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田沢芳夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田沢 芳夫
1955年ごろ撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 山形県鶴岡市
生年月日 1936年8月28日
没年月日 (2008-01-25) 2008年1月25日(71歳没)
身長
体重
175 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
初出場 1955年
最終出場 1962年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

田沢 芳夫(たざわ よしお、1936年8月28日 - 2008年1月25日)は、山形県出身のプロ野球選手投手)である。

来歴・人物

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鶴岡工業高校では、エースとして1954年夏の甲子園予選東北大会で決勝に進出するが、福島商に敗退し甲子園出場を逸する。

卒業後の1955年南海ホークスに入団。同期には広瀬叔功、一期上には野村克也皆川睦雄がいた。2年目の1956年にはチーム最多の15勝を挙げ、翌1957年も10勝を記録するなど先発ローテーションの一角として活躍した。

1957年6月24日の対阪急ブレーブス戦(大阪スタヂアム)では9回2死まで無安打無得点に抑えたものの、ノーヒットノーラン達成まであと1人の場面で滝田政治に初安打を許し阻止されている(後1人で阻止されたのはパ・リーグ史上2人目)[1]

1959年は2勝に終わるが、読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第2戦に先発。しかし早々に打ち込まれ2回に降板した。1961年も先発として起用され8勝を記録して復活したと思われた[2]。しかし、肩を壊したため1963年には登板機会がなくなり、27歳で現役引退。直球とシュートを武器としていた。

引退後は野球界を離れ、鶴岡一人監督の紹介で早川電機工業(現・シャープ)に就職。定年退職後は少年野球の「八尾フレンド」のヘッドコーチを務めていた。

2008年1月25日、急性心筋梗塞のため大阪府藤井寺市の自宅で死去[3]、71歳没。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1955 南海 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 5 1.0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 2.00
1956 49 23 4 2 1 15 8 -- -- .652 790 199.0 168 2 51 3 4 89 0 0 52 40 1.81 1.10
1957 30 16 4 1 0 10 6 -- -- .625 529 131.2 99 4 32 2 5 64 3 1 43 33 2.25 0.99
1958 23 13 4 2 1 7 5 -- -- .583 387 95.0 92 5 21 0 2 40 1 0 31 27 2.56 1.19
1959 15 3 0 0 0 2 0 -- -- 1.000 159 36.0 44 2 10 0 2 12 0 0 23 18 4.50 1.50
1960 12 3 0 0 0 0 1 -- -- .000 84 19.1 26 2 3 0 0 8 0 0 12 8 3.60 1.50
1961 37 20 1 1 0 8 4 -- -- .667 472 113.1 110 8 24 3 0 59 2 0 48 36 2.84 1.18
1962 22 5 0 0 0 2 2 -- -- .500 261 65.0 61 8 19 0 1 31 0 0 36 30 4.15 1.23
通算:8年 189 83 13 6 2 44 26 -- -- .629 2687 660.1 602 31 160 8 14 303 6 1 245 192 2.61 1.15

背番号

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  • 39 (1955年 - 1963年)

脚注

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  1. ^ 記録メモ(個人投手編)パ・リーグ公式サイト
  2. ^ “ホークスの歩み(1961年)”. 福岡ソフトバンクホークス. https://www.softbankhawks.co.jp/ocms/pc/team/history/vol07.html 2020年4月4日閲覧。 
  3. ^ 元南海投手 田沢芳夫さん死去”. スポニチ Sponichi Annex 野球 (2008年1月25日). 2020年12月11日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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