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男性・女性

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
男性・女性
Masculin, féminin: 15 faits précis
監督 ジャン=リュック・ゴダール
脚本 ギ・ド・モーパッサン
ジャン=リュック・ゴダール
製作 アナトール・ドーマン
出演者 ジャン=ピエール・レオ
シャンタル・ゴヤ
マルレーヌ・ジョベール
音楽 ジャン=ジャック・ドゥブー
撮影 ウィリー・クーラン
編集 アニエス・ギュモ
製作会社 スヴェンスク・フィルムインドゥストリ
アヌーシュカ・フィルム
アルゴス・フィルム
サンドリューズ
配給 フランスの旗 コロムビア・フィルム
日本の旗 東和/ATG
公開
上映時間 110分
製作国 フランスの旗 フランス
 スウェーデン
言語 フランス語
スウェーデン語
英語
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男性・女性』(フランス語: Masculin féminin: 15 faits précis)は、1966年フランススウェーデン合作映画。監督はジャン=リュック・ゴダール

概要

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本作のとりあえずの原作は、19世紀の文豪ギ・ド・モーパッサンの短編小説『ポールの恋人』(1881年)と『合図』(1886年)である。「15の明白な真実 15 faits précis」と副題された通りの15のエピソードで、1965年冬のパリの若者の姿をダイレクトに捉える。

映画製作会社「アルゴス・フィルム」を率いる映画プロデューサーアナトール・ドーマンは、アラン・レネ監督の『二十四時間の情事』(1959年)のヒットを持ち、人類学者映画監督ジャン・ルーシュとおなじく社会学者エドガール・モランの共同監督作『ある夏の記録』(1961年)や、ゴダールの『アルファヴィル』(1965年)に多くの啓示を与えたクリス・マルケル監督の『ラ・ジュテ』(1962年)といった作品を手がけたドキュメンタリー/実験映画畑のプロデューサーであった。ゴダールとは本作が初の顔合わせであったが、シネマ・ヴェリテの手法をとりたかったゴダールにはうってつけの人物であった。

さらに助監督として、1918年生まれでゴダールにとっての大先輩である、撮影当時47歳のジャック・バラティエ監督が本作をアシストした。のちに長編ドキュメンタリー映画『想い出のサンジェルマン』(1967年)として結実する、短編ドキュメンタリー映画『Désordre(無秩序)』(1949年)を撮った経験と手腕が必要だったからだ。バラティエは本作が撮影に入る1965年、『女と男のいる舗道』(1962年)の助監督だったベルナール・トゥブラン=ミシェルと共同監督で『L'Or du duc(公爵の黄金)』を撮ったばかりで、同作の20歳違いの監督ふたりが、豪華すぎる助監督として『男性・女性』の演出まわりを固めた。

これまで『アルファヴィル』や『気狂いピエロ』に脇役として出演し、助監督も兼務していたジャン=ピエール・レオが初めて主演した。

本作はスウェーデンとフランスの合作で、若者の文化と意識の問題を扱うのに、スウェーデン映画界の協力は必須であった。戦前からのスウェーデン映画を支えたスヴェンスク・フィルムインドゥストリ社とサンドリュース社は、当時、性先進国としていわゆる「スウェーデン・ポルノ」も製作していた。ゴダールとアンナ・カリーナ1964年に設立した製作会社「アヌーシュカ・フィルム」にとっての第3作であり、初めての合作映画であった。また「アヌーシュカ・フィルム」社は、ジャン・ユスターシュ監督に本作『男性・女性』の未使用フィルムを提供し、中篇映画『サンタクロースの眼は青い』(1966年)を製作した。一種のスピンアウト作である。

カメオ出演は多岐にわたる。まず、フランソワーズ・アルディブリジット・バルドーが出演。バルドーといっしょにカフェにいる男役は、新婚早々のゴダールとカリーナがともに映画内映画出演しているアニエス・ヴァルダ監督の『5時から7時までのクレオ』(1961年)のクレオの相手役アントワーヌ・ブルセイエが務めた。地下鉄の中の女役に『はなればなれに』(1964年)のクロード・ブラッスールの叔母役シャンタル・ダルジェ、いっしょにいる男役にモーリタニア系フランス人映画監督のメド・オンド。のちにそろってクロード・シャブロル監督の『女鹿』(1968年)に出ることになるドミニク・ザルディアンリ・アタルや、本作で俳優デビューし『メイド・インUSA』(1966年)や『ウイークエンド』(1967年)と立て続けにゴダール作品に出演することになるイヴ・アフォンソが出演している。またスウェーデン映画の中の女は歌手のエヴァ=ブリット・ストランドベルイ、『われらの恋に雨が降る』(1946年)に主演したイングマール・ベルイマン組の常連俳優ビルイェル・マルムステーンが起用されている。

撮影監督のウィリー・クーランはベルギー生まれのカメラマンで、本作に入る直前、マラン・カルミッツの映画監督時代の初期短編をいくつも手がけていた。カルミッツは『5時から7時までのクレオ』でトゥブラン=ミシェルとともに助監督をつとめていたので、撮影現場で出演者のゴダールとすでに顔をあわせている。カルミッツといえば、奇しくも1979年ゴダールの商業映画への復帰を果たした『勝手に逃げろ/人生』の製作総指揮を執った、のちのMK2グループの総帥である。

本作は、フランスのヌーヴェルヴァーグのイコン、ジャン=ピエール・レオを、ロマンティックな若い理想主義者で、売り出し中のポップ・スター、シャンタル・ゴヤ(イエイエガールのマドレーヌ役)を追っかける文字通り「ライオン・ワナビー」[2]な役どころ(ポール役)にキャスティングしている。明らかに違う音楽性(ポールはバッハマニア)と政治学習(ポールはコミュニストマドレーヌは無関心)にもかかわらず、ふたりはすぐにロマンティックな間柄になり、マドレーヌのふたりのルームメイト、カトリーヌ(カトリーヌ=イザベル・デュポール)とエリザベート(マルレーヌ・ジョベール)と4人で同居することになる。

表面上はギ・ド・モーパッサンの2つの作品に基づいているが、ゴダールはぶっつけ本番のルポルタージュと「演出(Mise en scène)」を混ぜ合わせ、若さと性(フランスでは、18歳未満には禁じられた。「真の観客と考えていたのに」とゴダールはぼやいた。そのときベルリン国際映画祭は「若者のためのベストフィルム」と名づけた)の著しく正直な肖像をつくりだそうとした。ゴダールのカメラは、愛とセックスと政治についての一連のシネマ・ヴェリテ・スタイル(vérité-style )のインタビューにおいて、若い俳優たちを深く探った。

ここで抱いた若い世代への興味が、翌1967年マオイストシネフィルの青年ジャン=ピエール・ゴラン(当時24歳)との出逢いを生み、そして『中国女』(1967年)や『たのしい知識』(1968年)などの若い世代だけのための映画へと発展し、さらには毛沢東主義への思想傾倒へ、シネマ・ヴェリテを旨とした映像製作グループ「ジガ・ヴェルトフ集団」(1968年 - 1972年)の結成へ導くこととなった。

本作からのもっとも有名な引用句は、実際に章間にインサートされたタイトルにあるこのひと言である。「この映画は『マルクスコカコーラの子どもたち』と呼ばれたい」。

1965年11月22日から12月13日にかけて撮影は行われた。ロケ地はパリとストックホルム[3]

公開

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1966年3月22日、フランスで公開された[1]

同年4月28日、ゴダールが初来日する。ミシェル・ボワロン監督の『OSS117/東京の切札』の撮影のため滞日中のマリナ・ヴラディと会い、次回作の出演を依頼することが目的の一つだった[4]。ゴダールは、日本では公開されていなかった『アルファヴィル』『気狂いピエロ』『男性・女性』の3作のフィルムを持参した[5]。滞在期間中の5月7日、日本フィルムライブラリー助成協議会の主催により、3本のうち『男性・女性』が東京国立近代美術館で上映された。上映会の来会者は日本映画ペンクラブ会員、日本映画監督協会員、日本シナリオ作家協会員などに限られ、上映後、ゴダールは質疑に応じた(通訳は岩崎力[4][6]

同年6月24日から7月5日にかけて開催された第16回ベルリン国際映画祭に出品され、青少年向映画賞を受賞。また、ジャン=ピエール・レオは最優秀男優賞を受賞した。

同年10月11日から19日にかけて第4回「フランス映画祭」が東京の東商ホールと草月ホールで開催された。『アルファヴィル』『気狂いピエロ』『男性・女性』のほか、『戦争は終った』『城の生活』『創造物』『悲しみの天使』『317小隊』『バルタザールどこへ行く』など計23本の映画が上映された。本作品は10月19日に上映された[7][8]

1968年7月20日、日本で一般公開された[1]

スタッフ

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キャスト

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評価

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レビュー・アグリゲーターRotten Tomatoesでは46件のレビューで支持率は96%、平均点は8.40/10となった[9]Metacriticでは14件のレビューを基に加重平均値が93/100となった[10]

脚注

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  1. ^ a b c Masculin féminin - IMDb(英語)
  2. ^ 訳注:「ライオンになりたい(lion-wannabe)」=「レオ(leo)、子ライオンの意」と同発音の「レオ(Léaud)」とをかけている。英語版Wikipedia筆者のシャレと思われる。#解説の基調は、英語版Wikipedia「Masculin, féminin」の項の記述の和訳である。
  3. ^ ベルガラ 2012, pp. 686–687.
  4. ^ a b 柴田駿白井佳夫「ゴダール監督の日本の10日間」 『キネマ旬報』1966年6月上旬号、50-54頁。
  5. ^ 『映画評論』1966年7月号、7頁、「日本にやってきたゴダール」。
  6. ^ 『映画評論』1966年7月号、68-72頁、「ゴダールへの質問状」。
  7. ^ 映画評論』1966年11月号、8-10頁、「秋は映画祭でオオ忙がし」。
  8. ^ 『映画情報』1966年11月号、国際情報社、「フランス映画の粋を集めて 第4回フランス映画祭の参加作品」。
  9. ^ Masculin Féminin”. Rotten Tomatoes. Fandango Media. 2022年9月19日閲覧。
  10. ^ Masculin Féminin Reviews”. Metacritic. CBS Interactive. 2022年9月19日閲覧。

参考文献

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  • アラン・ベルガラ 著、奥村昭夫 訳『六〇年代ゴダール―神話と現場』筑摩書房〈リュミエール叢書〉、2012年9月25日。ISBN 978-4480873194 

外部リンク

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