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ヘイト・スピーチとは何か (岩波新書) 新書 – 2013/12/21
師岡 康子
(著)
差別、侮辱、排除の言葉の暴力を、路上やネット上で撒き散らすヘイト・スピーチは、表現の自由として守られるべきなのか。深刻な被害は、既存の法や対抗の言説では防げない。悪質な差別の法規制は、すでに国際社会の共通了解だ。各国の経験を振り返り、共に生きる社会の構築へ向かうために。
- 本の長さ240ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2013/12/21
- 寸法11.5 x 1 x 17.5 cm
- ISBN-104004314607
- ISBN-13978-4004314608
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商品の説明
著者について
師岡康子(もろおか・やすこ)
2003~07年日本弁護士連合会人権擁護委員会委嘱委員、東京弁護士会外国人の人権に関する委員会委員、枝川朝鮮学校取壊し裁判弁護団。07年ニューヨーク大学ロースクール、08年英キール大学大学院、10年キングズカレッジ・ロースクール留学。大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員研究員、国際人権法学会所属。外国人人権法連絡会運営委員。
共著書に『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』(前田朗編著、三一書房)、『今、問われる日本の人種差別撤廃 国連審査とNGOの取り組み』(反差別国際運動日本委員会編集・発行)、『外国人・民族的マイノリティ人権白書2010』(外国人人権法連絡会編、明石書店)ほか。
2003~07年日本弁護士連合会人権擁護委員会委嘱委員、東京弁護士会外国人の人権に関する委員会委員、枝川朝鮮学校取壊し裁判弁護団。07年ニューヨーク大学ロースクール、08年英キール大学大学院、10年キングズカレッジ・ロースクール留学。大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員研究員、国際人権法学会所属。外国人人権法連絡会運営委員。
共著書に『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』(前田朗編著、三一書房)、『今、問われる日本の人種差別撤廃 国連審査とNGOの取り組み』(反差別国際運動日本委員会編集・発行)、『外国人・民族的マイノリティ人権白書2010』(外国人人権法連絡会編、明石書店)ほか。
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2013/12/21)
- 発売日 : 2013/12/21
- 言語 : 日本語
- 新書 : 240ページ
- ISBN-10 : 4004314607
- ISBN-13 : 978-4004314608
- 寸法 : 11.5 x 1 x 17.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 254,090位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 45位在日外国人・残留孤児
- - 196位イデオロギー
- - 1,004位社会病理
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年2月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本社会に蔓延するヘイトに対する法規制を積極的に導入せよと主張するものです。
とりわけ在日コリアンを標的とするヘイトの現状、ヘイトを問題視する様々な取り組み、
そもそも「ヘイト」とは何か、国際的な合意が奈辺にあるか、諸外国の取り組み、当の
問題に対する日本国内の言論状況など、非常に広汎にわたるトピックを要領よくまとめ
ており、非常に勉強になります。
しかしながら、表現の自由に立脚する慎重論の受け止め方が十分でない、どういう
立脚点から差別に反対するかという点が不明瞭であったりなど、いくつか疑問点もなし
とは言えませんが、新書であることからも、問題の紹介としてはお勧めできます。
さらに、本書で【論じられていないこと】こそ、今後、慎重に検討されねばならないという
意味でも、十分な役割を果たしていると思えます。
本書で論じられてないことは、(1)どうして法規制なのかという説得(他の抑制手段との得
失比較論)、(2)諸外国の規制導入にあたってなされたであろう議論の紹介(結果としての
現にある規制の紹介ではなく、その規制に至るまでの様々な立場相互の論争の紹介。諸
外国の規制は、さまざまに変遷しているので、そうした規制の再検討や運用上、提起された
であろう議論をこそ参照すべきです。)、(3)規制の効果(諸外国の規制は、実際に有効で
あるのかどうか)・・・といったものです。
本書の記述を通して、基礎知識を得た上で、より建設的に、そしてより公正な社会を
めざすために、私たちは何を吟味しなければいけないのかが明らかになると思えます。
なお、新書であり、問題の所在を知らしめることに注力した結果、やむを得ないものかとも
思いますが、本書の記述は「丁寧」ではありません。
とりわけ在日コリアンを標的とするヘイトの現状、ヘイトを問題視する様々な取り組み、
そもそも「ヘイト」とは何か、国際的な合意が奈辺にあるか、諸外国の取り組み、当の
問題に対する日本国内の言論状況など、非常に広汎にわたるトピックを要領よくまとめ
ており、非常に勉強になります。
しかしながら、表現の自由に立脚する慎重論の受け止め方が十分でない、どういう
立脚点から差別に反対するかという点が不明瞭であったりなど、いくつか疑問点もなし
とは言えませんが、新書であることからも、問題の紹介としてはお勧めできます。
さらに、本書で【論じられていないこと】こそ、今後、慎重に検討されねばならないという
意味でも、十分な役割を果たしていると思えます。
本書で論じられてないことは、(1)どうして法規制なのかという説得(他の抑制手段との得
失比較論)、(2)諸外国の規制導入にあたってなされたであろう議論の紹介(結果としての
現にある規制の紹介ではなく、その規制に至るまでの様々な立場相互の論争の紹介。諸
外国の規制は、さまざまに変遷しているので、そうした規制の再検討や運用上、提起された
であろう議論をこそ参照すべきです。)、(3)規制の効果(諸外国の規制は、実際に有効で
あるのかどうか)・・・といったものです。
本書の記述を通して、基礎知識を得た上で、より建設的に、そしてより公正な社会を
めざすために、私たちは何を吟味しなければいけないのかが明らかになると思えます。
なお、新書であり、問題の所在を知らしめることに注力した結果、やむを得ないものかとも
思いますが、本書の記述は「丁寧」ではありません。
2014年3月22日に日本でレビュー済み
この本の、私にとって、良い点は、国連が第二次世界大戦後に形成した「国際人権基準」を紹介していることである。そして、ヘイト・スピーチを字句通りの「憎悪表現」という感情一般として解釈すべきではなく、人種、民族、性、或は障害者などの少数者(マイノリティ)に対する差別に基づく攻撃を指す、との解釈で論じていることである。また、世界の中で、日本がこの「国際人権基準」に対してどのような状況にあるかも説明されていて興味深い。残念ながら、日本は、北朝鮮の拉致被害者を取り戻そうと国際社会に訴えている割には、この点に於いてはあまりいい位置には居ない。
著者の言いたいことはこうだ。日本においては、近年の在日朝鮮人へのヘイト・スピーチや、昔から部落民と呼ばれ、賤民と虐げられてきた人びとや、アイヌの人達への差別があった、しかし、日本にはそういう差別に基づくヘイト・スピーチを取り締まる法律が無い、政府の言い分は、言論の自由に基づき、言論による攻撃は取り締まるのが難しいためだと言う、一方で、セクシャル・ハラスメントに対する法による取り締まりはあるのだから、全ての言論を自由という名の下に野放しにしているわけではなく、要は、国がこういう人種差別的な行為を取り締まる気があるかないかなのだ、と著者は糾弾するのだった。
一方で、この本の悪い点は、外国人に対する批判や法的な対応をすべて差別、として見ている点である。竹島に上陸した韓国大統領に抗議して日本政府が大使を韓国から引き上げたことを、「喧嘩腰の態度を示した」とか、「河野談話の見直しや靖国神社に祀られた英霊の賛美など、反中国・韓国・朝鮮の姿勢をあらわにした」、など、その他にも幾つか、およそ表面だけ見てその奥にある物を見ようとしない短絡的な態度には、辟易する場面もある。
さはさりながらである、ヘイト・スピーチを端とするある種の日本人の心の奥にある外国人嫌い(xenophobia)や、拝外性について警鐘を鳴らしているので、時には気分の悪くなる部分もあるかもしれないが、我慢して一読した方がよいと思うのである。
著者の言いたいことはこうだ。日本においては、近年の在日朝鮮人へのヘイト・スピーチや、昔から部落民と呼ばれ、賤民と虐げられてきた人びとや、アイヌの人達への差別があった、しかし、日本にはそういう差別に基づくヘイト・スピーチを取り締まる法律が無い、政府の言い分は、言論の自由に基づき、言論による攻撃は取り締まるのが難しいためだと言う、一方で、セクシャル・ハラスメントに対する法による取り締まりはあるのだから、全ての言論を自由という名の下に野放しにしているわけではなく、要は、国がこういう人種差別的な行為を取り締まる気があるかないかなのだ、と著者は糾弾するのだった。
一方で、この本の悪い点は、外国人に対する批判や法的な対応をすべて差別、として見ている点である。竹島に上陸した韓国大統領に抗議して日本政府が大使を韓国から引き上げたことを、「喧嘩腰の態度を示した」とか、「河野談話の見直しや靖国神社に祀られた英霊の賛美など、反中国・韓国・朝鮮の姿勢をあらわにした」、など、その他にも幾つか、およそ表面だけ見てその奥にある物を見ようとしない短絡的な態度には、辟易する場面もある。
さはさりながらである、ヘイト・スピーチを端とするある種の日本人の心の奥にある外国人嫌い(xenophobia)や、拝外性について警鐘を鳴らしているので、時には気分の悪くなる部分もあるかもしれないが、我慢して一読した方がよいと思うのである。
2015年7月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「朝鮮人は××!」「従軍慰安婦は××!」聞くに耐えないことばをがなり立てながら進行する集団に遭遇したことがある。心が鉛のように重くなり、血の気がひき、足がすくんだ。この社会でマジョリティの立場にある私さえそんな恐怖を感じる。攻撃される当のマイノリティに属する人にとってはどうなのだろう…。しかし、差別と侮辱、排除の言動も、「表現の自由」として規制すべきでないのだろうか。
表現の自由は、日本国憲法の保障する様々な自由の中で最も重要な権利として位置づけられている。政府のみならず、憲法研究者の多数派が、ヘイトスピーチに関する法規制に対して慎重論であるのは、この表現の自由の重要性を強調するからだ。師岡も、当然、世界共通の認識でもある、表現の自由の自己実現と自己統治の意義を重視する。その上で、慎重論の理由ひとつひとつを検討し、反論していく。
そもそも、自己実現からも自己統治からも、ヘイトスピーチは正当化されない。規制による萎縮効果については、脅迫、名誉毀損、侮辱などについては萎縮効果の危険性も承知の上で刑事規制されているが、これは、法益侵害の観点から規制が必要だからである。ヘイトスピーチも同様に深刻な法益侵害があるのだから、萎縮効果を最小限にする工夫をしつつ、規制する方策がとられるべきである。現に、各国の規制や国際人権基準においても様々な明確化の努力がなされてきた。
次に、ヘイトスピーチは良質の議論によって駆逐されるという主張は、ナチズムがヘイトスピーチを行い、反対勢力を駆逐して権力をとった歴史に照らし、説得力はない。そもそも不平等な社会において、思想の自由市場が存在しうるのか。この原理的な問題はおいても、マイノリティの場合、数も少なく、差別により社会的に不利な立場におかれて、発言する機会も少なく、力も抑えられている。対等な人間とはみなされず、存在自体認めないヘイトスピーチに、深く傷つき、心身も蝕まれる。その苦痛を乗り越えて、議論に参加することは、容易ではない。対抗言論を主張するマジョリティは、マイノリティの苦痛を認識出来ているとは言い難い。
そして、法規制より教育・啓蒙だという考えについては、法規制と教育・啓蒙は矛盾しないとする。
などなど、「憲法の偉い先生が規制に慎重論なのだから、規制は難しいのだろう」と私は思考停止状態だった―と、目がさめる思い。このような思考停止状態は、結果として、マイノリティの差別放置に加担することになる。
日本政府も、傍観者的態度を取り続けてきた。人種差別撤廃条約他国際人権条約に批准したという法的立場からしても、 歴史的立場からしても、差別をなくす責任があるというのに(政府がどのように言い逃れをし、国際社会から呆れられてきたかは、第2章に詳しい)。しかし、諸国は、差別に向き合い、法的規制に果敢に取り組んできた(イギリス、ドイツ、カナダ、オーストラリアを取り上げた第3章参照)。いずれも日本での法制度設計に参考になる。
日本社会が問われているのは、法規制か表現の自由かの選択ではなく、マイノリティに対する差別を今のまま合法として是認しその苦しみを放置し続けるのか、それともこれまでの差別を反省し、差別のない社会をつくるのか、ということではないか。あとがきに記されたこの問いかけを、この社会は真摯に受け止めねばならない。新書ながら、重厚な一冊。多くの人に読んでほしい本である。
表現の自由は、日本国憲法の保障する様々な自由の中で最も重要な権利として位置づけられている。政府のみならず、憲法研究者の多数派が、ヘイトスピーチに関する法規制に対して慎重論であるのは、この表現の自由の重要性を強調するからだ。師岡も、当然、世界共通の認識でもある、表現の自由の自己実現と自己統治の意義を重視する。その上で、慎重論の理由ひとつひとつを検討し、反論していく。
そもそも、自己実現からも自己統治からも、ヘイトスピーチは正当化されない。規制による萎縮効果については、脅迫、名誉毀損、侮辱などについては萎縮効果の危険性も承知の上で刑事規制されているが、これは、法益侵害の観点から規制が必要だからである。ヘイトスピーチも同様に深刻な法益侵害があるのだから、萎縮効果を最小限にする工夫をしつつ、規制する方策がとられるべきである。現に、各国の規制や国際人権基準においても様々な明確化の努力がなされてきた。
次に、ヘイトスピーチは良質の議論によって駆逐されるという主張は、ナチズムがヘイトスピーチを行い、反対勢力を駆逐して権力をとった歴史に照らし、説得力はない。そもそも不平等な社会において、思想の自由市場が存在しうるのか。この原理的な問題はおいても、マイノリティの場合、数も少なく、差別により社会的に不利な立場におかれて、発言する機会も少なく、力も抑えられている。対等な人間とはみなされず、存在自体認めないヘイトスピーチに、深く傷つき、心身も蝕まれる。その苦痛を乗り越えて、議論に参加することは、容易ではない。対抗言論を主張するマジョリティは、マイノリティの苦痛を認識出来ているとは言い難い。
そして、法規制より教育・啓蒙だという考えについては、法規制と教育・啓蒙は矛盾しないとする。
などなど、「憲法の偉い先生が規制に慎重論なのだから、規制は難しいのだろう」と私は思考停止状態だった―と、目がさめる思い。このような思考停止状態は、結果として、マイノリティの差別放置に加担することになる。
日本政府も、傍観者的態度を取り続けてきた。人種差別撤廃条約他国際人権条約に批准したという法的立場からしても、 歴史的立場からしても、差別をなくす責任があるというのに(政府がどのように言い逃れをし、国際社会から呆れられてきたかは、第2章に詳しい)。しかし、諸国は、差別に向き合い、法的規制に果敢に取り組んできた(イギリス、ドイツ、カナダ、オーストラリアを取り上げた第3章参照)。いずれも日本での法制度設計に参考になる。
日本社会が問われているのは、法規制か表現の自由かの選択ではなく、マイノリティに対する差別を今のまま合法として是認しその苦しみを放置し続けるのか、それともこれまでの差別を反省し、差別のない社会をつくるのか、ということではないか。あとがきに記されたこの問いかけを、この社会は真摯に受け止めねばならない。新書ながら、重厚な一冊。多くの人に読んでほしい本である。
2014年3月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
はじめに書いておくが私はヘイトスピーチはやめるべきだと思っている。
しかしながら、この本に書いてあることはどこからツッコんでいいのかわからないぐらいトンチンカンなことである。
この本の著者はヘイトスピーチを法規制すべきという立場をとっている。法に沿って正当に行われるデモはもちろん規制すべきでないが、あまりにも悪質なものや聞くに堪えないヘイトスピーチは法規制が検討されてもいいだろう(実際に法規制するかは別として)。
しかし、この本は致命的な欠陥がある。最初から最後まで「在特会=悪、反ヘイトスピーチ=正義」という視点でしか書かれていないのだ。その証拠に、前半部分では在特会の誰々が何々をして逮捕されたことや起訴されたことは逐一書かれているのに対して、「しばき隊」や有田芳生議員の差別発言については何も触れていない。
在特会やヘイトスピーチをする連中を擁護する気はないが、しばき隊も在特会と同じぐらい過激な活動をしている組織で逮捕者も出しているにも関わらず、反ヘイトスピーチ勢力だということだけでなんのおとがめもなしである。
有田芳生議員にしても、Twitterで左翼に対してのレッテル貼りを批判しながらも、同じツイートで他人を「ザイトク系」とレッテル貼りをしているのである。有田議員に関しては、ある政治家のことを「鉋屑」と言ったりもしている。極めつけは、週刊朝日が橋下徹氏に対する部落差別記事を書いたときに、その記事を指して「すこぶるおもしろい」とツイートしているのである。差別記事に対しておもしろいなどと発言することは差別ではないのだろうか。
この本でしばき隊も有田議員も反ヘイトスピーチ勢力として何度か登場するが、こういった事情は一切無視である。先に書いた通り、この本は「在特会=悪、反ヘイトスピーチ=正義」という視点しかないからこういった事実を見逃しているのである。
また、在日朝鮮人へのヘイトスピーチは執拗に取り上げながらも、沖縄の米軍基地前で行われている米軍に対するヘイトスピーチについては「ヘイトスピーチではない」と論じている。国連に提出された「マイノリティ」の定義を引用し、都合の悪いところは理由をつけて削除し、なんとか在日朝鮮人がマイノリティにあたるように定義している。しかし、在日米軍についてはうまくマイノリティに当たらないように論を展開し、「在日米軍に対する非難はヘイトスピーチではない」と言い切っている。つまり、沖縄の在日米軍基地前で行われている罵詈雑言の数々はこの著者にとってはヘイトスピーチでないのである。であるならば新大久保で行われているヘイトスピーチもヘイトスピーチではなくなってしまう。
そして、著者はヘイトスピーチの法規制は濫用を防ぐため、マイノリティへのヘイトスピーチに限定するよう提案している。これは非常に危険なことである。日本人から在日朝鮮人へのヘイトスピーチは法により裁かれるが、在日朝鮮人から日本人へ全く同じことを言ってもヘイトスピーチではなく、法規制を受けないことになりかねない。これこそ不当な言論弾圧につながるのではないだろうか。
また、ところどころに全く根拠の無い決めつけが目立つ。一例を挙げると31ページに「被差別部落に関するwebページの閲覧数が多いのは社会が差別を容認しているからだ」という趣旨の文があるが、被差別部落の情報が書かれたwebページを閲覧したからといってその人が差別を容認しているという根拠にはならず、ただの決め付けである。
ヘイトスピーチがだめだと考えるのは一人ひとりに人権が保障されてこそである。人権とは、自らの立場に都合よく扱っていいものではなく、普遍的なものである。にも関わらず、取り上げるべきことを取り上げず、自らに都合の良い視点だけしか見ないのは人権に対する冒涜であり、許されることではない。
こういう本こそがヘイトスピーチ批判の邪魔である。
しかしながら、この本に書いてあることはどこからツッコんでいいのかわからないぐらいトンチンカンなことである。
この本の著者はヘイトスピーチを法規制すべきという立場をとっている。法に沿って正当に行われるデモはもちろん規制すべきでないが、あまりにも悪質なものや聞くに堪えないヘイトスピーチは法規制が検討されてもいいだろう(実際に法規制するかは別として)。
しかし、この本は致命的な欠陥がある。最初から最後まで「在特会=悪、反ヘイトスピーチ=正義」という視点でしか書かれていないのだ。その証拠に、前半部分では在特会の誰々が何々をして逮捕されたことや起訴されたことは逐一書かれているのに対して、「しばき隊」や有田芳生議員の差別発言については何も触れていない。
在特会やヘイトスピーチをする連中を擁護する気はないが、しばき隊も在特会と同じぐらい過激な活動をしている組織で逮捕者も出しているにも関わらず、反ヘイトスピーチ勢力だということだけでなんのおとがめもなしである。
有田芳生議員にしても、Twitterで左翼に対してのレッテル貼りを批判しながらも、同じツイートで他人を「ザイトク系」とレッテル貼りをしているのである。有田議員に関しては、ある政治家のことを「鉋屑」と言ったりもしている。極めつけは、週刊朝日が橋下徹氏に対する部落差別記事を書いたときに、その記事を指して「すこぶるおもしろい」とツイートしているのである。差別記事に対しておもしろいなどと発言することは差別ではないのだろうか。
この本でしばき隊も有田議員も反ヘイトスピーチ勢力として何度か登場するが、こういった事情は一切無視である。先に書いた通り、この本は「在特会=悪、反ヘイトスピーチ=正義」という視点しかないからこういった事実を見逃しているのである。
また、在日朝鮮人へのヘイトスピーチは執拗に取り上げながらも、沖縄の米軍基地前で行われている米軍に対するヘイトスピーチについては「ヘイトスピーチではない」と論じている。国連に提出された「マイノリティ」の定義を引用し、都合の悪いところは理由をつけて削除し、なんとか在日朝鮮人がマイノリティにあたるように定義している。しかし、在日米軍についてはうまくマイノリティに当たらないように論を展開し、「在日米軍に対する非難はヘイトスピーチではない」と言い切っている。つまり、沖縄の在日米軍基地前で行われている罵詈雑言の数々はこの著者にとってはヘイトスピーチでないのである。であるならば新大久保で行われているヘイトスピーチもヘイトスピーチではなくなってしまう。
そして、著者はヘイトスピーチの法規制は濫用を防ぐため、マイノリティへのヘイトスピーチに限定するよう提案している。これは非常に危険なことである。日本人から在日朝鮮人へのヘイトスピーチは法により裁かれるが、在日朝鮮人から日本人へ全く同じことを言ってもヘイトスピーチではなく、法規制を受けないことになりかねない。これこそ不当な言論弾圧につながるのではないだろうか。
また、ところどころに全く根拠の無い決めつけが目立つ。一例を挙げると31ページに「被差別部落に関するwebページの閲覧数が多いのは社会が差別を容認しているからだ」という趣旨の文があるが、被差別部落の情報が書かれたwebページを閲覧したからといってその人が差別を容認しているという根拠にはならず、ただの決め付けである。
ヘイトスピーチがだめだと考えるのは一人ひとりに人権が保障されてこそである。人権とは、自らの立場に都合よく扱っていいものではなく、普遍的なものである。にも関わらず、取り上げるべきことを取り上げず、自らに都合の良い視点だけしか見ないのは人権に対する冒涜であり、許されることではない。
こういう本こそがヘイトスピーチ批判の邪魔である。
2017年10月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ヘイトスピーチ問題について、なぜ日本では法規制ができないのか(政府の不作為+国民の無理解)、諸外国ではどうなっているのか(法規制が常識)といった論点を包括的、かつ分かりやすく網羅した素晴らしい入門書。関心ある全ての人に一読をお勧めしたい。