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酒井忠英 (出羽松山藩嫡子)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
酒井 忠英
時代 江戸時代中期
生誕 元禄14年9月8日1701年10月9日[1]
死没 元文元年10月9日1736年11月11日
別名 主膳(通称
幕府 江戸幕府
主君 酒井忠予
出羽松山藩世嗣
氏族 酒井氏(左衛門尉家)
父母 父:酒井忠予、母:不詳
兄弟 忠英忠寄遠藤胤親正室
正室前田正甫の娘・家子
忠郷忠起
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酒井 忠英(さかい ただひで)は、江戸時代中期の出羽国松山藩世嗣通称は主膳。

略歴

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出羽国松山藩2代藩主・酒井忠予の長男として誕生。正室は富山藩主・前田正甫の娘・空眠家子。子に忠郷(長男)、忠起(次男)らがいる。

父・忠予の長男として生まれたが、享保17年(1732年)に盲目となって廃嫡され、藩から1,000俵を支給された。代わって忠休が嫡子となり、のち3代藩主に就任した。忠英の長男・忠郷、次男・忠起は忠休の養子となったが、いずれも家督相続前に死去した。このため継嗣争いが激化し、後の「宝暦騒動」を引き起こした。

元文元年(1736年)死去。

脚注

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  1. ^ 『新編庄内人名辞典』(庄内人名辞典刊行会、1986年)p.328