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Page:樺太アイヌ叢話.pdf/85

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(三)チシユシの傳說

 此チシユシの海岸に二つの岩が相列んで高く聳え立て居る。之を邦領に歸して二つ岩と稱名したので有る。往昔此附近の土人が他の者と戰爭すべく此處より何艘かの船を出すに際し二人の女が夫の出陣の名殘りを惜しみて此海岸に立ち泣き終に、立往生したのが此二つの岩で有ると云ふ傳說で有る。


三六、サカエハマ(現榮濱)

 サカエハマの名稱は栖原時代邦人の命名したるものにて、現澗の附近を全稱したる名詞である。土人はエターネシララ解沖に平磯や崎が突出したる名詞にして、伊達、栖原時代は此處に運上家の所在地で有る。

 又維新當時は會所前も有つて役人の詰所で有る。明治六年頃は民事係り、太田嘉忠と云ふ役人が居たと、余が父の遺書に有つた。

 栖原氏の漁業經營當時此のサカエハマより、土人が一艘の大形漁船(ドブネ)と稱する大漁船に、乘船して(シシカ)現敷香迄、漁業出稼ぎをするのである。之等の土人は榮濱を中心にロレーナイブチ