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賈タルグン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

賈 タルグン(か タルグン)は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。最初期にモンゴル帝国に投降した漢人武将の一人で、砲兵部隊の指揮官としてチンギス・カンの遠征に従ったことで知られる。

概要

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賈タルグンは冀州出身で、チンギス・カンが華北に進出した時に砲兵を募った時、これに応じてモンゴル軍に加わった人物であった。砲兵としてモンゴル軍に加わった賈タルグンは「四路総押」の称号を授けられ、華北地方では益都攻略に功績を挙げている。その後、金朝遠征が一段落するとチンギス・カンに従ってモンゴル高原まで移住し、更にモンゴル高原西北隅のケムケムジュート(謙謙州、現在のトゥバ共和国)への駐屯を命じられた[1]。同時期にモンゴル高原を訪れた丘処機は『長春真人西遊記』においてケムケムジュートに「漢人の技術者(漢匠)」が千名あまり居住していたことを記録しているが[2]、この「漢匠」たちは賈タルグンと同時期に華北から移住してきた者たちであったとみられている[3]

1219年己卯)からは中央アジア遠征にも従軍し、キタイ(契丹)人ジュシェン(女真)人タングート人漢人ら多人種からなる砲兵部隊を率いてオトラル城の攻略に加わった。賈タルグンは城壁を穿って先んじて城中に入りオトラル城の陥落に大きな功績を挙げたことから、元帥に任じられた[4]

チンギス・カンの没後、新帝オゴデイによる第二次金朝侵攻が始まると、賈タルグンはトルイ率いる右翼軍に属して漢江を渡り、唐州鄧州申州裕州の攻略に従事した。この金朝遠征での功績にとり金紫光禄大夫・総領都元帥に改められ、次いで徐州邳州の平定に従事したが、1241年辛丑)に亡くなった[5]

賈タルグンの死後、その地位は息子のチャウルチ(抄児赤)が継いだ。チャウルチはイェスンゲ(移相哥)・タガチャル(塔察児)ら、東道諸王の軍に属して南宋との戦い従事したものの陣没し、その後は弟の賈六十八が跡を従いだ[6]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻151列伝38賈塔剌渾伝,「賈塔剌渾、冀州人。太祖用兵中原、募能用砲者籍為兵、授塔剌渾四路総押、佩金符以将之。及攻益都、下之、加龍虎衛上将軍・行元帥左監軍、便宜行事。師還、駐謙謙州、即古烏孫国也」
  2. ^ 『長春真人西遊記』,「……西北千餘里倹倹州、出良鉄、多青鼠、亦収禾麦。漢匠千百人居之、織綾羅錦綺」
  3. ^ 池内1981,17-18頁
  4. ^ 『元史』巻151列伝38賈塔剌渾伝,「歳己丑、将所部及契丹・女直・唐兀・漢兵、攻斡脱剌児城。塔剌渾督諸軍、穴城先入、破之、即軍中拝元帥、改銀青栄禄大夫」
  5. ^ 『元史』巻151列伝38賈塔剌渾伝,「従睿宗入散関、略関外四州、経興元、渡漢江、略唐・鄧・申・裕諸州、鼓行而東、河南平。陞金紫光禄大夫・総領都元帥。従大帥太赤攻徐・邳、平之。十六年、卒」
  6. ^ 『元史』巻151列伝38賈塔剌渾伝,「子抄児赤襲、従諸王移相哥・塔察児南征。戊午、卒於軍。子冀驢襲、卒。弟六十八襲。至元五年、諸軍囲襄樊。九年、六十八帥所部戍駱駝嶺一字城、立砲樊城南、不発、以怠敵心、俄帥鋭卒突出、攻其城西、破之。以功賜銀幣・鞍馬・弓矢。十一年、諸軍南征、渡江。明年、加宣武将軍。宋常州守臣姚訔、堅守不下、六十八発砲摧其城壁、以納諸軍。宋援兵突至、力戦却之。常州既克、帥府令総新附砲手軍。臨安降、加懐遠大将軍、従諸軍追宋二王至海、下三十餘城。十四年、加昭勇大将軍。十五年、領南軍精鋭者入衛、加輔国上将軍。十八年、論功、授奉国上将軍、管領砲手軍都元帥。二十年、罷都元帥、更授砲手軍匠万戸、佩三珠虎符。二十六年、卒」

参考文献

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  • 井ノ崎隆興「蒙古朝治下における漢人世侯 : 河朔地区と山東地区の二つの型」『史林』37号、1954年
  • 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
  • 池内功「モンゴルの金国経略と漢人世候の成立-2-」『四国学院大学論集』46、1980年
  • 『元史』巻151列伝38薛塔剌海伝