音楽に哲学を

~日本のみならず国境を超えた音楽哲学がそこに~

【考察】Ado/初夏 夏と自分が嫌いで作曲した歌詞の言葉の意味を哲学的に徹底解説

諸君、ごきげんよう

 

我は音楽を哲学的に考え思考する

メロディウスである。

 

今回は

Ado

初夏

について哲学的に考察していく。

Ado「初夏」MV

www.youtube.com

初夏の歌詞

死にたい死にたいって
縋ってたって
何にも意味ないな
僕は知らないんだ
形あるもの全てに
終わりが来ること。
最底、酩酊で、
ありのままの、
無茶苦茶な歌詞では
救えない命が
いくつもある
傷つけて、傷つけて
報われようとしているのか?
「幸せになれる!」とか?笑
初夏の風に
またや酔わされて
自惚れた
自我を歌ってしまう
正しい答えがわからない、
だから教えて
教えて!
好きだった言葉は
壊されてしまいました
いつか報われると
信じていたのに
積み上げたこの声は
この世界の不正解だ
「何も知らないその顔が嫌い。」
何十回何百何千回だって
死にたいんだ
僕は僕は、
僕は馬鹿だった
水溜る箱庭
傷口を塞ぐために 
また自慰を繰り返す
呆れた横顔
夜明け前の夢より
綺麗な言葉を並べても
美しく枯れる都会の花火
そこに僕はいない後の祭
言えなかった
言葉が溢れ出して
止まらないな
望みを叶えても
変わりゃしなくて
いつの日にか
交わした約束は
忘れられて
引き止められず、
ここには1人
何千回何万何億回だって
殺してくれないか

 

序論 絶望の吟遊詩人と歌の哲学

この楽曲「初夏」は、

絶望を通して人間の根源的な

苦悩に迫ろうとする現代の哲学的詩といえよう。

 

歌詞に漂う自己否定、

死の誘惑、言葉の崩壊は、

人生の無意味さを嘆く吟遊詩人のごとき声である。

 

これを哲学的視点から読み解くことは、

ニーチェ「神は死んだ」という宣言から

始まった20世紀の実存主義の問いを再考する作業でもある。

 

第一章 存在の無意味さとニヒリズムの影

「死にたい」と繰り返し訴える

言葉に見られるのは、

人生の根源的な無意味さに直面した者の叫びである。

 

ニーチェが述べたように、

虚無主義とは、存在の意味が失われた状態」だ。

 

この歌詞はまさに「なぜ生きるのか」

という問いに対する答えを

見出せない主体の心情を反映している。

 

第二章 「形あるもの全てに終わりが来る」無常の哲学

仏教思想における諸行無常の教えが、

この歌詞の「形あるもの全てに終わりが来る」

というフレーズと共鳴する。

 

ここには、存在はすべて変化し、

いずれ消滅するという現実が、

若者の感受性を通して語られている。

 

ヘラクレイトス「万物流転」

思想とも重なるこの認識は、

人間が無常を受け入れることの難しさを物語る。

 

第三章 自我と酩酊:自己欺瞞と認識の迷宮

「自惚れた自我」という表現に現れるのは、

アルコールや幻想に逃避する

自我のあり方だ。

 

サルトル自己欺瞞によれば、

人間は自由を恐れ、

虚偽の自己像に安住することが多い。

 

この歌詞の主人公もまた、

酩酊状態の中で現実から目を逸らし、自分を偽る。

 

第四章 幸せへの疑念:功利主義存在論の相克

「幸せになれるとか?」という

皮肉な問いは、

幸福とは何かという哲学的な問題を提起する。

 

ベンサム功利主義「最大多数の最大幸福」

追求する一方で、

存在主義は幸福の定義を拒む。

 

この主人公は、

功利的幸福の空虚さを本能的に察知している。

 

第五章 傷つけることによる救済のパラドックス

「傷つけて報われようとしているのか?」

という問いは、

被害と加害の関係に内在する

パラドックスを露呈する。

 

レヴィナス倫理学において、

他者への暴力は絶えず

倫理的責任の欠如を示すが、

この歌詞では暴力が自己救済の手段として描かれている。

 

第六章 言葉の崩壊:「信じていたもの」の瓦解と絶望

「好きだった言葉は壊されてしまいました」

というフレーズは、

言葉がもはや救済の力を持たない状況を示す。

 

ここに見られるのは、

デリダ脱構築の思想だ。

 

信じていた言葉が崩壊することで、

主体は自己の存在基盤を失い、無力感に支配される。

 

第七章「不正解の世界」:カミュとシジフォスの神話

「積み上げたこの声はこの世界の不正解だ」

という表現は、

カミュ『シジフォスの神話』を想起させる。

 

どれほど努力しても報われない

世界の不条理の中で、

なおも人間は生き続ける。

 

「正解」がない世界を生き抜くとは、

カミュが説くように、

「この不条理に反逆する」ことである。

 

第八章 自己否定と自慰のループ:欲望と救いの不在

「傷口を塞ぐために

また自慰を繰り返す」という言葉は、

自己完結的な快楽に依存する現代人の苦悩を象徴する。

 

フロイト精神分析において、

自己満足は一時的な快楽であるが、

根本的な救いをもたらさない。

 

第九章 終わりなき願望と死への衝動:ハイデガーの「死への存在」

「何千回何万何億回だって

殺してくれないか」という叫びは、

ハイデガー「死への存在」という概念に通じる。

 

人間は死を意識することで

初めて本当の自己と向き合うが、

この歌詞では死への願望がむしろ絶望を深める。

 

結論 虚無の美学と未来への問いかけ

「初夏」の歌詞は、

絶望と虚無を美しく描き出すことで、

現代社会の中で忘れ去られた

「生きる意味」を問い直す場を提供する。

 

ニーチェの言葉を借りれば、

「深淵を覗く者は、深淵からもまた覗かれる」のだ。

 

この歌詞の中に潜む深淵と向き合うことで、

私たちは未来への問いかけを始めなければならない。

 

※すべてはメロディウスの趣味内での解釈となっておりますのでご了承ください。