第29師団 (日本軍)
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第29師団 | |
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創設 | 1941年(昭和16年)4月1日 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵種/任務 | 歩兵 |
所在地 | 満州遼陽-グアム |
編成地 | 名古屋 |
通称号/略称 | 雷 |
補充担任 | 名古屋師管区 |
上級単位 | 関東軍 |
最終上級単位 | 第31軍 |
最終位置 | マリアナ諸島 グアム島 |
戦歴 |
日中-太平洋戦争 (グアムの戦い) |
第29師団(だいにじゅうきゅうしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。
沿革
[編集]- 1941年(昭和16年)
- 1942年(昭和17年)
- 1943年(昭和18年):在満師団は駐屯体制に一部復員。編成縮小[3]。
- 1944年(昭和19年)
- 2月10日:南方派遣のため大陸用野戦師団より島嶼戦用海洋師団に編制改正(歩兵連隊= 歩兵大隊×3、砲兵大隊×1、工兵・補給・通信・衛生中隊×各1)[2][7]。東部軍に編入。
- 2月20日:絶対防衛圏構成のため、中部太平洋(マリアナ)派遣が決定され第31軍(小畑英良中将)編入[2][3]。
- 2月20日:遼陽を出発し釜山に集結。
- 2月24日:師団主力が、釜山港を出港。
- 2月25日:宇品沖(広島)に仮泊し物資を積載。駆逐艦「岸波」・「朝霜」・「沖波」の護衛の下、出航。
- 2月29日:沖大東島南方200kmにおいて米潜トラウトの雷撃を受け、安藝丸大破(30名散華)・東山丸小破(不発)・崎戸丸が沈没(歩兵第18連隊長・門間健太郎大佐以下2,358名・船員52名・船舶砲兵65名散華:海没後の連隊は、サイパン島で戦力回復。その後、グアムへ移動[2][3]。)。
- 3月4日 :
- 6月11日:米軍が大宮島に空襲を開始。飛行場・港湾施設が破壊される。
- 6月15日:米軍はサイパン島に上陸を開始。
- 6月21日:軍司令官・小畑英良中将がパラオより大宮島に来着[注釈 1]。
- 7月8日 :大宮島に艦砲射撃が開始[注釈 2]。
- 7月9日 :サイパン島守備の中部太平洋方面艦隊(南雲忠一中将)、第31軍(井桁敬治少将(軍司令官代理)[注釈 3])が総攻撃を決行し玉砕。
- 7月18日:大宮島に本格的な空母機空襲と艦砲射撃が開始[注釈 4]。
- 7月21日
- 7月24日:高品彪師団長は戦力の極度の低下に鑑み、明石湾において総反撃を決し「25日2400、総反撃」を下令。
- 7月26日:0800、敵の激烈な防御砲火、艦砲射撃に阻まれ、総反撃は頓挫。
- 7月27日:表半島守備隊指揮官・755空司令 楠木中佐は残存兵力を結集し総攻撃を敢行、玉砕。
- 7月28日:
- 本田台守備の独立混成第10連隊長・片岡一郎中佐 戦死。
- 高品師団長が陣地移動中に的野高地(マカジナ)中腹で戦死。
- 軍司令官・小畑中将が代わって指揮を継承。徒歩で又木山(マタグアック・大宮島北端)に向かう。
- 生存者は本田台南側谷地、的野高地付近から逐次、折田に集結。
- 春田山に左翼隊集成3コ中隊、平塚に右翼隊集成5コ中隊を配置(軍参謀長・田村義冨少将指揮)、米軍の拒止に努め、重傷者を後送。
- 7月31日:艦砲射撃と航空機に支援された米軍は北方に指向し明石市、次いで南下を開始し品川、折田西部に侵攻。
- 8月2日 :春田山に戦車を伴う米軍が侵攻。
- 8月3日 :
- 平塚に戦車を伴う米軍が侵攻。 火砲全損。将兵も大損害を受け防御線が突破される。
- 軍は多久井岬の線で敵を拒止すべく部隊を右翼隊(藤井少佐指揮250名)・中央隊(佐藤少佐指揮400名)・左翼隊(大川少佐指揮250名)に再編。
- 武器弾薬の欠乏、さらに水不足のなか敵の侵攻阻止にあたる。
- 8月6日 :中央隊守備の里井、右翼隊守備の宇久井陣地も突破される。
- 8月7日 :敵は高原山、又木山に浸透。
- 8月9日 :
- 米軍戦車50両が軍司令部の又木山前面に侵攻。
- 対戦車装備を持たない軍は苦戦。
- 小畑中将は兵力の激減に鑑み11日黎明を期して総攻撃を決意。
- 8月10日:敵戦車の攻撃に又木山の防御線が突破され、司令部も敵の攻撃に晒されるが、敵は夜半に一旦集結地に後退。 生存者約300名は司令部壕に集結。
- 8月10日:小畑中将は大本営に決別電を打電。
- 8月11日
- 8月12日:敵は又木山東側道路を突破、北島角方面に侵攻。
- 8月13日:白浜海岸を見下ろす台端に達し、大宮島守備隊は玉砕。 生存者はなおも密林に籠もって継戦。
終戦後
[編集]- 1945年(昭和20年)年9月15日:第29師団参謀・武田英之中佐以下1,000名が米軍に正式投降(守備隊総員20,810名、19,135名散華、1,305名生還)。
- 1972年(昭和47年)2月2日:歩兵第38連隊の補給中隊所属の横井庄一軍曹が現地人に発見され、帰還。
師団概要
[編集]歴代師団長
[編集]参謀長
[編集]編成時
[編集]- 第29歩兵団司令部(欠)
- 騎兵第29連隊(名古屋):
- 山砲兵第29連隊(名古屋):
- 工兵第29連隊(名古屋):
- 輜重兵第29連隊(名古屋):
- 第29師団通信隊(名古屋):
- 第29師団衛生隊:
- 第29師団兵器勤務隊:
- 第29師団第1野戦病院:
- 第29師団第2野戦病院:
- 第29師団第4野戦病院:
- 第29師団病馬廠:
- 第29師団防疫給水部:
最終所属部隊
[編集]- 歩兵第18連隊(豊橋→名古屋):大橋彦四郎大佐
- 歩兵第38連隊(奈良→静岡):末長常太郎大佐
- 歩兵第50連隊(松本→岐阜):緒方敬志大佐
- 第29師団戦車隊:佐藤秀夫少佐
- 第29師団輜重隊:洞下国吉中尉
- 第29師団海上輸送隊:藤井貞寿中佐
- 第29師団通信隊:須田保大尉
- 第29師団兵器勤務隊:亀井秀次中尉
- 第29師団経理勤務部:水谷松男中佐
- 第29師団野戦病院:森本和雄中佐
- 第29師団防疫給水部:立村弘造少佐
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 『陸軍軍戦備』朝雲新聞社(p.305)。
- ^ a b c d e f g グランドパワー『日本軍機甲部隊の編成装備(1)』。『日本軍機甲部隊の編成装備(2)』。
- ^ a b c d e f g h i 『陸軍軍戦備』朝雲新聞社。
- ^ 『陸軍軍戦備』朝雲新聞社(p.316)。
- ^ 山砲兵第十一聯隊史編集事務局『山砲兵第十一聯隊史』(聯隊正史、「昭和十六年七月十六日 陸満機密第九号に依り山砲兵第二十九連隊を編成せられ之が要員として陸軍少尉河野忠雄以下准尉三、下士官二十七、兵三四二名を転属す」)。
- ^ 山本 茂実『松本連隊の最後』 (1978年) (角川文庫)。
- ^ 『陸軍軍戦備』朝雲新聞社(p.400)。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』276頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』432頁。
参考文献
[編集]- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 山本 茂実『松本連隊の最後』 (1978年) (角川文庫)。
- グランドパワー『日本軍機甲部隊の編成装備(1)』。
- グランドパワー『日本軍機甲部隊の編成装備(2)』。
- グランドパワー『日本軍陸軍の特種部隊』。
- 『陸軍軍戦備』朝雲新聞社。
- 別冊歴史読本特別増刊号『日本陸軍連隊総覧・歩兵編』。
- 別冊歴史読本特別増刊号『日本陸軍機械化部隊総覧』。
- 別冊歴史読本特別増刊号『日本陸軍部隊総覧』。
- 別冊歴史読本特別増刊号『日本陸軍師団総覧』。
- 別冊歴史読本特別増刊号『日本陸軍総覧』。
- 別冊1億人の昭和史『日本陸軍史』、毎日新聞社。
- 1億人の昭和史『日本の戦史』シリーズ①~⑩、毎日新聞社。
- 山砲兵第十一聯隊史編集事務局『山砲兵第十一聯隊史』。
- 山本 茂実『松本連隊の最後』 (1978年) (角川文庫)。