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誤謬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
論証 > 誤謬

論理的な誤謬(ごびゅう)あるいは虚偽(きょぎ)(: Fallacy[注 1])とは、推論過程における論理的な誤りや間違い[2]。または、誤った推理(推論)そのものを指す[3]。論理的誤謬においては、誤った論理展開、根拠のない主張、妥当性を欠く推測、裏付けのない議論や結論などが、意図的または非意図的に利用される[4]。その内、前者の行為を指して「詭弁」という[5]

概説

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誤謬に関する体系的な研究は、アリストテレスの『詭弁論駁論』より始まった[6]。そこで彼は誤謬を、「言語上の虚偽」(言語表現に基づくもの)と、「言語外の虚偽」(言語表現に関わらないもの)に大別し、その分別のもと具体的に13種類の誤謬を列挙している[7]。アリストテレスは、三段論法の理論において、見かけ上は三段論法であっても実は正しくない議論はすべて機械的に発見することができるとした[8]

誤謬の分類法

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各誤謬の分類方法は論者によって異なり、学術的な合意は得られていない[6]

分類の考え方の一つとして、論理的な推論規則瑕疵があるものか、それ以外かで分ける方法がある。その代表的なものが、「形式的誤謬(虚偽)」と「非形式的誤謬(虚偽)」である[6][9][10]近藤洋逸好並英司は、「演繹論理についていえば」虚偽は推理規則に反する「形式的虚偽」とその他の「非形式的虚偽」に分けられ、「非形式的虚偽」がさらに「言語上の虚偽」と「言語外の虚偽」とに分けられると整理している[11]太田莞爾は分類の基準を「論理的虚偽にもとづく非妥当推理」か「非論理的理由から結果として論理的虚偽を生じさせているもの」かに定め、前者に該当する「形式的虚偽」、後者に該当する「言語的虚偽」及び「資料的虚偽」の三種に分類している[12]足立幸男は「論証のあり方という観点」から、論理学的規則に違反する「論理的虚偽」と論理学的規則をどれ一つ犯していない「無論理的虚偽」に分類した[13]

他方に、誤謬同士の類似性において分類する考え方がある[6]T・エドワード・デイマーは「優れた議論(good argument)」という観点から、誤謬を「構造的欠陥」「関連性のない前提」「許容できない前提」「不十分な前提」「予測される批判に対する効果的な反論の欠如」の五種に分類している[14]塩谷英一郎クリティカルシンキングにより回避すべき誤ちという視点から、誤謬を「論理的な誤り」「帰納法関係の誤謬」「因果関係理解の誤り」「用語選択の誤り」「論点ずらし」の五種に分類している[15]。「前提の誤謬」など議論の構成要素で誤謬を分類する立場もある[16][17]

その他の独自の分類法としては、フランシス・ベーコンの「イドラ」が有名である。ベーコンは著書『ノヴム・オルガヌム』において、(誤謬自体ではなく)各誤謬を導く論者の認識論上の問題として「イドラ」を提唱し、それを四種に分類している[18]

形式的誤謬

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論理学において、「形式的誤謬」 (formal fallacy) あるいは「論理的誤謬」 (logical fallacy) とは、推論パターンが常にまたはほとんどの場合に間違っているものをいう。これは論証の構造そのものに瑕疵があるために、論証全体として妥当性がなくなることを意味する。一方、非形式的誤謬は形式的には妥当だが、前提が偽であるために全体として偽となるものをいう。[要出典]

誤謬という用語は、問題が形式にあるか否かに拘らず、問題のある論証全般を意味することが多い。[要出典]

演繹的主張に形式的誤謬があっても、その前提や結論が間違っているとは言えない。どちらも真であったとしても、結論と前提の論理的関係に問題があるため、論証全体としては誤謬とされる。演繹的でない主張であっても形式的誤謬が内在することはありうる。例えば、帰納的主張に確率因果の原理を間違って適用することも形式的誤謬に数えられる。[要出典]

形式的誤謬の例

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前件否定の虚偽

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  • A「自分がされて嫌なことは、人にもするな」(黄金律
  • B「なら自分がされて嫌でなければ、人にしても良いんだな」

Aの発言に対するBの返答は「XならばYである。Xでない、故にYでない」という形式であり、これは前件否定の虚偽と呼ばれる。ある命題から論証なく「」(前件・後件をそれぞれ否定形にした命題)を導き、それを用いる論証である。上記の形式の推論はXとYとが論理的に同値の場合のみ成立する為、恒真命題ではない。

この誤謬は、仮言三段論法の誤用としても見られることがある。例えば

  • 「もしAがBならば、AはCである。」
  • 「しかしAはBでない。」
  • 「故にAはCでない。」

この推論は、「AがBならば」という仮定をX、「AはCである」という結論をYと置いたとき、「XならYである。Xでない、故にYでない」という前件否定の虚偽に該当する。仮言三段論法においては、大前提の前件を否定したとしても、それによって後件を否定することにはならないという論理規則が成り立ち[19]、上述の推論はこれを犯している。

後件肯定の虚偽

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  • A「対象について無知ならば人は恐怖を感じる。つまり、対象に恐怖を感じるならばそれに対して無知だということだ」

Aの発言は「XならばYである。故にYであればXである」という形式の推論であり、後件肯定の虚偽と呼ばれる。これは、「ある命題が真であるとき、その逆(前件と後件を入れ替えた命題)もまた真である」と誤って推論する論理的誤謬である。

この形式の推論が正しく成立するのは、XならばYであることが、YならばXであることと論理的に同値(双条件)である場合に限られる。したがって、仮に「対象について無知ならば人は恐怖を感じる」という命題が真であったとしても、それを論拠として「対象に恐怖を感じたならそれに無知だということ」という結論を導き出すことは論理的に正しくない(逆は必ずしも真ならず)。

媒概念不周延の虚偽

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  • A「頭の良い人間は皆、読書家だ。そして私もまた、よく本を読む。だから私は頭が良い

Aの発言は「すべてのXはYである。ZもYである。故にZはXである」という形式の三段論法で、これは論理学で媒概念不周延の虚偽と呼ばれる。命題において、概念が適応される全ての対象について論及されている場合、その概念は「周延をもつ」とされる。逆に、含まれる全ての対象について論及していないなら、その概念は不周延である。上記の例でいえば、「頭の良い人間」と「私」をつなぐ概念「読書家」(媒概念あるいは中項)は、「読書家の中には頭の良くない人もいるかもしれない」事実によって前提命題において不周延であり、よってこの推論は誤りである。

形式的には、大前提を「頭の良い人間の集合は、読書家という集合の部分集合である(X ⊆ Y)」、小前提を「私は読書家の集合の要素である(Z ∈ Y)」と表した場合、結論の「私は頭の良い人間の集合の要素である(Z ∈ X)」が必ずしも導き出せないことから、恒真命題ではないと説明できる。

媒概念曖昧の虚偽 (四個概念の虚偽)

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  • A「は水に溶ける。あなた方は地の塩である。ゆえにあなた方は水に溶ける[20][注 2]

Aの発言は「MはPである。SはMである。故にSはPである」と一見第一格の三段論法に見えるが、文脈によって異なる意味を持つ単語を媒概念に使用しており、「大前提M-Pの文脈におけるM」と「小前提S-Mの文脈におけるM」が異なるため、命題は成立しない。

「車(自動車)は運転免許が必要な乗り物だ。自転車は車(車両)である。ゆえに自転車は運転免許が必要な乗り物だ」という時、大前提における「車」と小前提における「車」は異なる二つの概念であり、他の概念を媒介することは出来ない。これは形式上「定言三段論法には三個の概念が必要であり、かつ三個に限られる」という論理規則を破っているため、四個概念の虚偽とも呼ばれる[21]

選言肯定の虚偽 

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  • A「ゴッホ天才または狂人である。そしてゴッホは天才である。故に彼は狂人ではない

Aの発言「X または Y である。X である。故に Y ではない」は、一見、選言三段論法の形式のように見えるが、選言肯定の虚偽に該当する誤推論である。選言三段論法には「選言肢の一方を肯定しても、それによって必ずしも他方を否定することにはならない」という論理規則が成り立つ[22]。これに反するものが選言肯定の虚偽であり、上記の推論は、「天才」(選言肢の一方)であることを論拠として「狂人」(選言肢の他方)ではないとの結論を導いていることから誤りである。「天才」と「狂人」という概念は必ずしも相反するものではない。

合接の誤謬

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「Aさんは知的で、社会運動にも熱心な女性だ」という情報を前提としたとき、「Aさんは銀行員である」という情報よりも、「Aさんは銀行員で、フェミニストである」という情報をより確からしいと判断してしまう様な誤り。ある前提を踏まえて A という推論と A & B という推論を提示したとき、成立条件の少ないA の方が可能性が高いにも関わらず、A & B の方が可能性が高いと誤判断してしまうような論理的な誤りを指す。

形式的には、2つの事象AとBについて、 and (事象A,Bが同時に起こる確率は、事象A,Bそれぞれが起こる確率よりも常に小さいか等しい)のように書くことができるような問題への誤判断。「K氏が関西弁をしゃべるとき、彼が大阪出身である確率と、大阪出身で阪神ファンである確率はどちらが高いか」[23]

非形式的誤謬

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非形式論理学において、「非形式的誤謬」 (informal fallacy) とは、論証における推論に何らかの間違いのある論証パターンを指す。形式的誤謬のように数理論理学的に論理式で表せる誤謬ではなく、自然言語による妥当に見える推論に非形式的誤謬は存在する。演繹における非形式的誤謬は妥当な形式でも言外の前提によって発生する。つまり、演繹における非形式的誤謬は一見して妥当に見え、その主張自体は健全に見えるが、隠された前提に間違いがある。[要出典]

帰納的非形式的誤謬は全く違ったアプローチが必要であり、論証に含まれる推計統計学的な部分が問題となる。例えば、「早まった一般化」の誤謬は以下のように表される。[要出典]

s は P であり、かつ s は Q である。
従って、全ての P は Q である。

これにさらに前提を追加すると次のようになる。

任意の X と 任意の Φ について、X が P でありかつ X が Φ なら、全ての P は Φ である。

このようにするとこの主張は演繹的となり、これが誤謬なら、追加された前提は偽である。このような手法は帰納と演繹の違いを無くす傾向がある。推論の原則(演繹的か帰納的か)と論証の前提を区別することは重要である。[要出典]

非形式的誤謬の例

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無知に訴える論証

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  • A「B氏は地底人がいないと断言している。しかし、そんな証拠はないので地底人はいることになる」

Aの発言は、「XがYである(またはYでない)という証拠がない。故にXはYでない(またはYである)」という形式の推論で、これは無知に訴える論証という誤謬である。「証拠がない」ことを論拠として結論を導出する誤謬で、相手が証拠を提示できない、ないしはそうすることを拒絶するからといって、主張の真実性(あるいは虚偽性)を主張する手法もこれに含まれる[24]

いかなる主張の立証責任も、それを主張した論者の側にある(立証責任の原則)[25]。しかし、無知に訴える論証では、この責任を放棄し、逆に相手に責任を転嫁する特徴がある[24]。そして、立証責任の原則に従わない推論においては、証拠がないことを根拠に物事を証明することはできない。これは「A氏は地底人がいると断言しているようだが、そんな証拠はない。地底人はいない」という一見すると常識的な論証についても同様である。この種の論証がもし有効であれば、部屋のなかにいるだけでありとあらゆるものごとが証明可能になってしまう(「宇宙には果てがあるというが、そんな証拠はない。よって宇宙には果てが無い」等々)。

ただし、刑事裁判においては、無知に訴える論証の誤謬とは異なる原則が適用される。刑事裁判では、検察官にのみ立証責任があり、被告人はその責任を負わない。もし検察側が法廷に対し被告人が罪を犯したと確信するに足る証拠を挙げることができなければ、被告人は無罪であるとする推論が成立する(無罪推定の原則)。これは事実認定において事実の存否が明確にならないときには、常に「疑わしきは罰せず」という被告人に有利な裁定が適応されるためである。

隙間の神
  • A「この現象は科学では説明できない。だから神の仕業としか考えられない

無知に訴える論証の類型。科学的に説明できない現象を、それが説明できないという事実によって神の存在の証拠とする論証である。創造科学やオカルト的な主張で用いられる。神が存在する(あるいは存在しない)ことの証明責任は、科学の側でなく主張した論者の側にある。

論点先取(先決問題要求の虚偽)

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  • A「Bさんは正直者なんだから、ウソを言うわけないじゃないか。」

Aの発言には、一見すると結論の裏付けとなるものが存在する。しかし、その裏付けとなる前提(「正直者」)は、実際には結論(ウソを言うわけない)とほぼ同義であり、結論の単なる言い換えに過ぎない[26]。このように、見掛け上は論証の形になっていても、証明すべき命題が暗黙または明示的に前提の1つとして使われているような推論のことを、論理学では論点先取と呼ぶ。この誤謬が問題となるのは、論証の基盤となる一般原理が、なんらの証明もなしに自明のものとして前提されている点にある。我々はそのような前提に対して、まずは論証を求める権利があるため、論点先取は先決問題要求の虚偽と呼ばれることもある[27]。定義上、論証(argument)とは、1つ以上の他の主張によって裏付けられた主張である[26]。論点先取には、結論を裏付ける前提が欠けているという構造上の欠陥がある。

なお「論点先取」は、不当な前提を採用した論理的誤謬一般を包括する語としても用いられる(論点先取(窃取)の虚偽[27][28]

J・S・ミルは『論理学体系』(1843年)において三段論法を批判するにあたり、従来の三段論法には以下のような欠陥があると指摘した[29]

  • (1) すべての人間には寿命がある。
  • (2) Cは人間だ。
  • (3) よってCには寿命がある。

この大前提 (1) は、実際には「これまで寿命のない人間が発見されていない」という経験的事実に基づいた一般化である。もし寿命のない人間が見つかれば、(1) は成立しない。このため対象となる人物「C」に寿命がなかったならば、(1) は成立しないことになる。つまり、この論証はすでに「Cに寿命がある」という結論を前提として「Cに寿命がある」ことを導き出しているのである。このように大前提 (1) に論点先取の問題があるとして、学術的推論において慎重を期すべき点を指摘したものである。

ただし、「存在を自明のこととして前提する」という論点先取にも積極的意義が生じる場合があると主張する論者もいる。ハインリッヒ・リッケルトは「認識の対象とは何か」という問いが成立する根底には、認識の対象の存在というものを論点先取として前提しなければならないとしている[27]

循環論法
  • A「聖書に書かれているのは全能の神の言葉である。全能の神の預言が外れることはない。よって、聖書に書かれていることは実現する。」
  • B「なぜ書かれていることが神による預言だと言い切れるのか」
  • A「聖書に神の言葉だと書いてあるからだ」

「結論として論証されるべきことが前提として論証の根拠とされる」形式の推論を、論理学では循環論法と呼ぶ。論点先取の虚偽の一形態[30]。このように前提と結論が論理的に同一または相互依存関係にある場合、その推論は形式的には妥当(valid)であるように見えることがある(例:「XはXである」は恒真命題)。しかし、前提の真実性が独立して保証されないため、その推論は健全(sound)ではない。従って、実際の議論においては有効な推論とは認められない。

公正世界誤謬
全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。「我欲に天罰が下った」「ハンセン病に罹患するのは宿を負ったものが輪廻転生したからだ」「カーストが低いのは前世でカルマが悪かったからだ」など、加害者や天災に原因を求めるよりも被害者や犠牲者の「罪」を非難する。
早まった一般化
十分な論拠がない状態で演繹的な一般化を行うこと。「1, 2, 3, 4, 5, 6はいずれも120の約数だ。よってすべての整数は120の約数である」。
誤った二分法
選択肢をいくつか提示し、それ以外に選択肢がないという前提で議論を進めること。例えば、多重債務者の「このまま借金取りに悩まされる人生を送るか、自殺するか、二つに一つだ」という思考。すなわち、自己破産という選択肢を除外している。
間違った類推
重大な相違を無視して事象の類似性に基づいて論証(類推)すること。「酒とコーヒーは似たような嗜好品だ。飲酒は法律で規制されている。よってコーヒーを飲むのは法律で規制されているはずだ」。
例外の撲滅 (en)
例外を無視した一般化を元に論旨を展開すること。「ナイフで人に傷をつけるのは犯罪だ。外科医はナイフで人に傷をつける。従って、外科医は犯罪者だ」。
偏りのある標本
母集団から見て偏った例(標本)だけから結論を導くこと。「(日本在住の人が)周囲には黄色人種しかいない。よって世界には黄色人種しかいない」。
相関と因果関係の混同(擬似相関
相関があるものを短絡的に因果関係があるものとして扱う。「撲滅された病気の数とテレビの普及には相関がある。よってテレビが普及すれば病気が撲滅される」
  • 両者は時間の経過により独立に進んだだけだが、数値上は両者に相関ができてしまうので、因果関係があるかのような勘違いをしてしまった。
前後即因果の誤謬 (:post hoc ergo propter hoc)
A が起きてから B が起きたという事実を捉えて、A が B の原因であると早合点すること。呪術と病気の治癒は因果関係ではなく前後関係である。
滑り坂論法 (en)
風が吹けば桶屋が儲かる」的な論法で、何らかの事物の危険性を主張すること。ドミノ理論。必ずしも誤謬とは限らない。「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺は誤謬といってもよいが、「第一次世界大戦ロシア軍が劣勢になるとコーカサスバイソン絶滅する」という一連の事象はそれぞれ実際に起こった事態であり、(ロシア皇室は絶滅の危機にあったコーカサスバイソンを保護していたために)因果関係があった可能性がある。しかし、ロシア皇室がコーカサスバイソンを保護した時点で保護を必要とするほどに絶滅傾向にあったためこれも確実とは言い切ることはできない(複雑で迂遠な因果で結ばれた遠くはなれた二点の事象自体はバタフライ効果と言ってその存在が指摘される)。
因果関係の逆転
因果関係を逆転させて主張する。例えば「車椅子は危険である。なぜなら、車椅子に乗っている人は事故に遭ったことがあるから」。「バスケットボールの選手は身長が高い。よってバスケットボールをすると背が伸びる」(バスケットボールをしたから背が伸びたとは限らない。もともと背の高い人を選手として採用している可能性もある)。
テキサスの狙撃兵の誤謬
本来相関のないものを相関があるとして扱う。クラスター錯覚ともいう。
その名前は、上官が狙撃兵に腕前を問うたところ、遠くにある壁の標的の真中に命中しているのを指し示したため腕前に感心したが、実は壁の銃痕にあとから標的を描いただけだった、というテキサスジョークに由来する。
曖昧語法 (amphibology)
文法的に曖昧な文形で主張をすること。「十代の若者に自動車を運転させるべきではない。それを許すのは非常に危険だ」という文章では、若者が危険な目にあうと言っているのか、若者が他者を危険にさらすと言っているのか曖昧である。
多義語の誤謬 (equivocation)
複数の意味をもつ語を使って三段論法を組み立てること。例えば、「車(自動車)の運転には免許が必要だ。自転車は車(車両)である。したがって自転車の運転には免許が必要だ」。(媒概念曖昧の虚偽も参照)
連続性の虚偽
術語の曖昧性により常識的な認識とのズレが生じる誤謬。「砂山のパラドックス」、「テセウスの船」とも。「砂山から砂粒を一つ取り出しても、砂山のままである。さらにもう一粒取り出しても砂山である。したがって砂山からいくら砂粒を取り出しても砂山は砂山である」。
多重質問の誤謬
質問の前提に証明されていない事柄が含まれており、「はい」と答えても「いいえ」と答えてもその前提を認めたことになるという質問形式。「君はまだ天動説を信じてるのかね?」という質問は、「はい」でも「いいえ」でも「過去に天動説を信じていた」という暗黙の前提を認めたことになる。

誤った二分法 (false dilemma)

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  • A「君は僕の事を『嫌いではない』と言ったじゃないか。それなら、好きって事だろう」

Aの発言には、「君は必ず僕の事が『好き』か『嫌い』かのどちらかだ」という大前提が隠されている。したがって論理構造としては「Xは必ずYかZのいずれかである。然るに、XはYではない。故にXはZである」という形式の三段論法となるが、仮に「Xは必ずYかZのいずれかである」という前提が偽であるなら(言い換えると「XがYでもZでもないケースが存在する場合」)、このような推論は誤謬となり、「誤った二分法」と呼ぶ。Aの発言の場合、実際には「好きでも嫌いでもない」や「無関心」などの「好き」「嫌い」以外の状況も考えられるため、この大前提は偽である。

  • B「このまま借金取りに悩まされる人生を送るか、自殺するか、二つに一つだ

Bが借金の返済が不可能な状態に陥っていても、自己破産が可能である場合、その選択肢を除外しているので、誤った二分法となる。

なお、「XはYかZのいずれかである。然るに、XはYではない。故にXはZである」という推論において、非ZがY、Zが非Yと論理的に同値である場合、それは矛盾原理および排中原理に従った恒真命題となる(例「あらゆる自然数は素数か素数ではないかのいずれかである。2は「素数ではない」ではない。故に2は素数である」)。「誤ったジレンマ」またはただ単に「二分法」とも呼ばれる。英語では false dilemma の他に false dichotomyexcluded middlebifurcation などとも言う。

経験則の否定

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  • 「人は皆死ぬ」とは言えない。そう主張する人は、単に「過去死んだ人は、皆死んだ」と同義反復しているだけで、今生きている人について何も証明していない。
  • 「海水は塩辛い」とは限らない。そう主張する人は、単に「過去海水を舐めたとき塩辛かった」と言っているだけで、現在および将来の海水の味について何も証明していない。

この詭弁は、論理的誤りを含まず、ある意味「正しい」批判とも言える。同様の手法で、どのような経験則も否定することができる。

これが詭弁となる理由は、むしろ経験則の側にある。現実世界の経験則(物理学、化学、生物学などの法則)は、完全な証明が不可能であり、それでも繰り返しの実験、検証と、その有用性により法則として通用しているものである。完全な証明がないことを理由に経験則を否定すると、その有用性も否定することになる。

早まった一般化 (hasty generalization)

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  • A「私が今まで付き合った4人の男は、皆私に暴力を振るった。男というものは暴力を好む生き物なのだ

Aの発言は、少ない例から普遍的な結論を導こうとしており、早まった一般化となる[注 3]。仮に「男というものは暴力が好きなのかもしれない 」と断定を避けていれば、その発言は帰納となる(帰納は演繹ではないので、厳密には論理的に正しくない)。Aの発言を反証するためには、暴力が好きでない男の存在(ある男は暴力的でない)を示せばよい。Aの発言は、「1から6までの整数は、全て60の約数である。つまり、全ての正の整数は60の約数である。」と論理構造は等しい。

この種の話法例は容易であり「ある貧困者が努力により成功した」「ある障害者が努力により成功した」などの論調により統計的な検証を待たずして真の命題として認証される誤謬の原因となる可能性がある。ある貧困者や障害者が「努力」を要因として成功したとしても、それは問題の解決にとって論証的に有効な提示となりえるかどうかは分からない。都合の良い事例や事実あるいは要因のみを羅列し、都合の悪い論点への言及を避け、誤った結論に誘導する手法は「つまみぐい (チェリー・ピッキング)」と呼ばれる。また、極稀な例を挙げ、それをあたかも一般的であるように主張することもこの一種となる。

合成の誤謬 (fallacy of composition)

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  • Aさんの腕時計はロレックスで、財布とサングラスはグッチだった。きっと彼はお金持ちに違いない

これは「ある部分がXだから、全体もX」という議論で、合成の誤謬と呼ばれる。この例では金持ちでなくても他の部分で節約しつつ、いくつかの高級ブランド品を購入して着用している可能性もあるため必ずしも真ではない。

  • 食品 F は、発がん性成分を含む。ゆえに、がんを防ぐには、F の摂取を控えなくてはならない。

この例では、発がん性成分が含まれていても、その発がん性を超えて十分量の発がん抑制性成分が含まれる可能性を否定しておらず、これだけでは真とは言えない。(ちなみに、局所的な性質をあえてセンシティブに聞かせることで、聞き手の代表性ヒューリスティックによってこの種の詭弁の説得力が増してしまうことがあるため、注意が必要である。)

早まった一般化との違いは、最初に着目するものが「全体に対しての部分」であるという点。この種の論証は必ずしも真ともならないが必ずしも偽ともならない。もしこの種の論法がつねに有効であるとすれば、「Bさんは白ワインが大好きだ。他にもエビフライ、アロエのヨーグルト、カスタードクリームが好きだと聞いた。なら、白ワインとカスタードクリームを混ぜたアロエのヨーグルトをエビフライにかけた物も喜んで食べるに違いない」といった推論がつねに正しいことになる[注 4]

経済学では、ミクロ経済で通用する法則がマクロ経済でも通用するとは限らない、という論旨で使われる。自然科学や社会科学では、複雑系では還元主義的手法が通用するとは限らない、という論旨で使われる。

分割の誤謬 (fallacy of division)

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  • A「○○国のGDPは高い。だから○○国民は経済的に豊かだ。」

これは「全体がXだから、ある部分もX」という議論で、分割の誤謬と呼ばれる。合成の誤謬とは逆のパターンの詭弁。Aの発言は「Bさんはカレーライスが大好物だ。だからニンジンやジャガイモや米やカレー粉をそのまま与えても喜んで食べるだろう」と論理構造が等しい。

人的論法

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誰が言っているかを問題とするもの。「対人論証」「連座の誤謬」「状況対人論証」「権威論証」「多数論証」などを言う。

対人論証 (ad hominem abusive)

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  • A「私は生活必需品の消費税を廃止するべきだと思う」
  • B「A氏はそんな事を主張しているが、彼は過去に傷害事件を起こしている。そんな者の意見を取り入れる事はできない」

Bの発言は、Aの主張そのものではなくA自身に対して個人攻撃することで反論しているため、対人論証となる。「Aが傷害事件を起こした」という事は、A自身の信用を失墜させる効果はあるが、Aの主張の論理的な正否とは無関係であるため、論理的には正しい反論ではない。このように、論敵を貶めて信用を失わせようとする目的で行われるのが対人論証で、人身攻撃の一種。同時に、相手の主張の正否から「相手を信用できるか」への論点のすり替えでもある。

連座の誤謬 (guilt by association)

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  • A「科学者Bの学説に対し、C教が公式に賛同を表明した。しかしC教は胡乱なペテン集団だ。B氏の学説もきっと信用には値しない

これも対人論証の一種で、「その主張を支持する者の中にはろくでもない連中がいる。故にその主張は間違った内容である」というタイプの推論である。どのような個人または集団に支持されているか、という事柄は数学的・論理学的な正しさとは無関係なので、これは演繹にならない。

状況対人論証 (circumstantial ad hominem)

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  • A「そろそろ新しいデジタルカメラが欲しいって話をC君としたら、D社の新製品を勧められたよ」
  • B「C君のお父さんはD社に勤めているんだから、C君がそう答えるのは当然さ。買わない方がいい」

Aに対するBの発言は、特定の人間が置かれている『状況』を論拠としている。「D社に勤める家族を持つ者」は「D社に都合の良い嘘を述べる者」と論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、「C君のお父さんはD社に勤めている。故にD社のデジタルカメラは買わない方がいい商品である」は演繹にならない。このように、「その人がそんな事を言うのは、そういう状況に置かれているからに過ぎない(故に信用に値しない)」というタイプの対人論証を指して、「状況対人論証」と呼ぶ。

権威論証 (ad verecundiam)

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  • A「人間はBを敬うべきだ。哲学者のCもそう言っているだろう

Aの発言は「専門家(または著名人)も私と同意見だ。故に私の意見は正しい」というタイプの推論。権威に訴える論証とも。『専門家』や『著名人』は『常に真理を述べる者』と論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、権威ある者の引用は厳密な証明にならない。反論として対立する権威が引用され、同じ権威論証で対抗されることもしばしばである。

多数論証 (ad populum)

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  • A「B君も早くCを買うべきだ。もう皆そうしている

Aの発言は「Xは多数派である。多数派は正しい。故にXは正しい」というタイプの推論。『多数派』は『正しい側』と論理的に同値ではなく包含関係にもないので、この論理は演繹にならない。むしろこの論理は、多数派に属しないと不利になるという脅迫論証の一種といえる。また、Aが「多数派は正しい。故に多数派ではなければ(少数派であれば)正しくない」という意味で発言しているならそれは前件否定の虚偽でもある。また、Aの多数論証は、規範文(そうするべき)の根拠が記述文(そうしている)になっているため、自然主義の誤謬(前述)にもなっている[注 5]。 なお、厳密には「全員」ではないにもかかわらず「皆」「誰も」という言葉が使われているような場合、これを誇張法 (hyperbole) という。誇張法は詭弁ではなくレトリック。無論、計数可能な「皆」「誰も」が肯定しているからといってその命題が正しいかどうかは分からない[注 6]

論争の手法に関するもの

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ストローマン (Straw man)

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  • A 「私は子どもが道路で遊ぶのは危険だと思う。」
  • B 「そうは思わない、子どもが外で遊ぶのは良いことだ。A氏は子どもを一日中家に閉じ込めておけというが、果たしてそれは正しい子育てなのだろうか。」

わら人形、わら人形論法、架空の論法ともいう。Aが主張していないことを自分の都合の良いように表現しなおし、さも主張しているかのように取り上げ論破することでAを論破したかのように見せかける。燻製ニシンの虚偽 (red herring)。論理性が未熟なため相手の主張を誤解している場合は誤謬であるが、意図的に歪曲している場合は詭弁となる。議論が過熱し論点が見えにくくなると起きやすい。社会生活上よく見られる。

論点のすりかえ (Ignoratio elenchi)

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  • A「スピード違反の罰金を払えというが、世間を見てみろ。犯罪であふれ返っている。君たち警察官は私のような善良な納税者を悩ませるのではなく、犯罪者を追いかけているべきだろう。」
  • B「トマス・ジェファーソンは、奴隷制度は間違いであり廃止すべきだと主張した。しかしジェファーソン自身が奴隷を所有したことから明らかなように、奴隷制そのものは間違いではなかった。」

論じている内容とはちがう話題(主題)を提示することで論点をそらすもの。論理性が未熟なために陥る場合は誤謬であるが、意識的におこなう場合は詭弁となる。燻製ニシンの虚偽 (red herring) とも。Bの例ではジェファーソン個人の言動の不一致をもって「奴隷制度そのもの」を話題にしており「Whataboutism」「お前だって論法」(tu quoque) ないしは人身攻撃を利用した論点のすりかえである。 ただし論点そのものが複数存在している場合、論点のすりかえは必ずしも成り立たず、その場合詭弁としては合成・分割の誤謬に分類される。

論点回避 (Begging the question)

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  • 「喫煙者はいつでも禁煙できます。彼に必要なのは禁煙する能力なのです。」

推論の前提となる命題の真偽を問わず結論を真とする。あるいは前提に仮定を置いて得られた結論を真とする。上の例では「禁煙する能力」について問うことなく「いつでも禁煙できる(結論)」を主張している。倒置法となっているが、論理構造は「もし禁煙する能力があれば、喫煙者はいつでも禁煙できる」である[注 7]

多重尋問 (complex question)

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  • A「(万引きをした事が明らかではない人に対し)もう万引きはやめたの?」

複問の虚偽とも。『実際に万引きをした事がある人』ではない人にこう質問すると、多重尋問となる。「はい」と答えれば、過去に万引きをしたと認める事になり、「いいえ」と答えれば、現在も継続して万引きをしていると認めた事になってしまうので、万引きをした事が一切無い人にとっては、どちらで答えても不都合な結果になる恐れがある。これは、この多重尋問がこれまでに 彼が万引きをしていた事を暗黙の前提としているためである。 質問者は修辞的にこのような質問を行い、特に返答を期待していないことが多い。複層・混乱した尋問として因果関係や相関関係の証明がない命題を列記してそれに質問をおこなう形式がある。

  • B「政治は変わらなければならない。C党首に全権力を集中させなければならない。このままでいいんですか?」
  • D「さあ、よくこの商品を見てくださいよ。もう誰もあなたが美しくなる事をとめることは出来ない。誰ができるというんですか?」 (buttering-up)

Bは第一命題と第二命題に論理上の関連がない場合、第一命題について「このままでは良くない」と結論することは第二命題には何ら影響はない(第二命題に対しても同様)。Dは「(あなたが)この商品を見ること(をとめることは誰も出来ない)(第一命題)」と「あなたが(この商品で)美しくなることをとめることは誰にもできない(第二命題:おべっか(buttering-up))」が錯綜した構造になっており、これに多重尋問を行うことで第一命題・第二命題とも否定することができない構造となっている(商品に注目させる効果)。

脅迫論証 (ad baculum)

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  • A「黙って私に従えないなら、ここから出て行け」(※「裁判所法第七十一条(法廷の秩序維持)の規定に従い、法廷の秩序を乱す者は、ここから出て行け」 )
  • B「国境線はここだと主張しているが、そんなことは許さ(れ)ない。国境線はあちらだ。」

Aの発言は、「あなたがXしないなら、私はYをする。故にあなたはXすべきである」という形式の推論で、脅迫論証という。前件の仮言的命題と後件の命題は、論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、この推論は演繹にならない。Aの脅迫論証は「お前がすべき事は黙って私に従うか、ここから出て行くかのいずれかである。しかし、お前は黙って私に従わない。故にお前はここから出て行くべきである」という論旨なので、脅迫論証であると同時に「誤った二分法」(前述)にもなっている。

Bは「(なぜなら)○○条約によれば〜」などと論証すべきところを脅迫や威嚇の文言で置き換えており有効な演繹推論となっていない。「ゆるさない」と自発の助動詞を挿入する事で、主語・主体を曖昧にすることで、あるかどうか分からない根拠を暗示・示唆する(未知論証)なり、権威論証(上述)、あるいは多数論証(みなが許さないといっている)なりに持ち込む方法がある。たとえば「規則ですから」という漠然とした言いまわしは、その規則を制定した意志主体を曖昧にするもので、この方法の一種といえる。制定法は議会によるものであれ主君(主権)の命令によるものであれある種の脅迫論証をつねに含んでおり、正当性の契機(法源)が重要となる。

連続性の虚偽 (Continuum fallacy)

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  • A「砂山から砂粒を一つ取り出しても、砂山のままである。さらにもう一粒取り出しても砂山である。したがって砂山からいくら砂粒を取り出しても砂山は砂山である。」
  • B「建築契約には高額の追加費用の発生の際には事前に承認を求めよとあるが、10万円は高額ではない。」

術語の曖昧性から生じる砂山のパラドックスを利用した弁証法。ハゲのパラドックス(fallacy of the bald)、あごひげのパラドックス(fallacy of the beard)とも。Aは「砂山」の定義が、Bは「高額」の定義が、その量に関して曖昧であるため詭弁が成立する。閑散とした食堂を「繁盛店」と広告する(何人の客が入っていれば繁盛と呼べるのか不明確)などこの種の弁論は容易であり、社会生活上しばしば見られる。

ヒュームの法則(Hume's law)

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  1. たばこを吸うことは健康に悪い。
  2. したがって、たばこを吸ってはならない[31]

この推論では、事実命題英語版(「XはYである」という形式の英語版)から規範命題英語版(「XはYすべきである」という形式の文)を導いている。この推論は誤りである。この推論を受け入れると、あらゆる制度の改革が許容されなくなり、不合理英語版であるからである。例えば、「人類は多くの戦争と殺戮を繰り返してきた。だからこれからもそうするべきである」という推論を受け入れなければならなくなる。

このことをヒュームの法則[32]またはIs-Ought問題(英語: is-ought problem[33]と呼ぶ。デイヴィッド・ヒュームは『人間本性論』で、倫理に関係のない(non-moral)前提から倫理的な結論を導くことはできないと主張した[34]

自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)

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  1. ビールを飲むことは快い(pleasant)。
  2. したがって、ビールを飲むことは善い(good)[35]

自然主義的誤謬は、ある対象の持つ属性(「自然である」「快い」「によって命じられた」など)から、その対象が「善い」という評価を導出する誤謬である[31][35]

ジョージ・エドワード・ムーアは、倫理に関係のない(non-moral)述語で倫理的な述語(特に「善い」)を定義することはできないと主張した[36]

道徳主義の誤謬(moralistic fallacy)

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  • A「人間は皆生まれながらに平等であるべきだ。だから能力が遺伝するという研究結果は間違っている。」

規範文の前提から記述文の結論を導く場合に生じる誤謬。道徳律は定言的命法により記述されるため、その定言命題が真の場合は得られる結論に倫理的強制力をもつ構造がある。Aの主張が「遺伝に関する研究を行うべきではない」である場合、これは倫理上の課題として妥当な推論である可能性がある。しかし「研究結果」そのものを否定している場合、その結果が事実であったとすれば、規範により観察事実を曲げてしまっている。この主張は「人を殺してはいけない。だから殺人事件はおこらない(人は殺されない)」と論理構造が等しい。倫理的な指針を主張することで「危険な知識」の収集を規制しようと意図する場合に見られる。アメリカの微生物学バーナード・デイビスが自然主義の誤謬をもじり命名した。ought-is problem

同情論証 (ad misericordiam)

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  • A「そんなふうに言うもんじゃない。B君がかわいそうだよ

Aの発言は、「XをYするのはかわいそう。故にXはYすべきではない」という形式の推論で、これは同情論証という。同時に、かわいそうであるか、そうでないかという論点へのすりかえでもある。

伝統に訴える論証 (Appeal to tradition)

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  • A「ぜいたくはだめだよ。昔から節約は美徳とされていたからね」

Aの発言は、「過去から使われている意見は正しい」という形式の推論。不測の事態の発生を防ぐという先例主義という考え方もあるが、「過去にその意見は正しいから採用されたのか」「関係する状況は現在と過去で変わっていないか」の二点が立証されないと根拠にはならない。

新しさに訴える論証 (Appeal to novelty)

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  • A「そのやり方はもう古いよ。最新の方法を使うべきだ

伝統に訴える論証とは逆に、過去と現在では状況が変わっているとすることを前提にした推論。科学の発展や流行の推移、社会事情の変化などで説得力を持たせようとしているが、新しいだけでは根拠にはならない。

関連項目

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脚注

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注釈

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  1. ^ 荒木 (1922) は、「Fallacyの訳語は色々ある、似而非推論、誤謬、謬論、過誤論、論過、謬見、不正論、謬見、相似、虚偽等であってまちまちである、適当な訳語に苦んでいるように思われる、著者は「曲論」と訳した。」と述べる[1]。この他に、心理学用語等では「錯誤」とも訳されるが、この二字はerrorの訳語にも当てられるので紛らわしく、その点は「誤謬」や単に「誤り」とする訳し方も同じ問題がある。最も早く且つ最も普及した訳語は「虚偽」であり、井上哲次郎編『哲学字彙』(1881年)34ページに掲げられ、以来、文部省『学術用語集 論理学編』(大日本図書、1965年)で「虚偽」に統一され、『哲学事典』(平凡社、1971年)に「虚偽」で、『岩波 哲学・思想事典』(岩波書店、1998年)には「虚偽論」で立項されている。
  2. ^ 「地の塩」は福音書の一節。
  3. ^ つまり、暴力が好きな男が存在する(ある男は暴力的である)という個別の事実から、暴力が好きでない男が存在するはずがない(すべての男は暴力的である)という全称判断(断定)を引き出しており、誤りを犯していることになる。
  4. ^ 逆に「Bさんはエビフライとトンカツとカレーライスが大好きだ。だからエビフライとトンカツをカレーライスに載せたものも喜んで食べるに違いない」といった推論がつねに偽であるとすることもできない。合成の誤謬の典型的な例についてはコモンズの悲劇も参照。
  5. ^ ちなみに、この論証は、「あなたはサムライでありたいならば、あなたも刀をもつべきだ。なぜならば、すべてのサムライが刀をもっているからだ」という論法と同型である。かりにこの論法を認めたとしても、これまでのすべてのサムライが刀をもっていたことが、これからのサムライが刀をもつべき理由とはならないため、やはり自然主義の誤謬を犯していることになる。
  6. ^ またレトリックとして見た場合、Aの発言は、「これから皆がそうしてほしい」という発言者の願望を表現している可能性もある。
  7. ^ なお、「できる」「能力」という語自体が、後述される含みのある言葉 に該当する。(たとえば老人力など)

出典

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  1. ^ 荒木, 良造『詭弁と其研究』内外出版、東京、1922年https://dl.ndl.go.jp/pid/969196/1/6 
  2. ^ 実用日本語表現辞典. “誤謬”. Weblio辞書. 2025年2月5日閲覧。
  3. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. “虚偽”. コトバンク. 2025年2月5日閲覧。
  4. ^ Friedman, Hershey H. and Kaganovskiy, Leon, Logical Fallacies: How They Undermine Critical Thinking and How to Avoid Them (June 10, 2024). Available at SSRN: https://ssrn.com/abstract=4794200 or http://dx.doi.org/10.2139/ssrn.4794200, pp=5,6
  5. ^ 太田莞爾 (1993), p. 317.
  6. ^ a b c d Dowden, Bradley. “Fallacies”. Internet Encyclopedia of Philosophy. 2025年2月7日閲覧。
  7. ^ Aristotle,On Sophistical Refutations, De Sophistici Elenchi. library.adelaide.edu.au
  8. ^ 山下正男. “虚偽”. コトバンク 改訂新版 世界大百科事典. 2025年2月7日閲覧。
  9. ^ Garns, Rudy (1997年). “Informal Fallacies”. Northern Kentucky University. 2017年2月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月8日閲覧。
  10. ^ 百科事典マイペディア. “虚偽”. コトバンク. 2025年2月5日閲覧。
  11. ^ 近藤洋逸,好並英司『論理学入門』岩波書店、1979年1月25日、133頁。ISBN 9784000208918 
  12. ^ 太田莞爾 (1993), p. 318.
  13. ^ 足立幸男「議論の発展のために(その2)―無論理的虚偽について―」『帝塚山大学論集』第34号、帝塚山大学教養学会、1981年9月10日、131-132頁。 
  14. ^ T・エドワード・デイマー (2023), p. 89.
  15. ^ 塩谷英一郎「言語学とクリティカル・シンキング-誤謬論を中心に」『帝京大学総合教育センター論集』第3巻、帝京大学総合教育センター、2012年3月20日、83-94頁。 
  16. ^ Macagno, F. Presuppositional Fallacies. Argumentation 38, 109–140 (2024). https://doi.org/10.1007/s10503-023-09625-6
  17. ^ Jack Schafer (2019年12月20日). “A False Premise Is a Lie in Truth” (英語). Psychology Today. 2025年2月10日閲覧。
  18. ^ Christian, Plantin. “Dictionnaire de l'argumentation 2021”. Dictionary of Argumentation. 2025年2月11日閲覧。
  19. ^ 太田莞爾 (1993), p. 280.
  20. ^ 野崎『詭弁論理学』(2007年)[出典無効]より引用。
  21. ^ 太田莞爾 (1993), p. 263.
  22. ^ 太田莞爾 (1993), p. 288.
  23. ^ 麻柄啓一 1988.
  24. ^ a b T・エドワード・デイマー (2023), p. 257.
  25. ^ T・エドワード・デイマー (2023), p. 22.
  26. ^ a b T・エドワード・デイマー (2023), p. 103.
  27. ^ a b c 太田莞爾 (1993), p. 322.
  28. ^ 速水滉『論理學』岩波書店、2015年1月31日、403頁。 
  29. ^ 岡本慎平「推論と規範-J.S.ミル『論理学体系』における生の技芸とその構造について-」(哲學63号 73-87 2011.10.25)広島大学学術情報リポジトリ[1]P.78
  30. ^ デジタル大辞泉. “循環論法”. コトバンク. 2025年4月5日閲覧。
  31. ^ a b Ethics Explainer: Naturalistic Fallacy” (英語). The Ehics Centre (2016年3月15日). 2022年12月7日閲覧。
  32. ^ David Hume” (英語). Stanford Encyclopedia of Philosophy. 2022年12月7日閲覧。
  33. ^ 相松慎也. “ヒュームの道徳哲学と規範”. 東京大学. 2022年12月7日閲覧。
  34. ^ Pigden 2018, p. 73.
  35. ^ a b Moral Non-Naturalism”. Stanford Encyclopedia of Philosophy. 2022年12月7日閲覧。
  36. ^ Pigden 2018, p. 74.

参考文献

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  • 太田莞爾『論理学概論〔増補版〕』昭和堂、1993年。ISBN 9784812293010 
  • アリストテレス「ソフィスト的論駁について」『アリストテレス全集3』山口義久,納富信留(訳)、岩波書店、2014年。ISBN 9784000927734 
  • T・エドワード・デイマー『誤謬論入門 優れた議論の実践ガイド』小西卓三(監訳),今村真由子(訳)、九夏社、2023年。ISBN 9784909240040 

関連文献

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