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祈祷惺々集/序

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とう惺々せいせいしゅう

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読者に呈する所の此集は其原由する所次の如し。一の愛神者あり、己れに注意すると神と祈祷に於て談話するとを愛しけるが一日自ら己の事を話述して曰く、家事の為め又職分の為めに時として多く奔走するのむことを得ざるあるにぞ常に注意に怠り祈祷にひややかなるを致す。彼れいふこれ如何に哀むべしといへども余は自らこれに處するの力を有せず。さりながら其後閑暇の時を窺ひ得るや己が一室に閉居し諸事と奔走とに終をつげて只管に祈祷し、読経し、及び神の事と神に属するの事件とを黙想す。神は仁慈なり、先きの平安なる心地はここに再び回復せらる。余は此の時に於て或は彼の書或は此の書につき凡そ祈祷に関する所のものを読看すと。いひ終りて彼れ希望をあらはしけるはすべて此等の事を一の浩瀚ならざる書冊に蒐集しゅうしゅうしたるあらんには幸ならん。其時はこれが為めに種々の書冊に渉猟するの労を免れん。

視よここに撰集せるは一分なりといへども目的の為めには可なり足りなん。そもこれが起端となりしは前述愛神者の一希望のみにあらず、特に他の多くの愛神者も同様の境遇にありて読んで祈祷の心を起さんとするも其の祈祷の事をしるせる書冊を手に有せざるにあり。然れどもかくの如きの読看は知識を和げ心を醒ますに最良なる方法なり、読みては祈祷の望みを温め、心の奮熱する間に祈祷しては更に又読まん、これに温められて新に祈祷に立たんが為めなり。

これぞ此集をあらはしたるの縁由又起端なる。さりながらこれ無くも凡そ祈祷に立たんと欲する者はそれに必要なる教訓を此に於て見るを得ん。

此書に言ふ所はすべて祈祷の精神の事なり。もし夫の祈祷の規程と秩序との事に至てはこれが為めに特別の教訓につあるなし。此等の規程と秩序とは教會に於て指示さる、故に人皆祈祷に左程熱心に注意せざる者にだも行はるゝなり。教會に行き又は家にありても祈祷書によりて祈祷するを得ん。且やいささかたりとも己を記憶するものならんには兎に角に日々祈祷を修せざらん者は決してあらじ。

さりながらここに驚かざるを得ざるはかくの如く生涯祈祷をなしつるも適当に祈祷するを全く能くせざること是なり。呈する所の此集は最適当なる祈祷をあらはして此事を記憶せしむるなり、且や誰か祈祷に完全を得てこれを其心に於ても最適当の祈祷とならしめんとの望を起すあらばそを教へて進歩する所あらしめんとす。

かくて集は出来りぬ。

或は集に何等の組織システマも立てざりしを惜む者あらん。されど此に就ては意見のあるあり。そも大なる祈祷者の一人にして今は既に故人となれる神の聖者〔エピスコプ〕ありけるが集に組織を立てんは尚善からずやとの問に答へていへることあり、曰く組織は此事に適当せざるなり。組織は祈祷の実行せらるゝ範囲とは全く異なる他の範囲にあるの主義によりて生ず。故に集に組織をたつるは固有ならざる元素を混ずるなり。集は建徳の為めにあらはさる。推理の為めにあらず。されば建徳を尋ぬる者に必要なるは組織に非ずして事の教示なり。彼は祈祷の齊整を自ら其心に建てんとするなり、而してもろもろ読得たる教示の直ちに入るべきは心地にありて思想にあらず。組織はただに彼れに妨げん、且や祈祷の事を冷却せしむるに至らんと。問者此に反論する能はずして集は組織なしに成りき。

彼れに従ふは余の素志なり、願くは主は凡その読者をして祈祷の精神を其心に建てんが為めに有益なるものを此に於て見るを得しめ給はんことを。

一千八百八十一年     露國主教フェオファン