夜は「アクティブ・シニア革命」編集会議。朝はヨガ。

「アクティブ・シニア革命」編集会議。21時から22時半、その後、デザインの力丸さんとDTPの近藤さんとミーティング。

  • 副編集長の都築さんが出張中で休みなので、「本」のコーナーを西山さんにお願いする。尾畠春夫、橋本大也谷川健一渡部昇一
  • 今週土曜日の座談会の打ち合わせ。ズームでのやり方について教え合う。QRコードのつくり方(qr.group)。共同ホスト2人の役割の決める。
  • 台割」に沿って、進捗状況を確認していく。連載コーナーのタイトルも決定。それにもとづいてデザインを決めていく。
  • 集まりつつある原稿は、私と都築さんと近藤さんとで、チェックし書き手に書き直してもらうこともある。また集まった原稿は、趣旨を尊重しつつ、編集部でアレンジするという方針でのぞむことにしたい。
  • 来年2月1日には蜃気楼大学が予定されている。そこで出来上がった「創刊号」を披露できるように運びたい。
  • 20時からのデメケンミーティングで、クラファン、ODECOの件を確認。

ーーー

土曜日のヨガ教室を休んだので、代講で月曜日の10時半のクラスに出てみた。私以外の8人は全員が女性。本日はチャレンジングコースとかで、かなりはハードだった。このクラスは10年続けている人たち。

 

ーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」10月13日。やなせたかし「僕は先に死んじゃいますが、アンパンマンそのものは、ずっといきていくんじゃないかと思います」

やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩、〈読みは同じ〉1919年大正8年〉2月6日 - 2013年平成25年〉10月13日)は、日本漫画家絵本作家、詩人。享年94。

製薬会社や三越の宣伝部員、雑誌記者、舞台美術、脚本家、演出家、放送作家、編集者などで生計を立てていた。本職は漫画家でありながら、そういう仕事はない中で、ひたすら漫画を描き続けていた。「ぼくの道」という詩がある。「荒れた砂丘を歩く 道は遠い 道に迷ったのかもしれない 不安をおさえてシャニムに歩く 鉛筆の林 ケシゴムの丘 ペン先の森 日はくれかかって空はまっくら それでもふしぎに心は楽しい この道が好きだから ぼくは歩いている 他になんにも方法がない 一足とびにあそこへいけない」。

40代後半まで代表作がなかった。手塚治虫なら「鉄腕アトム」、さいとう・たかをなら「ゴルゴ13」など、漫画家は代表作がないと認められない。仕事がこなくても、絶えず描いていなくちゃいけない。必ずつづけていて、運がやってきたら「パッ」とつかむ。根気が大事だ。「遅く出てきた人というのは、いきなりダメにはなりません」。

宮城まり子が歌った「手のひらを太陽に」という歌がある。いずみたくが作曲で、作詞はやなせである。「ぼくらはみんな生きている、生きているからかなしいんだ」「生きているからうれしんだ」。

「何のために生まれてきたの?」(PHP)を読んだ。インタビューで構成された小さな冊子だが、なかなかどうしてやなせの人生哲学は「聞かせる」。

困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場や国に関係なく、「正しいころ」。これは絶対的な「正義」なんです。兵隊にとられ、学んだこと。戦争というのは、絶対にやっちゃいけない。戦争は殺人をしなかえればならない。正義とはひもじい人を助けることなんですよ。ひもじい人を助けるヒーロー、それがアンパンマンを描き始めた動機となった。しょくぱんま、メロンパンちゃん、カレーパンマン、キャラクターは食べ物に限定した。バイキンマンドキンちゃんなども。子どもにとって一番大事なことは食べることだから。アンパンマンは一番弱い。アンパンマンバイキンマンとの戦いは永遠に続く。その戦いの中で健康を維持しているという原則を話に入れてある。正義を行う人は自分が傷つくことを覚悟しなくてはならない。だからアンパンマンは自分の顔をあげるのだ。

アンパンマンのもとになる絵本は54歳、そしてテレビでアニメが放映されたのは69歳と、いうように、やなせたかしは遅咲きだった。朝6時に起きて、1時間の体操。腕立て伏せ、足踏み、スクワット、自転車をこぐ。歌いながら。朝食後は40分寝る。それから仕事にとりかかる。食事は白米を少なくしておかず中心。野菜スープ。旗は恥部よりちょっと上くらいの量。日曜日はウナギの日。

もともとは、大人向けの詩集や本を書く作家だったが、アンパンマンを描いたために、児童書の仕事をするようになった。アンパンマンのテーマソングは「なんのために生まれて なにをしていきるのか」である。子どもの頃から歌っていると、自然に考えるようになるのだろう。東日本大震災の後、一番多く歌われたのが「アンパンマンのマーチ」だった。アンパンマンのキャラクターは2000を超えていて、最もキャラクターが多いアニメシリーズとしてギネスの世界記録に認定されている。

香美市立やなせたかし記念館以外にも、アンパンマンミュージアムは仙台、横浜、名古屋、神戸、福岡と全国に五か所あるのには驚いた。

才能の薄い人間でも、屈せずに続けていれば何とかなる。大量に仕事がきたばあいには、かえってゆっくやる。一日一枚やってく。するといつのまにか片付く。絶望せずに根気よく。一滴の水でも注ぐ、」そういう仕事をやていく。そうすれば同調する人間が出てくる。

この本の最後の「100年後へのメッセージ」は「100年後の世界では、漫画的精神で、みんながなかよく、そして面白く、楽しく暮らせる世界になってほしい」だった。

「僕は先に死んじゃいますが、アンパンマンそのものは、ずっといきていくんじゃないかと思います」。作者のやなせたかしの命は永遠である。 

 -------------

八王子古本まつりーーそろそろ森銑三という伝記家につきあう頃合いか。

秋の「八王子古本まつり」を妻と一緒にめぐる。八王子は「桑都」と呼ばれる。それは絹織物の産地という意味だが、西行の「浅川を 渡れば 富士の雪白く桑の都に青嵐吹く」に由来する。

古本まつり

JR八王子駅北口 西放射線ユーロードを上から見下ろした「古本まつり」の風景。

古本を3冊入手。古代から中世前期98人・中世100人・近世47人の245人。

「人物像」に焦点。「どのように生きたか」「どのように生きたと認識されていったか」。

中世を中心に100名。坂上田村麻呂から天草四郎まで。イメージ。和歌森太郎監修。

豊臣秀吉から新門辰五郎まで47人。著者は昭和期日本の在野歴史学者書誌学者森銑三という伝記家。

この本には「人物研究に就いての私見」がついている。

「正しい人物研究の気運」「真実と事実に則したもの」「人物研究に志す」「埋もれたままでいる人々、物故後さまで年月を経ていない人々の研究」「第一歩は手近なところから」「根本資料」「一に資料、二に資料、三に資料」「日記、書簡」「漢文」「人物研究の目的はその精神に触れることが最初の目的であり最後の目的」「公平と同時に真正直」「人物研究には、究極がない」「森鴎外渋江抽斎伊沢蘭軒などの考証体伝記を推奨」

江戸時代の医者の一人を研究する必要が起ったなら、富士川博士「日本医学史」。画家なら藤岡博士「近世絵画史」。役者なら井原博士「演劇史」。

片桐幸雄(立教大学助教授)「森さんの「近世人物夜話」。

人物研究は普遍に至る有力な道。学者、文人、武士、僧侶、商人などさまざまな人間を対象とする、それを積み重ねていくことで、ある時代の精神の全貌に触れることができる。縦割りではなく、人物研究による横割りのアプローチ。一人一人の研究の総計が全体に近づいていく。森はこの考えで「人物逸話辞典」で明治大正を手がけている。

森 銑三(もり せんぞう、1895年明治28年)9月11日 - 1985年昭和60年)3月7日)は、昭和期日本の在野歴史学者書誌学者愛知県刈谷市出身。享年99。

高等教育を経験しなかったにもかかわらず、図書館臨時職員、代用教員、雑誌社勤務など様々な職につきながら、独学で文学国史の研究にいそしみ、図書館・資料館等に保管された資料の発掘と、それらを元に人物伝典籍について精密に記した膨大な量の執筆活動を通じ、近世日本の文化・文芸関係の人物研究の分野で多大な業績を残した。『著作集』(全13巻)、没後刊の『著作集 続編』(全17巻)にまとめられ、江戸・明治期の風俗研究、人物研究を行う上での基点となっている。森の著述は、時代小説歴史小説)家たちにとって、作品を書く上での必須の資料になっている。江戸学の始祖の一人と目されている。後半生は井原西鶴の研究に注力

公私にかかわらず一貫して清廉な姿勢を貫き、華美を嫌った。それを永井荷風は「森さんのような人こそ、真の学者である」と評している。江戸風俗研究家・漫画家の杉浦日向子は森を深く敬愛していた。『森銑三著作集』に対して第23回読売文学賞受賞(研究・翻訳部門)。

私の書斎にはこの人の著書が何冊もある。そろそろひも解くころあいになった。

ーーーーーーーーーーーー

八王子「シャーロック・ホームズ」で食事。


f:id:k-hisatune:20241014013556j:image

f:id:k-hisatune:20241014013722j:image

f:id:k-hisatune:20241014013729j:image

f:id:k-hisatune:20241014013726j:image


ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」10月14日、森山真弓「政治には言葉がとても大切」

森山 眞弓(もりやま まゆみ、1927年(昭和2年)11月7日 - 2021年(令和3年)10月14日)は、日本の官僚、政治家。享年93。

津田塾専門学校を卒業後、女性として初めて東京帝国大学法学部法律学科へ入学(同期東大入学に、昨日書いた文化人類学者の中根千枝)。大学3年生のときに森山欽司(政治家)と結婚し、 「おしどり夫婦」と呼ばれた。

女性上級職員第1号として労働省に入省し婦人少年局長を務めた女性官僚の草分け的存在である。第1次海部内閣の環境庁長官、女性初の官房長官となった。1992年、宮澤改造内閣で文部大臣。小泉内閣法務大臣。2007年から2013年まで白鷗大学学長。2009年、民主党政権が誕生した総選挙で政治家を引退し立候補しなかった。

森山真弓『非常識からの出発』(小学館)を読んだ。副題は「女性官房長官 激動の六カ月」。1989年といえば、日本のGDPが世界の1割になる時代。1994年の17.9%へ向かう上昇の時代だった。

官房長官の仕事の中身に注目して読んだ。公式には、内閣のスポークスマン、閣内の調整役、国会、党との調整、連絡である。この仕事は国際情勢から公務員の不始末までが襲ってくる。毎日2回(午前11時と午後4時)の記者会見がある。午後の会見の後には、長官番記者との番懇があり、すぐに「政府首脳は、、」と書かれてしまう。オールランドプレイヤーであることを要求されるプレッシャーとストレスがある。国会答弁については「必要なポイントだけを押さえて、余計なことをしゃべらないこと」と述べている。過不足のない淡々とした答弁がいいということだろう。

危機管理のために、総理と官房長官は同時に東京を離れてはならないとされ、この点は時々、話題になる。内規では東京から100キロ圏内なら在京とみなされる。長官時代にはボートピープル、ハイジャックなどが起きている。

土俵に女性が上がれるかという騒動も森山長官時代だった。また森山は政府審議会メンバーに女性を増やすこと、女性議員の増加に力も注いでいる。女性長官は、適当にかっこよくと、兼ね合いを考えた服装を心がけている。

すさまじい権力闘争の場である組閣をみている。そして首相という立場の孤独もみている。

この本では珍しく解散について苦言を呈している。争点を明らかにするためにも国権の最高機関の国会で論陣を張りその上で解散して信を問うのが筋だ。そうならず冒頭解散となった。後味の悪さを感じている。こういう与野党の駆け引き、政府のやり方は今でもある。

官房長官の仕事を完璧にこなすのは至難のわざだとし、アメリカでは大統領特別補佐官と大統領報道官の二人でやっているようだとも書いている。強い存在感の長官、影の薄い長官、など、様々の長官像が思い浮かぶが、最高の官房長官として評価が高い中曽根内閣の後藤田正晴官房長官は「要するにその人次第」だと語っている。首相との関係もあり、融通無碍な難しい役職であることは間違いない。

自民党の支持率9%から出発した海部内閣で、薄氷を踏む思いで全力投球の半年だった。森山官房長官は評判がよかった。官房長官退任後の海部内閣は、1990年2月の総選挙の好結果のあと、53%、55%、7月には60%と支持率をあげているのを喜んでいる。

「私の今日までの人生は、文字どおり昭和とともにあり、、」と語っている森山真弓昭和2年生まれだ。平成の時代に入っても、宮沢内閣の文部大臣、小泉内閣法務大臣、白鷗大学学長などを歴任した。

失言、失態、暴言、出処進退の悪さ、大義のあやしい解散騒動などのお粗末な政治劇場を延々と見させれている我々には、「政治には言葉がとても大切」という森山真弓の言葉は、深く響く。

 

豊洲で孫の秋の運動会に参加。

5歳になる孫の豊洲の幼稚園の秋の運動会に参加した。写真は「後姿探検隊」のショット。

f:id:k-hisatune:20241013050346j:image

山本由伸先発のドジャーズダルビッシュ先発のパドレスの息詰まる投手戦を横目に見ながら、3歳から5歳の子どもたちの姿を堪能した。終了後に昼食。

好天の連休初日で混んでいる往復の電車の中で、「アクティブ・シニア革命」に寄せられた原稿の校正。

帰宅後は、延々と寝てしまった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

タテ社会の人間関係、なぜ一世をふうび…中根千枝さんの「日本論」を振り返る : 読売新聞オンライン

「名言との対話」10月12日。中根千枝「タテ社会」

中根 千枝(なかね ちえ、1926年大正15年)11月30日 - 2021年令和3年)10月12日)は、日本社会人類学者。享年94。

東京新宿区出身。津田塾を経て、東大文学部東洋史学科を卒業し、大学院を修了。1952年に東大東洋文化研究所助手に採用された。以後、1958年に講師、1962年に助教授(女性初の東大助教授)、1970年に教授、そして1980年に所長(国立大学初)に、1987年に定年退官。東大という「タテ社会」の階段をひとつずつ登っていった女性である。

中根千枝は、女性初の東大教授、女性初の学士院会員、そして学術系として女性初の文化勲章受章者というように、生涯にわたって「女性初」という冠がついてまわった。

社会人類学者らしく、海外への探検と調査が多く、1959年には『未開の顔・文明の顔』の刊行で、毎日出版文化賞を受賞している。中根千枝を有名にしたのは1967年刊行の『タテ社会の人間関係』である。この本はミリオンセラーであり、また今でも読まれているロングセラーである。英国で翻訳された英語版は、13カ国で翻訳出版されている。

「日本社会は親分・子分のタテの関係を持つ場が重要だ」とする『タテ社会の人間関係』は、「単一社会の理論」という副題がついている。日本論の不朽の名著である。

この本だったか、インド人の協力者に難しい課題を与えたとき、成功したら何が欲しいかと問いかけた。この時、相手は「あなたのキスを」と語ったと書いている。その後の展開は書かれていなかった。とても素敵なエピソードだった。

また、思いだすのは、どこかの雑誌であったか、「梅棹忠夫さんはどうしてこんなに人気があるんでしょう」と、人類学分野でライバル視した感想を述べていたことも思い出した。

『タテ社会の人間関係』は、1970年刊の「日本人は水と安全はただと考えている」とするイザヤ・ベンダサン日本人とユダヤ人』。1971年刊の土居健郎『「甘え」の構造』などとももに、当時の日本人論ブームを牽引し、その中心に位置していた書物である。二子玉川の世田谷区岡本の国分寺崖線の一画に4600坪の緑豊かな岡本静嘉堂緑地という庭園がある。ここは三菱の二代目・岩崎弥之助の土地であった。静嘉堂とは、弥之助の堂号で祖先の霊前への供物が立派に整うという意味である。静嘉堂文庫には、20万冊の古書籍と6500点の東洋古美術品が収納されている。その文庫百周年記念事業として美術館が建てられた。2010年に訪れたとき、庫長・美術館長が中根千枝だったことに驚いたことがある。

『タテ社会の人間関係』の「リーダーシップ」を論じたあたりでは、日本的リーダー像を明示している。「部下に引きずられる」「権限が小さい」「代表者」「相対的な力関係によってリーダーのあり方が決まる」「人間に対する理解力・包容力が資格」「部下に自由を与える」「直属幹部の統率が鍵」「能力よりも人格」「組織は人なり」。

日本ではリーダーの権限が非常に小さく、直属の幹部を操縦するのではなく、逆に引きずられることが多い。リーダーはカリスマであるというよりも、ある集団の代表者という場合が多い。このような構造のため、リーダーと部下の相対的力関係によって、リーダーのあり方が決まってくる。能力よりも人間に対する包容力があることがリーダーの資格である。部下に自由を与えるリーダーという意味では世界でも特殊である。リーダーの成否は直属幹部の把握と統率にかかっている。子分を人格的にひきつけ集団を統合し、彼らの全能力を発揮させることが最重要任務だ。

極論すれば「リーダーはバカでもいい」というこの考え方は一般的な日本社会は、中根千枝の「タテ社会」の分析で説明できると思うが、リーダーのあり方というのは、固定的なものではない。平時のリーダーシップと有事のリーダーシップは違うし、組織風土のあり方とも関係している。
どのようなタイプのリーダーシップを選ぶかは、その時々の組織の状況と力量、そしてリーダーの本来の資質、参加時期、年齢などによって大きく変わってくる。

自分のことを振り返ってみる。大学の探検部でのキャプテン時代、JALの課長・次長時代、宮城大時代の研究科長や総合情報センター長時代、多摩大学の学部長、副学長時代。あり方は若干違うが、スタイルは一貫しているような気がする。理念やテーマを明確にし、部下を巻き込んで問題をスピード感を持って解決する、その過程で仲間と結果を喜び、強くなった絆で次の課題に向かっていく、そういうリーダーシップのスタイルか。

この本の「まえがき」では、論文を発表すると読者からの反響に加えて、大学・研究所・企業経営・人事管理・教育研修などの帰還からセミナーや講演の依頼が多くあり、有益な意見を聞くことができ、それがこの本の内容を豊かにした、とある。私の場合も2002年の『図で考える人は仕事ができる』でも同じことを経験した。やはり作品を世に問うということは、世の中の反応と反響によって、自分がさらに進化することを意味している。作品を作り、発表し続けることが成長の源でなのである。

 

ラジオ深夜便「山口晃」「佐藤愛子」「中野京子」。「雑誌」編集と「HP」作成MTG。

NHKラジオ深夜便の聞き逃し配信で、散髪に向かうウオーキング(8500歩)の途中で画家と作家、3人のインタビューを聴く。

  • 山口晃」:気負うことがない自然体の語り口だった。あまり外に出ずに仕事をするタイプだから、絵のすごさの割には本人は知られていないことに納得した。「現代の大和絵」といわれる超絶的な鳥瞰図法は魅力がある。現代の風景や建物に、中世、近世、近代、そして現代の人物が違和感なく配置されている。空間だけでなく、時間をも含めた大きなる鳥瞰図。会田誠とよく対比される。f:id:k-hisatune:20130508054050j:image
  • 佐藤愛子」:100歳になった。のんびりすると鬱になるから仕事をする。人間は仕事をするようにできている。そういう語りだった。感性の強い向こう見ずの父と理性的な論客の母の血を受け継いでいるとの自画像を語っていた。佐藤紅緑と妻の女優・三笠万里子の間にできた子供で、ハチローとは異母兄弟となる。佐藤家は変人が多く出ており、愛子の『血脈』に詳しい。「まともに育たないのは佐藤家の家系らしい」。「結婚生活で大切なことは、、、、慢性の病気を克服していくように、少しづつ理想へ足元を踏み固めていくことだと思う」「80代までは年のことなんか感じることなかった」 『九十歳。何がめでたい』(小学館)は90万部を超えるベストセラー本。
  • 中野京子」。名画を見るには歴史の視点が欠かせないという主張だった。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆し、2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなった。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

  • 「イコール」編集長会議:橘川・田原と進捗と情報共有。
  • 「人物記念館ミュージアム」:全体図、データベース。
  • 「アクティブ・シニア革命」編集ミーティング:都築・近藤と、投稿などを編集の視点でチェック。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

仙谷由人 の画像をもっと見る

「名言との対話」10月11日。仙谷由人「より正しいことを言っている方が、選挙で負ける」

仙谷 由人(せんごく よしと、1946年昭和21年)1月15日 - 2018年平成30年)10月11日)は、日本政治家弁護士。享年72。

徳島市出身。東大時代は左翼系学生運動家でフロント(社会主義同盟)のシンパだった。5回生在学中に司法試験に合格し中退。自治労の組織内候補として1990年に出馬し社会党の議員になる。1993年落選。

1996年民主党から当選する。2009年8月に民主党が政権を獲得すると、鳩山内閣で行政刷新相として初入閣し、次に内閣府特命担当大臣(「新しい公共」担当)に任命された。次いで菅内閣官房長官を務め、優れた能力と多彩な人脈を駆使し的確な判断と指示を行い、高飛車な姿勢とも相まって「影の総理」の異名を取った。「赤い後藤田」との異称もある辣腕ぶりだった。

その後、法務大臣民主党代表代行などを歴任した。2012年落選。2年後に引退。民主党では、反小沢一郎勢力の旗頭として活動する政治姿勢が私の記憶にある。

官房長官時代の「自衛隊暴力装置」発言が物議をかもし、実力組織と言い直した。また2000年に起きた中国との領土問題のある尖閣列島中国漁船衝突事件では、衝突シーンが映っているビデオ映像の公表が遅れ、那覇地検は仙谷の意に沿って処分保留のまま釈放するという決着を図ったことには批判も多い。行政刷新相として事業仕分けも推進している。

暴力装置」という表現については、石破茂は「警察と軍隊という暴力装置を合法的に所有するというのが国家の定義」だとして認めていたとして、後に仙谷は反論している。

 2018年の自民党総裁選で善戦し敗れたばかりの石破茂と対談し、今の時代は「より正しいことを言っている方が、選挙で負ける」として、石破の方が政策的に正しかったからこそ負けたとの持論を展開し慰めている。この言葉は民主党の代表選びや、自身の選挙での落選も踏まえての感慨だろう。

2024年9月の自民党総裁選で石破は勝った。総選挙は、与野党が入り乱れて、どういう結末になるかはわからない。「選挙で負けた方が正しい」となるのかどうか。

 

 

「ライフワーク」「iPhone16」「オステオパシー」


f:id:k-hisatune:20241011040454j:image

f:id:k-hisatune:20241011040451j:image

f:id:k-hisatune:20241011040447j:image

f:id:k-hisatune:20241011040458j:image

午前:「ライフワーク」の総まとめの書籍を執筆中だ。駅前のカフェで打ち合わせ。数年がかりでようやく「初稿」に辿りついた。編集者からの加筆や資料提供の注文を受けたので、ここ10日程、集中して取り組むことにする。12月3日に見本を受領、12月11日に書店搬入というスケジュール。

午後:立川のビックカメラでアイフォーンの買い替えの相談。カメラ重視の「プロ」シリーズは必要ないので、「16」にしようと思う。駅前のモニュメントが目についたので撮影。

夕刻:「オステオパシー」という整体術に長年通っている。仙台時代の2001年あたりからだから、もう四半世紀になる。体のゆがみをもとに戻してもらった。体調を再起動させたので、気持ちよくやっていこう。オステは1874年にアメリカで生まれた整体術である。全身の歪みを取り除くことで、身体機能のバランスを整え、免疫力や自然治癒力を高め、不調を整える。筋肉や内臓、血液やリンパなどの循環器系、脳神経系まで身体全体に及ぶ治療を施す。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

佐々 淳行 SASSA Atsuyuki | nippon.com

「名言との対話」10月10日。佐々淳行「危機管理のノウハウ」

佐々 淳行(さっさ あつゆき、1930年12月11日 - 2018年10月10日)は、日本の警察防衛官僚危機管理評論家。享年87。

警視庁入庁。1969年の東大安田講堂事件、1972年のあさま山荘事件、1975年のひめゆりの塔事件等で主要な役割を果たす。1977年防衛庁に出向。1986年防衛施設庁長官。同年初代内閣安全保障室長になり、中曽根・竹下・宇野の3代の総理に仕えた。退官後は政界進出を勧められたが、危機管理をライフワークとしてフリーで活動した。

年譜をたどってみると、日本を震撼させたあらゆる事件と危機に立ち会っていることがわかる。佐々には「事件を呼ぶ男」「さすらいのガンマン」「ダーティー・ハリー」「縦社会を横に生きた男」などの異名がある。その仕事ぶりが見えるような異名だ。

生涯の師であった後藤田正晴には「後藤田五訓」というは官僚に対する訓示がある。どの仕事にも当てはまるものだ。

1.出身がどの省庁であれ、省益を忘れ、国益を想え 2.悪い、本当の事実を報告せよ 3.勇気を以って意見具申せよ 4.自分の仕事でないと言うなかれ 5.決定が下ったら従い、命令は実行せよ。

こういった訓示を実行したのが佐々である。その後藤田は佐々を「血刀下げて裸馬に乗って単身敵陣に斬り込んでいく奴」と評価している。

佐々の代表作『危機管理のノウハウ』三部作(PHP)は、危機管理のバイブルだ。1979年のPart1「信頼されるリーダーの条件」。1980年のPart2「80年代・闘うリーダーの条件」。1981年のPart3「危機に強いリーダーの条件」。事故やハイジャックなど危機にあう可能性がある航空会社にいた私ももちろん読んでいる。

そして佐々の講演会にもでかけて具体的で急所を突いた話に感銘を受けたことを思い出す。仙台時代には東北新幹線でおみかけし、挨拶し相手をしてもらったことがある。佐々と同じ成蹊高校出身の先輩として野田一夫先生のことが話題になった。

 佐々淳行は「危機管理」という日本語の創造者だ。湾岸危機の際にマスコミが常用し日本語になった。改めて『新・危機管理のノウハウ』という本を読んでみた。

 湾岸戦争では、本来「危急存亡」の問題を「損得勘定」ではかり「危機管理」ならぬ「管理危機」におちいったのではないかと述べている。危機管理(クライシス・マネジメント)における管理危機(マネジメント・クライシス)だ。自己管理できない組織は危機管理はできない。油断、驕り、沈黙、本末転倒、、、、によって危機が一層深まる。

佐々淳行には姉と兄がいる。どちらも有名な人だ。「名言との対話」で取り上げた参議院議員の紀平悌子は「父の残念と、母の無念、その二つを自らのものとして生きる」と述べている。

佐々家は戦国武将・佐々成正の末裔。父は吉野作造の弟子の佐々弘雄。リベラルの論客であったが九州帝大政治学教授の地位を「アカ教授」のレッテルを貼られて追放される。東京で浪人しながら文筆活動を行い、緒方竹虎朝日新聞に迎えられ、論説委員。戦後、参議院議員となり、緑風会を起ち上げる。51歳で夭折した。その父の残念を抱いて、もう一人の母・市川房江から「婦人運動の魂」を引き継いだ。また淳行の兄は朝日新聞幹部・佐々克明、この人のことは日本地域社会研究所の落合英秋社長からよく聞いている。「家風」というものの存在を感じる。

「政治家に徳目を求めるのは、八百屋をくれというのに等しい」と喝破した警視総監であった秦野章は、70年安保の学生運動を「いずれ消える泡のようなもの」と言い放ち、過激派から狙われる。護衛をつけようといわれたが、「駆逐艦駆逐艦を守るようなものだ」と言い、拒否した。当時の部下佐々淳行は、後年、「乱世の名総監。秦野総監でなければ、あの警察戦国時代の修羅場は乗り切れなかった。決断力と責任感あふれる人」と評している。後藤田正晴、秦野章という優れた内務官僚の「気風」を佐々淳行は引き継いでいるように感じる。

佐々淳行は、育った家庭の家風と、育ててもらった職場の気風の合作だとしておこう。

 佐々淳行の主張を聞こう。自己管理できないリーダーは組織管理ができない。よく管理された組織なしでは危機管理はできない。自己管理とは、まず日常の体の健康管理、そして平時は意図的悲観論者としてふるまい、非常時には意図的楽観者であろうとする自己統制できる心の健康管理のことだ。私たちも健全な肉体と健全な精神を維持する努力を続けたいものである。

 この本の中に「異常なし」という定期報告についての記述がある。自動的に報告が定点観測のようにあがってくる態勢が重要ということだ。部下や現場からの定期的な報告に接する中で危機の接近を感じ取りながら、危機管理が管理危機にならないように早め早めに手を打っていくこともリーダーの役割だ。この点は組織運営のキモでもある。

「図解塾」ーー本日のテーマは「カラオケ」と「妖怪」

「図解塾」は「日本文化」を大テーマとして実施している。本日のテーマは「カラオケ」と「妖怪」。

「オケ」とはオーケストラ、「カラ」は「空」であることからのネーミングである。世界を席巻している1兆円規模までになった「カラオケ」産業の功労者12人の名前が紹介された。

日本独特の「妖怪」はかわいく、親しみがあることが特徴である。柳田国男荒俣宏水木しげるなどの名前と、具体的な妖怪、そして今も奄美大島で道路標識に使われている「ケンムン」など話題は尽きることがなかった。

f:id:k-hisatune:20241010054141j:image塾生の学び。

  • 本日もありがとうございました。本題に入る前の様々な情報も大変ありがたいものだと思っています。特にMetamojiのお話はたいへん興味深くうかがいました。近い将来、すごいことになりそうで、大いに期待しています。谷村新司筒美京平のことについてもたいへん興味深く聞きました。やはり私にとっても好きなアーティスト、作曲家です。本題の「日本を知る105章」について、本日は「カラオケ」と「妖怪」でした。「カラオケ」については私が担当したのですが、竹内宏さんの文だけでは分からなかったカラオケの起源や、カラオケ文化をつくる基になった12人、あるいはカラオケが経済に与えている現状など調べて、我ながらたいへんよかったと思います。高度経済成長以降、カラオケの果たしてきた役割、特に地域のつながりの崩壊、孤独といった問題を緩和してきたことを改めて認識しました。歌が上手い下手に関係なく、発散でき、拍手してもらって自己実現ができるという役割は、これからも続くでしょう。 「妖怪」は荒俣宏さんの博物学者ならではの視点がたいへん興味深いものでした。妖怪は「部分」であるというのはとてもユニークでした。怖いお化けもいますけど、多くの妖怪は愛らしく、人間と共存して、かつ自動車など現代とも結びついていることを知り、面白く聞くことができました。今後も楽しみにしております。
  • 久恒先生、みなさま、本日は図解塾ありがとうございました。今日は、『日本を知る105章』の続きで、「32.カラオケ」と「33.妖怪」を文章と図解で読み解きました。
    「カラオケ」ではカラオケの起源や開発者の一覧などが図解にあって、ジュークボックスなど懐かしい機器もあり、カラオケの歴史がよくわかりました。また、カラオケは人と人の絆を深めるための効果的な装置の役割を果たしており、少子高齢化や孤独などによる地域のコミュニティーの崩壊の防止にも役立っているとのこと。またその経済規模も1兆円と、日本発のユニークな大きい産業であることが分かりました。 担当した「妖怪」では、妖怪が声や音声、身体の一部、道具・器など、全体ではなく部分として現れて、人を驚かしたりするのですが、人に危害を加えるというよりは、むしろ恐れながらも親しみを持って受け入れられているというところが面白いと思いました。奄美大島にはケンムンという妖怪がいる(と信じられている)ことで、島の中のあらそい事などが丸く治まっているという話もあり、妖怪の存在の意外な効果?も知ることができました。また、現代では妖怪がアニメやゲーム、ヒット商品、観光資源などにもなっていて大活躍。今後の活躍も大いに期待できそうで、面白いと思いました。
  • 本日もありがとうございました。「カラオケ」と「妖怪」でした。「カラオケ」は、随分前に書いてあることだけを図解した記憶があるので、今回のように、文章以外のことを調べて加えられていて、視点が少し違う図解をみるのは面白かったです。
    カラオケの誕生のきっかけとなった12名の方々の関係性を調べてみるのも面白そうですね。「妖怪」は、全体は見えずに「部分」で登場するもの。声・音声ででてくる。体の一部分だけ出てくる。秘められた部分を闇の部分を強調したもの。寄せ集め。という説明が、ゲゲゲの鬼太郎を思い出し、なるほどと、思いました。広島の三次もののけミュージアムは、楽しそうですね。行ってみたいです。 平安の頃の妖怪は鬼、天狗、狐、狸、怨霊。江戸時代に妖怪パンデミック。いろいろな妖怪が書かれ、奄美大島には「ケンムン注意」の標識があるとか、ポケモンもいわゆる妖怪! 日本人は面白くするのが上手ですね。次回からも面白いお題が進みます。今日は自分の番は回ってこないと思ってすみません、図解、仕上げます!
  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。今回は規定科目の『日本を知る105章』の「32_カラオケ」、「33_妖怪」の2つの図解が発表されました。
    「カラオケ」については、独自に調べた内容として、カラオケの起源や開発者、及び市場規模などが追加されていました。おかげで、本文に至る背景をしっかり捉えることができました。特に、カラオケの開発者が12人もいるとは思ってもみなかったですし、だからこそ外国人に広がるくらいクオリティの高いものとして今も進化し続け、また、地域コミュニティでも活用されてるんだなと思いました。そして、平和な社会であれば、音楽の広がりとともにこれからもカラオケは長く愛用されていくんだろうなと思いました。 「妖怪」については、図解がとても見やすく、特に目を引いたのは「鬼、天狗、狐・・・」から「水木しげるポケモン」へとつながっていることと、ケンムンの標識の写真でした。日本人と妖怪の関係が、怖いけれど惹かれるようなものという感じがしましたし、図解の解説をきいて、日本人にとって妖怪がどれだけ身近な存在なのかに気づけました。また西洋のモンスターと対比したら面白い図ができるのかなと思いました。
    次回も民俗性に気づくような日本文化について学びたいと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします。
  • 10月の図解塾に参加させていただき、ありがとうございました。途中からの参加でしたが、とても興味深い内容でした。今回は「日本を知る105章」の中から33番目の妖怪について、荒俣宏さんが書かれた記事をもとに図解で説明してくださり、非常に興味を引かれました。地元岡山には桃太郎伝説があり、鬼にまつわる語り継がれた話が存在するため、今回のお話は身近に感じました。妖怪は、鬼や天狗、狐、狸、怨霊とは異なり、声や音声、姿として現れることが特徴であることが理解できました。妖怪との問答や、身体の一部、道具、器としてあらわれるという説明を聞き、妖怪の全体像を把握でき、とても興味深かったです。漫画家の水木しげるさんが「ゲゲゲの鬼太郎」などで妖怪を描き、日本中にブームを起こしたことも思い出しました。現在では鳥取県の観光資源としても活用されており、妖怪の多様な可能性を感じました。妖怪について知ることで、人生が少し楽しくなるのではないかと思います。 次回も楽しみにしております。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーー
     

ーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」10月9日。輪島大士 「裸になったので、また裸で出直します  」

輪島 大士(わじま ひろし、1948年(昭和23年)1月11日 - 2018年(平成30年)10月8日)は、大相撲力士、第54代横綱全日本プロレス所属のプロレスラー、タレント。享年70。

石川県七尾市出身。日本大学相撲部で2年連続の学生横綱となる。大相撲の花籠部屋に所属。初土俵から1年で新入幕。「角界のプリンス」貴ノ花大関に同時昇進、「貴輪時代」到来かと言われたが、伸び悩んだ貴ノ花とは対照的に「蔵前の星」と呼ばれた輪島は大関4場所で横綱に昇進した。後に登場した「昭和の大横綱北の湖とのライバル対決の時代は「輪湖時代」と呼ばれた。この二人の千秋楽対決が大相撲人気を指せた。通算の成績は輪島の23勝21敗だった。立派な横綱を目指した北の湖は輪島を「壁のような存在」「あの人がいたから私は頑張れた」と言い、輪島は「永遠のライバル」と返した。

輪島はスーパースター、名横綱、天才力士、輪湖時代の主役、大卒初の横綱、黄金の左下手投げ、、、、と呼ばれたことでわかるように相撲界の至宝だった。通算で14回の優勝を果たしている。最後まで四股名は変えず、本名の輪島で通したのはは珍しい。

花籠親方の長女である輪島の妻の証言を記した『真・輪島伝  番外の人』は2019年7月8日発刊の衝撃の書だ。以下、その内容。

八百長相撲の清算に使った。相撲界での隠語で「チュウシャ」という。星の買取だけでなく、賞金も全て渡していたとの噂もあった。星の取引は負けて返すか、金で解決する。横綱は買取が常識だいわれている。遊びに忙しく稽古不足の輪島は1場所に何番か白星を買っていたとされている。

「裸になったので、また裸で出直します  」の「裸」発言は、引き継いだ花籠部屋が自身の不祥事などで消滅し、裸になって、相撲界からプロレス界に転出した時の言葉である。当時はこの転身を不思議に思っていたが、裸一貫での出直しだったのだ。輪島なりの決意の言葉だが、成功はしなかった。

「番外」とは、拉致外というか、話にならないという角界の隠語である。番付けの外だから、悪い意味で使われる。実績は番付のトップだが、実像は番外だったのである。  

ライバルの貴ノ花は、引退後は親方となって息子の貴乃花若乃花横綱にまで仕上げ、大相撲の絶頂期をつくった。もう一人のライバル・北の湖は相撲界で階段を登り日本相撲協会理事長をつとめるなどトップとして相撲界に大きな貢献をした。

一方、稽古嫌いで遊び好きだった輪島の人生は二人のライバルのみごとな出処進退のようにはいかなかったのである。

真・輪島伝 番外の人

真・輪島伝 番外の人

 

 

「福祉図解塾」の第2期がスタートーー今期のテーマは「こども白書」

「福祉図解塾」の第2期がスタート。10月から12月。継続4‐5名、新規2-3名か。今期のテーマは「こども白書」。

f:id:k-hisatune:20241009043159j:image

以下、塾生の学び。

  • 福祉図解塾 第2クールの1回目ありがとうございました。箇条書きの限界と問題点について、あらためて解説を頂いた。会議で自分の伝えたいイメージは箇条書きでは伝わらないことを実感したばかりであっただけに、心に響きました。箇条書き中心のレジュメなどの書類提出をうけると、その関係性や重要性の濃淡などが気になり、図式化してほしいと感じるのは、この講義の副作用だと思う(笑)また、もう一つ今日心に残ったキーワードとして、「これまでの『説得型行政』ではなく、これからは『納得型行政』へ」という言葉。日頃の会議の様子を思い出し『納得』してもらうためには『共感』してもらう必要があり、そのためには図解による視覚化は大いに役立つツールである。 清田さんはじめ、皆さんも忙しい中、この時間に集うために時間と戦い、勉強会に参加している姿に尊敬の念をいだくとともに、自分も様々な障壁に負けぬよう頑張って参加したいと思います。子ども白書の図解化大変そうですが、楽しみです。
  • 今夜もありがとうございました。初めてうかがうお話や図も多く、改めて図解の力を知ることができました。伝える、伝わる、理解することに役立つ図解。自治体職員全員の仕事の図解、行政改革と図解、図解はパワフルだと思いました。継続参加の皆様、継続してくださり嬉しいです。そして、新しい方々にも聞いてもらえてよかったです。参加をご検討ください。 この週末は鹿児島にいて、幕末記念館や知覧特攻平和会館を見に行きました。久恒先生のように記録に残したいと思いましたが、資料がたくさんありすぎて、まとめるのはなかなかうまくいかず。今期はいろいろなものの全体をとらえてもっとわかりやすく図解化していきたいです。
  • 今日は福祉図解塾第二クールの初回だった。私は、「文章を書ける人が出世する行政職」という言葉がとても腑に落ちた。実際のソーシャルワークの展開過程や、面接技術の向上からなる評価と出世との乖離や、評価のされにくさに葛藤を抱いている。振り返れば、こどもや保護者と上手くいったと思うケースほどきれいな文章が残っていないし、綺麗な記録ほど、根拠を残してなんとか終結にしたいケースであり、上手くいっていないケースだったのかもしれないということに気付かされた。また、「箇条書きが思考を停止させる」ということも腑に落ちた。図は全体や将来の見通し、ビジョンを表し、文章はその一部であることも分かった。テストの前に必死に覚えたあの単語たちが身についていないのはそういうことかと気づいた。知識が身につき、用いることが出来るよう図解を身につけたい。そして、皆様と共に学び、繋がれることに感謝して、福祉の現場を良くしたい。そう思えた時間となった。
  • 本日もありがとうございました!1期で、自分の頭の中が「箇条書き」だということに気付けて良かったと思っています(笑)今日のお話を聴いていて、この前まで「箇条書きで整理されたと思っていた」自分が笑えます。まだまだ頭の中は縦割りで関係性がつながっていないところがあるので、図解を考えることで頭の中も箇条書きから図解へと変化していけたら・・と思います。よろしくお願いいたします!
  • 本日は貴重なお時間となりました。参加できてよかったです。行政機関の仕事の仕方には、課題は多く、箇条書きで整理しているつもりになることや、説得にかかっていることなど、自身の職場、連携している市町、そして教育の中でも日常的に繰り広げられているなと改めて感じました。実際現場で説明している多くは言語のみで進めていたり、その場はわかったように終わることも、納得が出来ていないため拗らせていることはとても多く、また図解を作ることで自分自身の理解に繋がると思いました。 まずは自分の仕事を図解に起こしてみるところから見つめ直そうと思いました。日本の文化など、福祉から少し離れた分野で頭を整理していくこともいいなと感じたので継続参加にはちょっと調整を要しそうでしたが、明日からの業務に早速エッセンスを取り入れられたらと思います。本日はありがとうございました!
  • 本日は参加させていただき、ありがとうございました。同じ職場の先輩である安島さんから「ホワイトボードを書くのに勉強になる面白そうな研修があるよ」とお声掛けいただき、参加させていただきました。 今日学ばせていただいた感想を図解で示した方がよいのでは…と思いながら、文字を起こしております。特に印象に残った内容は、以下の3点です。①図は全体、文章は部分!②図を書く人が進化すれば図は進歩する!③ホワイトボードを書く上で大切なのは3つ(キーワード、丸、矢印)!今日の学びから、これまで図解の重要性を深く認識せずに働いてきたことを自覚しました。ですので、今日の学びを軸に、まずは自分が全体像を捉え、カンファレンスに出席するみなさんにも分かりやすく伝えられるよう訓練して参ります。本日は、ありがとうございました

ーーーーーーーーーー

福祉図解塾

要点

久恒氏は図解コミュニケーションの重要性と効果を強調し、自身の経験や知識管理システムを通じてその有効性を示す。図解技術を用いて複雑な問題解決や業務効率化が可能であり、特に福祉分野や行政改革での活用可能性が高いことを説明する。参加者たちは図解の利点について議論し、実践的な応用を検討する。

次のステップ

全員: フェイスブックの「福祉図解塾」グループに参加し、メールアドレスを記入する。

全員: 10月9日午前5時までにフェイスブックグループに今日の学びの感想を投稿する。 安島さん・吉岡さん: フェイスブックのプライバシー設定を高くして参加する。

juri: 新規参加者の感想をメールで受け取り、グループ参加の手続きを行う。

継続参加者: 次回までに自分の図解の進化過程を示す資料を準備する。

juri: 子ども白書の図式化プロジェクトの具体的な進め方を検討し、提案する。

全員: 10月22日の次回セッションに参加する準備をする。

久恒: juri と子ども白書の図式化プロジェクトの進め方について相談する。

全員: 希望者は10月9日の図解塾、10月16日の幸福塾にも参加を検討する。

juri: 録画を希望する参加者に録画を送付する。

久恒: 次回セッションで新規参加者の自己紹介の時間を設ける。

全員: 3ヶ月間で子ども白書の図式化プロジェクトを完成させることを目指す。

ーーーーーーーーーーーーーーー

要約

図解コミュニケーションの効果と継続受講の重要性 久恒氏が図解コミュニケーションの講座について説明し、その重要性と効果を強調する。juriとNobuta氏が継続受講の理由を共有し、図解の力を福祉分野や仕事に活かしたいと述べる。久恒氏は自身の経験から、図解を用いて複雑な問題を解決し、大きな議論を促進できることを説明する。

福祉図解塾の効果に関する議論

久恒氏が主催する福祉図解塾の効果について、参加者の松本龍二氏が体験を共有する。松本氏は、図解を用いることで職場でのコミュニケーション改善、研修の効果的な実施、問題解決能力の向上を実感したと報告する。久恒氏は、図解の活用がプレゼンテーション力の強化、リーダーシップの向上、視野の拡大につながると説明し、さらに行政における図解の有効性についても言及する。

キャリアと知識管理システムの概要

久恒氏は自身のキャリアと知識管理システムについて説明する。彼は図解技術を用いて、自身の経歴、研究、社会貢献活動を体系的に整理し、それをSNSと連携させている。久恒氏は、この方法により情報を効率的に管理し、必要に応じて迅速に取り出せることを強調する。また、長年にわたる勉強会の運営経験や、様々な分野の専門家との交流が自身の知識拡大に貢献したことを述べる。

図解の重要性と若い社会人の課題

久恒は30代の社会人を対象としたアンケート結果について説明し、大学で学んだ能力と現在重要な能力の差異を指摘する。特に自己表現能力の欠如と幅広い教養の不足が若い社会人の課題であると述べ、これらの問題を解決するために図解の重要性を強調する。久恒は、図解を通じて自己表現能力や教養を身につけることができ、それが長期的に自分の意見や見方を形成する上で重要だと主張する。

図解思考の重要性と効果

久恒氏は、図を使って考えることの重要性について説明し、文章よりも図の方が全体像を把握しやすいと強調する。彼は、ホワイトボードに書く際はキーワードと関係性を重視し、細かい情報は避けるべきだと助言する。また、久恒氏は自身の著書の成功例を挙げ、図解思考の有効性を示し、図を描く能力が向上すると図自体も進化すると述べる。

図解の有効性と文書作成の問題点

久恒氏は、文章、箇条書き、図解の比較を通じて、図解の有効性を説明する。図解は深い質問や新しい企画を生み出し、理解と疑問を同時に促進すると主張する。また、行政や企業での文書作成の問題点や、児童福祉分野での図解の可能性についても言及する。

大崎市行政改革と業務効率化

久恒氏は、宮城県大崎市での市町村合併後の行政改革について説明し、職員の業務図解作成による組織の効率化について述べる。特に、社会福祉課の業務内容や子育て支援、高齢者福祉などの分野での図解例を紹介し、同じ仕事でも職員によって認識が異なることを指摘する。久恒氏は、この図解作業により、業務の重複や抜け落ちが明確になり、約30%の業務削減が可能になると主張する。

図解の利点と使用

久恒さんはフェイスブックグループ「福祉図解塾」への参加を促し、参加者に感想を書くよう依頼する。参加者たちは図解の利点について議論し、箇条書きと比較して図解の方が理解しやすく、効率的であると意見を共有する。信田さんは最近の会議で図解を使用したいと感じるようになったことを報告し、以前作成した図解資料について紹介しようとする。

--------------

MetaMojioの山田さんから電話。開発状況の報告と課題、今後の見通しなどを説明してもらった。

孫正義「AGI(人間と同等)は2‐3年。ASIは(人間の1万倍)は10年。

ーーーーーーーーーーーーー

Amazon | 谷村新司 ベスト SBB-305 | 谷村新司 | 歌謡曲 | ミュージック

「名言との対話」10月8日。谷村新司「我も行く 心の命ずるままに 我も行く さらば昴よ」

谷村 新司(たにむら しんじ、1948年昭和23年〉12月11日 - 2023年令和5年〉10月8日)は、日本シンガーソングライター作詞家作曲家。享年74。

大阪市出身。1971年に堀内孝雄とアリスを結成する。翌年矢沢透をくわえ,「冬の稲妻」などで人気をえる。1978年、山口百恵の「いい日旅立ち」を作詞、作曲。1982年からソロ活動をはじめ,「昴(すばる)」「群青」などのヒットをとばす。

2004年、中国の上海音楽学院の教授に就任。2013年、年震災孤児支援曲「風の子守歌」の作詞などで毎日芸術賞。同年「谷村新司40周年特別記念コンサート〜40Vibration〜」他で芸術選奨文部科学大臣賞。

中国東北部吉林大学で客員教授をしていたとき、千昌夫の「北国の春」は中国人は誰もが歌えて驚いたことがある。そしてもう一つは谷村新司「昴」もよく知られていた。駐日大使の呉江浩は、日本語ができる人はほぼ全員が歌えるし、この歌の中国語版は誰でも歌えると言い、この歌の絶大な影響力を語っている。また、2007年に温家宝総理は来日時に安倍総理主催の歓迎会で「昴」を歌っている。この歌は「北国の春」と同じく、台湾、韓国、タイアジア諸国で歌われている。

谷村新司というシンガーソングライターは、歌詞とメロディが同時に生まれるという。こういうタイプは珍しい。

2023年に谷村が亡くなった時、多数の追悼番組が組まれた。そとき、改めて歌を聴いて痺れたことを思いだした。

  • サライ」:「故郷を捨てた」「汽車の窓辺」「恋をして恋に破れ」「動き始めた朝の街角」「サクラ吹雪のサライの空へ」「迷いながらいつか帰る愛の故郷」、、、
  • 「昴」:「荒野に向かう道」「砕け散る宿命の星たち」「青白き頬」「夢を追い続けるなり」「さんざめく名も無き星たち」「鮮やかにその身を終われよ」「心の命ずるままに」「我は行くさらば昴よ」、、、

私は「サライ」の気持ちで故郷を出て、今は「昴」の心境だ。荒野に向かう道を行こうとする「この身を照らせよ」と言いたくなる。この二つの歌はカラオケで歌えるようにしておきたい。

人生をどうとらえるか。私は一個の作品としてみている。生きている間は、誕生から死去するまでの生涯を意味のあるものにしようとする過程にある。この作品は最後までその姿はおぼろであって明確な像は結ばない。「棺を蓋いて事定まる」のだ。「昴」を応援歌として、夢を追いかけて一人荒野を歩んでいこう。

 

 
すべてのリアクション:
信田 力哉