川達安に譲って隠居し、友林と号した。
慶長2年(1597年)9月6日に死去。享年60。墓所は岡山県玉野市宇藤木の常山麓にある友林堂。法名は「自任斎枋授友林居士」。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『毛利家文書』第338号、天正4年(1576年)比定7月15日付け、兒玉三郎右衛門尉(元良)殿・兒玉東市助(春種)殿・岡和泉守(就栄)殿宛て、木梨又五郎元恒・村上新藏人吉充・生口刑部丞景守・兒玉内藏大夫就英・富川平右衛門尉秀安・村上刑部少輔武滿・粟屋右近允元如・井上又右衛門尉春忠・包久少輔五郎景勝・桑原右衛門大夫元勝・村上少輔五郎景廣・香川左衛門尉廣景・村上河内守吉繼・乃美兵部丞宗勝・村上少輔太郎元吉連署注進状。
参考文献
[編集]- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-1 毛利家文書之一』東京帝国大学、1920年1月。国立国会図書館デジタルコレクション
外部リンク
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