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須田茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
須田 茂[1]
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 群馬県勢多郡新里村
生年月日 1928年2月22日
騎手情報
所属厩舎

田中利衛高崎(1948年 - 1950年)

→田中利衛・大井(1950年 - 1970年)
騎手引退日 1970年5月31日
重賞勝利 72勝[2]
通算勝利 13934戦3008勝[3]
調教師情報
初免許年 1970年
調教師引退日 2003年5月31日
通算勝利 3843戦400勝[4]
経歴
所属 大井競馬場(1970年 - 2003年)
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須田 茂(すだ しげる、1928年2月22日 - )は元大井競馬場所属の元騎手調教師である。黎明期の南関東公営競馬で6年連続リーディングジョッキーに輝き、川崎佐々木竹見騎手に抜かれるまで日本における最多通算勝利数記録を保持していた。

経歴

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群馬県勢多郡新里村出身[1]。高等小学校を卒業すると、13歳で埼玉県朝霞町に存在した陸軍予科士官学校に徴用され[2]、馬係を任される[1]。その後は終戦まで同学校で将校用の馬を世話しつつ、合間を縫って騎乗技術の手ほどきを受けたという[1]

終戦後は北関東草競馬でセミプロとして農耕馬などに騎乗していたところ、軍時代の先輩から当時高崎に厩舎を構えていた田中利衛調教師を紹介される。その騎乗フォームに感銘を受け入門すると[1]、1948年2月には正式に騎手免許を取得した[1]。1950年、師匠とともに完成したばかりの大井競馬場へ移籍[5]。この年に田中を凌いで174勝を挙げリーディングジョッキーに輝くと[注 1]、翌1951年には284勝、1952年も279勝と勝ち星を量産[1]。1950年から1955年まで、6年連続で南関東のリーディングジョッキーの座を維持する[1]

1956年以降は森田正一門下の荒山徳一小筆昌らに押されてリーディングこそ遠ざかったが、ダイニコトブキを始めとする数多くの有力馬に騎乗し、長く重賞戦線でその存在感を保ち続けた。1964年4月26日、アデルバウエルに騎乗し南関東通算2500勝を達成[2]。さらに、この年にはマニラで開催されたアジア競馬会議の騎手招待競走でも騎乗している[注 2][6]

その後は落馬事故などの不運もあって騎乗数は減少し[7]、1969年12月5日には通算勝利数の日本記録を佐々木竹見騎手によって追い抜かれている[8][注 3]。1969年末に通算3000勝を達成[3]。1970年、交友があった中央競馬保田隆芳騎手の引退を機に、自身も同年5月いっぱいでムチを置くことを決める[2]。最後の重賞騎乗となった金盃では、父親も観戦に訪れる中でアポスピードに騎乗し見事勝利を収め、表彰式では感極まって嬉し涙を見せたという[9]。通算成績は13934戦3008勝(海外1戦0勝)、うち南関東競馬で2908勝を挙げた[3]

引退後はそのまま大井競馬場調教師に転身。1979年に調教芸術賞を、1994年には関東地方公営競馬協議会の功労調教師賞を受賞している[4]。2003年5月31日に調教師を勇退した[4]

代表騎乗馬

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注釈

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  1. ^ 当時は調騎分離以前であったため、田中調教師は騎手としても騎乗していた。
  2. ^ なお、同競走では中央競馬境勝太郎騎手が勝利を収めている。
  3. ^ ただし、これは1950年の大井競馬場移籍後のみの数字。
  4. ^ ゴールデンフアイタの騎乗が優先されたため、秋の特別などには騎乗していない。
  5. ^ 主戦の竹山隆騎手が落馬負傷で騎乗できなくなったため。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 白井新平「東京ダービーと二五〇〇勝」啓衆社『啓衆地方競馬』1964年6月号、2-5頁。
  2. ^ a b c d 川崎競馬倶楽部、中川明美「厩舎まるかじり」(2014年9月9日閲覧)。
  3. ^ a b c 「地方競馬の名騎手たち」地方競馬全国協会『地方競馬史第5巻』2012年、116-119頁。
  4. ^ a b c 東京シティ競馬、調教師の引退について(2014年9月9日閲覧)。
  5. ^ 高木賢「地方競馬風土記(23):東京都・大井競馬場」地方競馬全国協会『地方競馬』1987年3月号、14-17頁。
  6. ^ 啓衆社『啓衆地方競馬』1964年8月号。
  7. ^ 「東西南北:落馬事故が生んだ須田茂引退説?」啓衆社『啓衆地方競馬』1965年5月号。
  8. ^ 「佐々木竹見、栄光の軌跡」地方競馬全国協会『Furlong』2001年7月号、22-27頁。
  9. ^ 「金盃」啓衆社『啓衆地方競馬』1970年6月号。