胡金銓
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キン・フー 胡 金銓 | |||||||||||
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生年月日 | 1931年4月29日 | ||||||||||
没年月日 | 1997年1月14日(65歳没) | ||||||||||
出生地 | 中華民国 北平市(現:北京市) | ||||||||||
死没地 | 中華民国 台北市 | ||||||||||
職業 | 映画監督 | ||||||||||
ジャンル | 映画 | ||||||||||
配偶者 | 鍾玲(離婚) | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』(1967年) 『侠女』 (1971年) | |||||||||||
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胡 金銓(キン・フー、1931年4月29日 - 1997年1月14日[1])は、中国の映画監督[2][3]。『侠女』を手がけたことで知られている[3]。
経歴
[編集]1931年、北平市に生まれる[2]。19歳の頃、香港へ渡る[2]。
ショウ・ブラザーズにてデザイナーや俳優、脚本家として活動したのち、1965年に『大地兒女』で映画監督デビュー[2]。監督第二作の『大酔侠』で成功を収める[2]。1967年に手がけた『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』は、香港の興行収入の記録を打ち立てた[2]。1975年、『侠女』が第28回カンヌ国際映画祭の高等技術委員会グランプリを受賞する[4]。1979年、『山中傳奇』で第16回金馬奨の最優秀監督賞を受賞する[5]。
1997年1月14日、台北市にて死去[3]。65歳没[3]。
フィルモグラフィー
[編集]監督
[編集]- 大地兒女(1965年)
- 大酔侠(1966年)兼脚本
- 残酷ドラゴン 血斗竜門の宿(1967年)兼脚本
- 喜怒哀楽「怒」(1970年)
- 侠女 第一部:チンルー砦の戦い(1970年)/第二部:最後の法力(1971年)兼脚本
- 迎春閣之風波(1973年)兼脚本
- 忠烈図(1975年)兼脚本・製作
- 空山霊雨(1979年)兼美術
- 山中傳奇(1979年)兼脚本
- 終身大事(1981年)
- 天下第一(1983年)
- 大輪廻 第一話(1983年)
- スウォーズマン/剣士列伝(1990年、途中降板)
- ジョイ・ウォンの魔界伝説(1992年)
その他
[編集]- 一板之隔(1952年、朱石麟監督) - 美術
- 一家春(1952年、陶秦監督) - 美術
- 吃耳光的人(1953年、厳俊監督) - 美術・出演
- 有口難言(1955年、婁胎哲監督) - 助監督
- 雪裡紅(1956年、李翰祥監督) - 出演
- 金鳳(1956年、厳俊監督) - 助監督・出演
- 長巷(1956年、卜萬蒼監督) - 出演
- 三姉妹(1957年、卜萬蒼監督) - 出演
- 江山美人(1959年、李翰祥監督) - 出演
- 客途秋恨(1990年、アン・ホイ監督) - 製作総指揮
脚注
[編集]- ^ “King Hu”. AlloCiné. 2015年8月31日閲覧。
- ^ a b c d e f “King Hu, 65, Maker Of Kung Fu Films”. The New York Times (1997年1月17日). 2015年8月31日閲覧。
- ^ a b c d Weiner, Rex (1997年1月21日). “King Hu”. Variety. 2015年8月31日閲覧。
- ^ “17 Chinese films with a Cannes Award”. Shenzhen Daily (2015年5月29日). 2015年8月31日閲覧。
- ^ “第16届台湾电影金马奖”. Mtime. 2015年8月31日閲覧。
関連文献
[編集]- キン・フー、山田宏一、宇田川幸洋『キン・フー武侠電影作法』草思社、1997年。ISBN 978-4-7942-0770-8。