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源雅具

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源雅具
時代 鎌倉時代前期
生誕 元暦元年(1184年
死没 正嘉元年(1257年)8月21日以降[1]
改名 重能(初名)→雅具→蓮円(法名)
官位 正二位権中納言
主君 後白河法皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇
氏族 村上源氏雅兼流
父母 父:源兼忠
兄弟 雅具、師憲、頼方
土御門院播磨局(高階業国の娘)
雅言親頼
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源 雅具(みなもと の まさとも)は、鎌倉時代前期の公卿村上源氏雅兼流、権中納言源兼忠の子。官位正二位・権中納言。大納言源通具の子となる[2]

経歴

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白河院鳥羽院からの信頼が厚かった源雅兼の子孫である。雅兼、雅頼兼忠、といずれも権中納言に至った。雅具も最終的には権中納言に至り家門を維持できたのであるが、父祖たちとは異なり、前半生はかなり不遇であった。

承元3年(1209年)1月13日、侍従に任ぜられる[3]。この時、従五位上。建暦2年(1212年)11月11日、承明門院御給により、正五位下に昇叙。承久2年(1220年)1月22日、左少将に任ぜられる。承久3年(1221年)1月13日、出雲介を兼ねる。同日、従四位下に昇叙。

同年閏10月、承久の乱により土佐国に配流となった土御門院に同行する[4]。その後の動向は定かでないが、寛喜3年(1231年)の土御門院崩御後、文暦2年/嘉禎元年(1235年)頃には中原師員の婿となり、勢いを得ていたという[5]

嘉禎3年(1237年)1月24日、従四位上に昇叙。暦仁2年(1239年)1月24日、治部卿に任ぜられる。仁治元年(1241年)11月12日、嘉陽門院の御給により正四位下に昇叙。仁治3年(1242年)6月16日、復任。寛元3年(1245年)6月26日、62歳にして蔵人頭に補せられる。治部卿が蔵人頭に補せられることは極めて珍しかった。同年10月29日、従三位に叙せられる。治部卿は元の如し。寛元4年(1246年)2月23日、加賀権守を兼ねる。宝治2年(1248年)11月2日、治部卿から大蔵卿に遷る。

建長2年(1250年)1月13日、参議に任ぜられる。建長3年(1251年)1月22日、遠江権守を兼ねる。建長4年(1252年)12月4日、権中納言に任ぜられる。建長5年(1253年)4月8日、従二位に昇叙。建長6年(1254年)1月13日、権中納言を辞し、代わりに息男右少将雅言を右少弁に挙任する。正嘉元年(1257年)閏3月27日、正二位に昇叙。同年8月21日、出家。法名は蓮円。

子に大納言に至った雅言、左少将に至った親頼がいる。

系譜

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脚注

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  1. ^ この時の年齢から、没年はそれほど後ではないと考えられる。
  2. ^ 『尊卑分脈』による。承元2年(1208年)3月に父兼忠が薨去したためと考えられる。
  3. ^ 以下、特に注のない内容は『公卿補任』と『尊卑分脈』による。
  4. ^ 吾妻鏡』承久3年閏10月10日条。
  5. ^ 明月記』嘉禎元年3月25日条
  6. ^ 花山院家の家司。
  7. ^ 本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』、廷臣小伝。

参考文献

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