コンテンツにスキップ

門致中

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
門致中
プロフィール
出生: 1888年光緒14年)
死去: 不詳
イギリス香港九龍
出身地: 清の旗 吉林将軍管轄区琿春副都統管轄区(現在の汪清県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 門致中
簡体字 门致中
拼音 Mén Zhìzhōng
ラテン字 Men Chih-chung
和名表記: もん ちちゅう
発音転記: メン ジージョン
テンプレートを表示

門 致中(もん ちちゅう)は中華民国の軍人。国民軍の軍人で、後に南京国民政府(汪兆銘政権)に加入した。靖原

事跡

[編集]

1914年民国3年)11月、保定陸軍軍官学校第1期歩科を卒業。1918年(民国7年)、馮玉祥率いる第16混成旅で参謀に任ぜられる。1922年(民国11年)1月、馮玉祥の命で河南省にて新たに5個補充団が編成され、第5補充団団長[1]。8月、第25混成旅(旅長:宋哲元)第1団に改編され団長[1]。同年、第11師参謀長に昇進し、陸軍少校銜を授与された。さらに程なくして陸軍中校銜も受けている。1924年(民国13年)2月、第25混成旅歩兵団団長に任ぜられ、翌月、陸軍上校銜を授与された。

国民軍成立後の1925年(民国14年)1月、綏遠全区警務処処長兼綏遠警察庁庁長に任ぜられる。さらに国民軍第1軍警備第2旅旅長にも任ぜられた。7月、陸軍少将銜を授与される。9月、馮玉祥の五原誓師を経て、門致中は国民聯軍副参謀長兼第7路総司令兼北路前敵総指揮に任命された。12月、西北辺防軍第10師師長[2]1927年(民国16年)、第7軍軍長となり、さらに第2集団軍訓練副監に任ぜられている。

国民政府では、1928年(民国17年)3月に、国民政府軍事委員会委員を兼任している。10月、甘粛省政府委員となり、翌月、初代寧夏省政府主席に任ぜられた。翌年1月、国民政府首都建設委員会委員も兼ねている。1930年(民国19年)、西北軍第17軍軍長に任ぜられた。

翌年6月、寧夏省政府主席を罷免され、北平政務委員会委員となる。その後、暫編第1混成旅旅長に任ぜられた。1932年(民国21年)、河北剿匪総指揮となる。翌年5月、軍事委員会北平委員会委員となる。1935年(民国24年)4月、陸軍中将に任ぜられ、12月、冀察政務委員会建設委員会委員長となった。

1940年(民国29年)、汪兆銘が南京国民政府(汪兆銘政権)を樹立すると、門致中もこれに参加し、軍事委員会委員に任ぜられた。1945年(民国33年)3月、華北政務委員会綏靖総署督弁に任ぜられている[3]

汪兆銘政権崩壊後は、蔣介石の国民政府に復帰し、華北先遣軍第9路総司令に任ぜられた。1946年(民国35年)からは香港に移住している。

門致中の詳細な没年は不明だが、1960年代に香港の九龍で病没している。

[編集]
  1. ^ a b 杨 2001, p. 555.
  2. ^ 杨 2001, p. 415.
  3. ^ 劉寿林ほか編『民国職官年表』による。なお、徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』は、1944年以降の門致中の地位について、以下のように記述している。1944年、華北政務委員会治安総署督弁兼華北治安軍総司令に就任。1945年3月、華北政務委員会常務委員兼綏靖総団督弁に就任。しかし劉『民国職官年表』には、これらの人事異動について記載が無い。同書は、1943年11月まで治安総署督弁には斉燮元がついていた、としている。そして1943年11月に治安総署が綏靖総署に改組されると、督弁には杜錫鈞がついた、と記載している。

参考文献

[編集]
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 杨保森『西北军人物志』中国文史出版社、2001年。ISBN 9787503453564https://books.google.co.jp/books?id=Kb-pDwAAQBAJ&pg=PT487 
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
(創設)
寧夏省政府主席
1928年11月 - 1931年6月
次代
馬鴻賓
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
杜錫鈞
華北政務委員会
綏靖総署督弁
1945年3月 - 8月
次代
(廃止)