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靖康の変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

靖康の変(せいこうのへん)は、1126年北宋)が、女真族(後世の満洲族の前身)を支配層に戴くに敗れて華北を失った事件。靖康は当時の宋の年号である。

靖康の変
現在の河南省の地図における開封

戦争宋金戦争
年月日1125年9月 - 1127年3月
場所:中国、華北
結果北宋の滅亡、南宋の成立
交戦勢力
北宋
指導者・指揮官
欽宗 太宗
粘没喝

元々、満洲地方の金国と中国本土の北宋国は共同で両国の間にある遼国(契丹国)を滅ぼさんとした同盟関係(海上の盟)があった。

「大宋皇帝、書を大金皇帝に致す。承示、書に遠ければ罰を致さん。契丹と当たること来約の如し。己が差す童貫の勒兵相い応じ、彼は此が兵関を過ぎることを得ず,歲幣の数は遼に同じ」
(大意)宋の皇帝が金の皇帝にお伝えします。違約の場合は罰則があります。契丹国(遼国)に共同作戦に攻め込むことを約束しましょう。朕が差し向ける童貫将軍の兵が契丹国に攻め込みます。その軍はお互いの境界の関所から先には進みません。また、遼国が元々貴国に支払っていた朝貢(歲幣)の額は、同額を我が宋国がお支払いします。 — 宋・徽宗皇帝による「海上の盟」の内容、『御批歴代通鑑輯覧』巻八十一

ところが、金が遼を滅ぼして宋に領土を約束通り割譲したにも関わらず、約束の歳幣(資金など)を払わなかった[1]ため、違約に怒った金軍[2]が宋の首都・開封を攻撃した事件である。開封は陥落し、北宋の皇帝(欽宗)と太上皇(徽宗)の二人も俘虜になった。また、皇族の殆どや宮廷に仕えていた宦官・宮女、国庫財産の殆どが金に奪われている。これにより北宋は滅亡した。[3] 宋は同盟関係にも関わらず、遼の残党と通謀して金を裏切ろうとしたり、以前金に攻められた時に約束した賠償金を不払いだったりするなど、新興国の金を小馬鹿にした態度を取り続けたために金軍が国都を攻撃したものであった。徽宗もおべっかつかいの近臣にだまされて判断をことごとく誤り、金軍が開封城に迫ってくる段になってようやく「朕は元々馬鹿者で、世襲でなっただけだった。(それなのに)直言を嫌がり、奸臣にだまされて、おべっかばかりを聞いていた。そのため奸臣が跳梁跋扈して賢臣たちを追放し、政治も怠けていた」と反省する始末であった。徽宗は自己批判して勤王の士を募り、退位して息子に譲位したが時既に遅く北宋は滅んだのであった。[4]なお、皇族の一人(欽宗の弟・康王)が南に逃れて南宋を建国した。[5]

脚注

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  1. ^ 徽宗の贅沢三昧の暮らしに疲弊した民衆が、宋の南方で方臘を首領として反乱を起こしたため。方臘は別の国を建国し、宋国の城を次々に落とした。対抗して童貫軍15万は南下して方臘の国に攻め込んだため。『御批歴代通鑑輯覧』巻八十一によれば「帝は疏(方臘の反乱の報告)を得て、始めて大いに驚き、乃ち北伐の議を罷む」という。徽宗は歳幣を支払うのを嫌がっていたという。
  2. ^ 金との交渉にあたった宋の馬拡は「彼既深恨本朝結納張殼,又為契丹舊臣所激,故謀報復,今宜速作備禦」(金国は宋が朝貢しないのをひどく恨んでおり、また憤慨しております。我々は速やかに防御を固めねばなりませぬ)と童貫将軍に伝えたが、将軍は拒絶したと『御批歴代通鑑輯覧』巻八十一にある。
  3. ^ 斯波義信『靖康の変』日本大百科全書(ニッポニカ)、コトバンク。2025年2月16日閲覧
  4. ^ 「帝即命虛中草詔,畧曰:朕以寡昧之質,籍盈成之業,言路壅蔽,靣諛日聞,恩倖持權,貪饕得志,縉紳賢能陷于黨籍,政事興廢」と『御批歴代通鑑輯覧』巻八十一にある。
  5. ^ 寺田隆信『物語 中国の歴史』P182~P183、中公新書

関連項目

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  • 澶淵の盟
  • 海上の盟
  • 水滸後伝 靖康の変を題材にした明の歴史小説。梁山泊の生き残り燕青が連れ去られる徽宗に食物を献上し、「徽宗は優秀な人だったが、近臣にだまされて国を潰してしまった」というくだりがある。
  • 洗衣院 この時拉致された女性たちが入れられたとされる施設。ただし根拠は清の末期に創作された疑いが濃い『靖康稗史』しかなく、この施設が実在したかどうかは定かではない。詳細は当該項目参照。

外部リンク

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