松田巌 (陸軍軍人)
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松田 巌 | |
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生誕 |
1895年2月23日 日本 石川県 |
死没 | 1979年3月26日(84歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1916 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
松田 巌(まつだ いわお、1895年(明治28年)2月23日[1] - 1979年(昭和54年)3月26日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]石川県出身[1][2]。1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業[1][3]。同年12月、歩兵少尉に任官[3]。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業して後に陸軍運輸部に配属された[1][2][4]。1926年(大正15年)3月、大尉に昇進[要出典]。1932年(昭和7年)2月、陸軍歩兵学校教官兼野戦砲兵学校の研究部部員を経て[要出典]、同年4月、少佐に昇進した[要出典]。1933年(昭和8年)8月1日、陸軍習志野学校教官に就任[5]。1936年(昭和11年)8月、中佐に進級し第19師団参謀を務めた[要出典]。
1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進し歩兵第86連隊長に就任し日中戦争に出征[1][2]。杭州に駐屯した[1]。第110師団参謀長を経て[1]、1940年(昭和15年)12月、陸軍公主嶺学校教官に異動[2]。1941年(昭和16年)10月、第23師団参謀長となり太平洋戦争を迎えた[1][2]。1942年(昭和17年)8月、陸軍少将に進級し、同年9月、第14歩兵団長に就任[1][2]。1943年(昭和18年)2月、第4船舶団長(船舶司令部)に移り、ニューブリテン島に出征した[1][2]。同年10月、第65旅団長に就任し[2]ツルブの戦いの指揮を執る[1]。のちに転進しラバウルの守備を担った[1]。
1945年(昭和20年)4月、陸軍中将に進み終戦を迎えた[1][2]。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[6]。