文体の舵を取った⑥

第6章「老女」

 

(1) 現在ーわたし

「おばあちゃん、あたしこれ無理だあ」

 アンジェリークがテーブルの上に針を投げ捨て、机に突っ伏す。

「そんなにひどい?」

 モノクルをかざしてアンジェリークの編み目を検分していると、娘たちのひとりが笑いを必死に堪えながらそう訊いてくる。

「誰だって最初はこんなものさね」

 そうは言うものの、本当は見たことがないほどひどい。アンジェリークは自分の孫とは思えないほど不器用だ。不器用だが、不器用で誰が構うものだろうか。レース編みはもうほとんど機械の仕事になってしまった。

 アンジェリークがひらく似非サロンに集まった娘たちはみな、自分の思う手芸をする。編み物や刺繍ではない。アンジェリークは小説家になるのだと息巻いているし、他の娘たちもジュエリーやら油彩画やら、なにかしらの野心を持っている様子だった。話を聞いていると、昼間はみな私の知らない仕事をしているらしい。電話の交換手、百貨店の店員、タイピスト。ひとりなど、自動車の修理工をしている。

 娘たちが手芸に没頭するのを感じながら、編み目を数える。いち、に、さん、ひとつ飛ばして、よん、ご……。だんだん目が霞んでくる。手は覚えていても、目がどうしても耐えられない。

 わたしはO夫人のサロンで立ち尽くしている。

 詩人が意味の分からない詩を読み上げては喝采を受け、楽師たちはぼんやりとした音楽を弾いて喝采を受けている。何もわからない。奉公先の娘に借りた夜会用のドレスを汚さないかとそればかりが気がかりで、居心地の悪さが増していく。

 細長い茶器を片手にぼんやり座っていると、目の前に何かが書かれたノートが差し出される。顔を上げると、男がひざまずいている。

 羞恥に顔が赤らむのを感じる。わたしは読み書きを知らない。硬直していると、横から青白い手が伸びて、そのノートをやさしく取り上げる。

 悪筆ね。何が書いてあるの?

 男の鼻の穴がかすかに膨らみ、ノートを乱暴にひったくる。そこで我に返ったのか、うろたえるような素振りをするが、結局は立ち去ってしまう。

 何を言うべきなのかも分からないまま、わたしは青白い手の持ち主に向き直る。女がパイプを置いて、こちらに微笑み掛けてくる。

「おばあちゃん、起きてる?」

 アンジェリークの声が聞こえる。

 私は首を振る。このところ、レースを編んでいるとあのサロンのことを頻繁に思い出す。

 ゆっくりと編み目を数え直す。多くも少なくもない。ぴったりだ。わたしは続きから編みはじめる。けれど、集中できない。繰り返し数えるうちに、またぼんやりしてくる。

 あなた、そのショール、とても素敵ね。どこの店に作らせたの?

 紫煙の向こうから女がそう尋ねる。何を言ったらいいかわからなくて首を横に振ると、女は、秘密なのね、と軽やかな笑いを漏らす。

「またそのショール?」

 アンジェリークがわたしの手元を覗き込む。もっと色々作ったらいいのに、と娘たちが口々に言う。

「いいんだよ、わたしはこれしか作れないんだから」

「もっと色々作ったらいいのに」

「そんなことより今日はもうお開きになさい」

 娘たちが歓声を上げる。手に持っていたものをテーブルに置いて立ち上がると、順番にわたしにキスをして、キッチンに向かう。

 ひとり取り残されたわたしは、ショールのことを夢想する。

 どこかの店の名前でも教えてやったら愉快だったかもしれないのにね、と意地の悪い老婆になったわたしは考えはじめる。あのブルジョワ女、店に行って、あのショールが存在しないことを知ったら、どう思ったろうね。それとも、わたしが編んだものだと言ったらあの女、どんな顔をしたろうか。

 同じものを編んであげましょうか、と言ったら受け取ってくれたろうか。

 娘たちがわたしを呼ぶ。わたしは編みかけのレースをかごに入れて、立ち上がる。

 

(2)現在形(現在)・過去形(回想)・三人称「彼女」

 編んでいるとは思っていない。数を数えている。手繰る、手繰る、手繰る、ひとつ網目を飛ばして、また手繰る。かぎ針の先を動かすのは簡単で、編み目を数えるほうが難しい。孫娘にもそう教えるのだけれど、信じてもらえない。おばあちゃん、あたしこれ無理だあ、とのたまう孫娘の手元を見れば、確かに小さなレースは無惨に撚れて、ひと目見るだけで編み目の大きさが全く一定でないのがわかる。何回かやったらすぐにできるよ、と言っても孫娘はそれ以来編み物には見向きもしなかった。

 身体の弱い孫娘だが、意志は強い。本をよく読み、自分でもものを書いている。孫娘がサロンを開くと言って集まってきた娘たちもそうだ。新しい仕事をしているし、もっと新しい仕事をしたいと言う。あんたたち、踊らされていないかい、と思う。綺麗な絵に載せて配られる「求人」がよかった試しがあったかね。でも、何も言わない。サロンの間じゅう、何も言わずに編み続ける。

 きちんとしたサロンに行ったことがあった。奉公をしていた家の娘が招待を貰ったが、気まぐれを起こして譲ってきたのだ。よくわからない世界だった。詩人が意味の分からない詩を読み上げては喝采を受け、楽師たちはぼんやりとした音楽を弾いては喝采を受けている。自分と同じかそれ以上に金のない、夢しか持っていない男たち。中国の器を片手にぼんやり座っていると、何かが書かれたノートが差し出された。顔を上げると、さっき詩を朗読していた男がひざまずいていた。彼女は眉をひそめた。文字を読めなかったのだ。困惑していると、横から青白い手が伸びて、そのノートを掴んだ。

 ひどい悪筆ね。何が書いてあるの?

 男の鼻の穴がかすかに膨らむのが見えた。ノートを乱暴な手つきでひったくってから、彼女のほうをかすかに狼狽したような目で見て、立ち去った。青白い手の持ち主のほうを振り返った。女だった。葉巻を置いて、こちらに微笑み掛けてくる。

 おばあちゃん。そう孫娘から声を掛けられて、意識を引き戻される。ゆっくりと編み目を数え直す。よかった。ひとつも飛ばしていない。続きからまた、編み目を数えはじめる。けれど、集中できない。数が数えられなくなる。

 女は紫煙の中からこう言った。――あなた、そのショール、とても素敵ね。どこの店に作らせたの?

 彼女はゆっくりと首を横に振り、そのままサロンを辞去した。助け舟を出してくれたのは何を隠そうそのサロンの女主人だったのだが、そんなことは彼女がついぞ知ることのないことだった。

 どこかの店の名前でも教えてやったら愉快だったかもしれない。店に行って、存在しないことを知ったら、どう思っただろう。わたしが編んだものだと言ったらあの女はどんな顔をしただろうか。驚いただろうか。それとも蔑みや困惑。

 それとも、同じものを編んであげましょうか、と言ったら。

 そろそろお開きになさい、と言うと、娘たちは歓声を上げ、彼女の頬にかわるがわるキスをする。娘たちは夢を追うよりも騒ぐほうが好きそうに見える。彼女が焼いて用意するパイや焼き菓子も好きだと言ってくれる。

 でも、娘たちは彼女の編むショールだけには不平を言う。だっていつも同じなんだもの、ということらしい。彼女はゆっくりと首を横に振る。

 いいんだよ、わたしは。これが好きなんだから。

 

(弁解)

ギャルの室内楽で演奏したエルサ・バルレーヌ《貴婦人の手芸》に寄せて書きました。