角田秀松
角田 秀松 | |
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角田秀松 | |
生誕 | 1850年3月25日 |
死没 | 1905年12月13日(55歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1874年 - 1905年 |
最終階級 | 海軍中将 |
墓所 | 青山霊園1ロ-16-21 |
角田 秀松(つのだ ひでまつ、1850年3月25日(嘉永3年2月12日) - 1905年(明治38年)12月13日)は、日本の武士(会津藩士)、海軍軍人。最終階級は海軍中将。戊辰戦争において「朝敵」とされた会津藩出身者として最初の海軍将官となった人物である。
経歴
[編集]会津藩医、角田良智の二男として生まれる。父の蝦夷地赴任に同行し、南摩綱紀に学んだ。秋月悌次郎に従って上洛し、林権助に洋式訓練を受ける。鳥羽・伏見の戦い、会津戦争と歴戦したが、藩の降伏を迎えた。古川庄八らに学んだ後、商船の水夫となり船長代理に昇る。征台の役に運送船に乗組んだ際に西郷従道の知遇を得て、1874年10月、長崎海軍出張所雇となる。翌月「雲揚」乗組となり、江華島事件に際会。陸戦隊を率いて上陸し、砲台を占領した[1]。同年12月、海軍少尉任官。「清輝」乗組として西南戦争に従軍し、同藩出身の雪下熊之助の戦死を見届けている。「孟春」乗組を経て、再度「清輝」乗組となり、日本艦船初のヨーロッパ巡航に航海長として参加した。
「東艦」副長、「扶桑艦」乗組、水雷練習所副長、水雷局副長、長崎水雷営長、横須賀鎮守府水雷司令、「浪速」艦長、佐世保知港事、佐世保海兵団長などを歴任。日清戦争前に初代・軍令部第1局長(のちの作戦部長)に就任した。山本権兵衛が開戦直前に海上作戦の重要性を参謀本部に説明に訪れた際は、角田が同行している[2]。戦中は大本営幕僚でもあった。
台湾総督府海軍局長を経て、1895年8月、海軍少将に進級し、台湾総督府において参謀副長兼海軍局長、軍務局海軍部長、海軍参謀長を歴任。1897年12月、佐世保鎮守府予備艦隊司令官、以後、呉鎮守府艦隊司令官、常備艦隊司令官を経て、1900年5月、海軍中将となった。さらに艦政本部長、将官会議議員を経て、常備艦隊司令長官に就任した。同艦隊の司令長官はその前身時代から、草創期における海軍の主体を成した薩摩藩、長州藩、佐賀藩の出身者が占めていた。角田はその三藩以外から初めて就任したのである。前任は東郷平八郎、後任は日高壮之丞であった。
日露戦争時には竹敷要港部司令官を務めたが、1905年12月に戦病死した[3]。その生前の功績により、1907年10月、嗣子角田武雄に男爵が追贈された。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 勲章
角田の談話
[編集]角田は戊辰戦争において「朝敵」とされた会津藩の出身である。草創期の海軍に入り、同藩出身者として最初の海軍将官となった。角田は当初、会津藩が激しく対立した薩摩藩、長州藩に強い敵愾心を抱いていたが、その心境に変化があったことを示す同郷の後輩鈴木寅彦に語った談話を下記に引用する。
余は亡国の士なり、故国の滅亡は、薩長の為す所なり、余は当事心に誓て、其復讐を為さんと欲し、志を決して海軍に入りたり、然るに一たび海軍に入るに及びては、均しく、天皇陛下の軍人なれば、恩讐の観念は頓に消滅し、唯共に、陛下に対して身命を擲つを以て、軍人の本分と為すに至れり — 会津会会報第12号
脚注
[編集]- ^ 『海は白髪なれど』「奥羽諸藩の海軍進出」
- ^ 『大海軍を想う』第一章「山本、閣議に爆弾を投ず」
- ^ 「海軍中将角田秀松」読売新聞1905年12月15日『新聞集成明治編年史. 第十二卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『官報』第5141号「叙任及辞令」1900年8月21日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。
参考文献
[編集]- 会津会会報第12号、1918年。
- 「第8号 戦時大本管海軍々人軍属官職姓名表」 アジア歴史資料センター Ref.C08040569800
- 伊藤正徳 (軍事評論家)『大海軍を想う』文藝春秋新社、1956年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 松野良寅『海は白髪なれど』博文館新社、1992年。
- 『立身致富信用公録 第13編』国鏡社、1903年。