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関威雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
関威雄
せき たけお
生年月日 1892年3月10日
出生地 日本の旗 日本 新潟県南魚沼郡上田村
(現・新潟県南魚沼市
没年月日 (1955-01-20) 1955年1月20日(62歳没)
出身校 新潟県高田師範学校卒業
(現・新潟大学教育学部)
前職 新潟県知事官房主事

当選回数 2回
在任期間 1947年4月10日 - 1951年4月22日
1951年4月25日 - 1955年1月20日

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関 威雄(せき たけお、1892年明治19年)3月10日[1][2][3] - 1955年昭和30年)1月20日[1][2])は、日本政治家新潟県高田市(現・上越市)長(2期)。

経歴

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新潟県南魚沼郡上田村(現・南魚沼市)生まれ[3][4]1906年(明治39年)新潟県高田師範学校[1]。小学校訓導、同校長、新潟県視学、知事官房主事、岩船郡長、佐渡支庁長、学務兵事課長などを経て、1930年(昭和5年)長岡市助役となる[1][3]。その後、1938年(昭和13年)7月に大阪機械製作所に入社し、同長岡工場で勤務する[1][3]

1947年高田市長選挙

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1947年(昭和22年)初の高田市長選挙に立候補し、無所属新人と共産党公認の新人2人を破って当選する[1][2][3]

※当日有権者数:18,887人 最終投票率:73.8%(前回比:-pts)

候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持
関威雄-無所属8,337票61.2%-
丸山庄五郎-無所属4,173票30.7%-
北川省一-日本共産党1,103票8.1%-

同年4月10日に就任した[5]

1951年高田市長選挙

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1951年(昭和26年)4月22日に一旦退任するが、ほか2人を破って再選し、同月25日に再び就任した[3][5]

※当日有権者数:-人 最終投票率:93.2%(前回比:増加19.4pts)

候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持
関威雄--8,274票46.5%-
川瀬勘治---6,331票35.6%-
白石源吉---3,178票17.9%-

戦後の混乱から復興へ、多くの実績を残した。1947年(昭和22年)10月12日昭和天皇の戦後巡幸を迎えた際には、市民奉迎場で昭和天皇の先導役を務めた[6]

1955年(昭和30年)1月20日、胃癌のため在職中のまま死去した[1][5][7]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 『高田市史 第2巻』501頁。
  2. ^ a b c 『全国歴代知事・市長総覧』171頁。
  3. ^ a b c d e f 人事興信録 第16版 上』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ 人事興信録 第15版 上』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  5. ^ a b c 新潟県年鑑 1957年版』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  6. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、483頁。ISBN 978-4-487-74410-7 
  7. ^ 日本瓦斯協会誌 = Journal of the Japan Gas Association 8(2)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション

参考文献

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  • 高田市史編集委員会編『高田市史 第2巻』高田市、1958年。
  • 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年。