非国民通信

ノーモア・コイズミ

暴力と変革

2022-12-25 22:57:47 | 政治・国際

 これまで日本の公安が共産党を監視する口実として「暴力革命」との用語が好んで使われてきました。今の腑抜けた日本共産党に暴力革命の気概があるかは大いに疑わしいですし、それ以前にアゾフ連隊や統一協会を監視対象から外してきた公安こそ信用ならないとも言えますが、この「暴力革命」に関する世間のイメージはどれほどのものでしょうか?

 少なくとも日本では反共の大義名分として有効であった、共産党も不名誉なレッテルとして払拭に努めてきたことを鑑みるに、総じて否定的に扱われているとは言えそうです。アメリカでも2020年大統領選挙後の議事堂占拠など暴力によって選挙結果を覆そうとする試みは「民主主義への挑戦」として否定されています。しかし2014年にウクライナの反ロシア派勢力が暴力によって大統領を追放し政権を転覆させたとき、日本やアメリカを含む西側諸国は足並みを揃えて結果を認めてきました。

 結局のところ日本の公安がアゾフ連隊や統一協会を容認するのと同じように、暴力革命もまた政治的な立ち位置次第で評価が変わるものだと言う他ありません。アメリカが「悪」と見なしたものを打倒するのであれば暴力革命は民主化のための正義の革命であり、アメリカに従属する勢力を打倒するものであれば民主主義を揺るがす危機として扱われるわけです。親米政権樹立のためなら、暴力革命と呼ばれる代わりにマイダン革命だの尊厳の革命だの虚飾に満ちた看板が用意されるだけ、と言えます。

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 私自身は暴力革命を一概に否定するつもりはありませんが、暴力革命を否定しつつ2014年ウクライナのクーデターを受け入れている人の頭の中身ってどうなんだろうと思うところです。あるいは山上容疑者が安倍晋三を射殺した結果、漸く政治と統一協会の関わりに世間の関心が向かうようになりましたが、ここで「テロに屈することになる」との口実で統一協会への追求を控えるよう暗に主張する人もまた一定数いたわけです。

 その真意は統一教会の擁護の方にあったとも考えられますが、暴力の否定を暴力によってもたらされた成果の否定にもつなげてしまう人がいることは事実です。確かに暴力そのものは好ましいことではありません。しかし暴力なしに成し遂げることがどこまで可能であったのか、という疑問も浮かびます。山上容疑者が銃弾を放つより以前から、日本の政界と統一教会の関わりは「知ろうとする意思のある人には」周知の事実であり、それを告発してきた人もまた少なくなかったはずです。しかし、そこに目を向けようとした人は至って少数派に止まっていたのです。

 2021年以前から統一教会を批判してきた人々の努力に不足があったとは、私は思いません。言論によって出来ることは十分に行われてきました。ただ、それが大手メディアの一面を飾り国民の関心事へと浮上するには、山上容疑者の銃弾が必要だったわけです。日本人の目を覚ましたのは言論ではなく暴力でした。統一教会についての情報は2021年以前にも十分に存在していました。国民が言論によって変わる意思を持っていれば、安倍晋三が暗殺されるよりも前に動くことは出来たでしょう。ただ、銃声が鳴るまで眠っていた人が多いだけのことです。

 世界を支配しているのは闇の政府ディープ・ステートではなく、表の政府ユナイテッド・ステートです。隠された真実など存在せず、調べれば分かるけれど誰も関心を持っていない事実が存在するのみ、それが現実ではないでしょうか? 少なくとも統一教会に関しては、山上容疑者が何か新たな事実を露にしたと言うことはありません。暴力による変革を否定したいのであれば言論によって変わる必要がありますけれど、しかし世間は目を開いているでしょうか。

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 健康なときは何の影響もないけれど、免疫力が低下すると症状が出てくる類いのウィルスも幾つかあります。政治家の金銭疑惑や問題発言にスキャンダルの類いは、これと同じようなものなのかも知れません。つまり政権の支持率が高い内は黙認されるものの、支持率が下がって批判のネタが求められるようになると、それが盛んに報じられて火が付くようになるわけです。ただ、火が付く以前から病巣は存在していることにも注目が必要ではないかと思います。

 ある政治家が閣僚に就任した途端、週刊誌に政治資金問題を暴露されて辞任の最速記録を作ってしまう──みたいなことが過去にはありましたけれど、政治資金の問題は閣僚に就任する前から存在していたはずです。ではどうして閣僚に就任したタイミングで暴かれたのかと言えば、単に世間の注目度が高まり、読者や視聴者が食いつく良いネタになったから、ですね。目敏い取材者であれば前から知っている、しかしネタに価値が出るまで寝かされている、そういう代物は少なくない気がします。

 時の政権が人気絶頂でそれを批判すれば視聴者の反発を招くような場面では、スキャンダルを掴んでもつかんでも敢えて大きくは報道しない、逆に政権への非難囂々でバッシングの材料を読者が待ち望んでいるような場面では、ここぞとばかりに金銭問題の類いが放出される、ある意味で市場原理に沿った行動をメディアも選択していると言えそうです。

 かつて民主党の幹事長であった小沢一郎は、次期総理に就任する可能性が最も高まったタイミングで政治資金問題を大きく報道されました。万年野党の幹部と次期総理候補ではニュースバリューも大きく異なりますので、まぁ致し方なかったのかも知れません。ただ、小沢一郎の政治資金疑惑に関しては地元の共産党議団などからは何度となく噛み付かれていたようで、例によって「隠された真実」などというものではなかったことが分かります。

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 暴力を伴わない、言論による変革は理想です。ただ現状は、まだその域には到達としておらず暴力によってもたらされたものであろうと良い変化であれば受け入れるほかない、というのが私の立場です。山上容疑者の銃弾によって世間が政治と統一教会の関わりに批判的な目を向けるようになったのは典型的で、これ自体は良いことと判断します。その上で暴力を必要としないためには何が必要かと考えるなら、何かが起こって世間の注目度が高まるのを待つのではなく、隠されてはいないけれど世間が関心を持とうとしない事実を知ることが必要でしょうね。

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福祉削減なら受け入れられそう

2022-12-18 23:25:12 | 政治・国際

防衛費増額巡り 首相「国民自らの責任」 一部増税で賄う考え(毎日新聞)

 岸田文雄首相は13日の自民党役員会で防衛費増額を巡り「防衛力の抜本強化は安全保障政策の大転換で、時代を画するものだ。責任ある財源を考えるべきで、今を生きる国民が自らの責任としてその重みを背負って対応すべきものだ」と述べ、一部を増税で賄う考えを改めて示した。

 

 この「国民自らの責任」との発言はそれなりに批判も呼んだようで後に修正も発表されましたが、岸田総理の真意はよく表れていると評価できます。安倍晋三は実行力に乏しい政治家で世論の反発に怯んで政策を翻すことも多く、その点を私は肯定的に評価してきましたけれど、岸田の方はどうでしょうね。私の見る限り岸田は安倍よりも、党勢の失墜を恐れることなく消費税増税を決定した野田佳彦に近い印象です。たとえ国民の支持を失うことになろうとも、彼はやり遂げるものと予想しています。

 ヨーロッパでは、国民の生活が困窮する中でもNATO陣営の勝利のためウクライナへの軍事支援を優先する政権に対して右派が強く反発するケースが増えています。昨今、軍事や外交を巡っては従来の右と左の対立ではなく、アメリカ陣営の勝利を平和と見なしそのための出費を厭わない守旧派と、自陣営の軍事的勝利のための支出すらも強いられた重荷と見なす自国第一主義者に分かれている、と言えそうです。アメリカであればバイデンが前者、トランプが後者に該当しますけれど、日本の場合は軒並み前者ばかりなのかも知れません。

 軍事費増額のために増税する、その財源として国民負担を増やすという点に関しては一定の反発があります。しかし、軍事費の増額そのものについては、世論調査を見る限り過半数の支持があるようです。もちろん不況下における国民負担の増大は狂気の沙汰であり、このような判断を下す政治家は日本社会共通の敵と断言することが出来ますけれど、しかし軍事費の大幅増を国民が許容するのであれば、その対価は覚悟すべきでしょう。対価なしにサービスを要求するのは日本の文化かも知れませんが、国民にサービス残業を強いることは出来ても、アメリカから無償で武器を買うことは出来ないのですから。

 

ほぼロシア並み  日本は防衛費を大幅増額へ(SPUTNIK)

 地域、そして世界中で緊張が高まる中、日本政府は今後5年間(2023年度から2027年度)の防衛費を増額させると決定した。これにより、日本の防衛費は約43兆円となり、これはロシアの国防費に匹敵する。ブルームバーグが報じている。

 

 大元はブルームバーグ社の報道ですが、「ほぼロシア並み」と当のロシアのメディアが伝えています。それが良いことなのか悪いことなのか、かつて日本はアメリカに次ぐ世界第二位の軍事費大国でした。しかるに日本の経済的凋落が続く中で、中国その他の国の後塵を拝するようになったわけです。ただ日本の軍事費の対GDP比が概ね横ばいであった一方で、軍事費を増大させているかのごとく報道される中国の場合、対GPD比はむしろ減少傾向ですらありました。つまり中国は経済水準に合わせて軍事費が増加しただけで、積極的に増やしてきたわけではない、といえます。

 経済力が伸びた結果として軍事費も増えた中国と、経済力が伸びない中でも優先順位を変えることで軍事費を増やそうとする日本、正しい選択をしているのはどちらでしょうか? 中国の軍事費の対GDP比は1.7%程度とされています。岸田内閣が目標とする対GDP比2%を達成すれば、それは中国を上回る比率であることを意味するわけです。負担方法を巡ってこそ反発がある一方で、軍事費を増やすこと自体は国民の過半数の支持を得ているのが日本ですけれど、中国よりも軍事への優先度の高い国家を目指していることを理解できているかは分かりません。

 また「反撃能力」という名称で他国への攻撃能力を強化する方向に舵が切られているわけですが、これもどうしたものでしょう。例えば隣国の軍事演習やミサイル発射実験等については盛んに報じられますけれど、それに先だって何が行われていたかについてはメディアも国民も気にしていないのが普通です。実はアメリカとの合同軍事演習が先に行われており、隣国のそれは単に応酬に過ぎない場合は珍しくない等々、国民が目を向けずにいるものは多々あります。

 結局のところ「アメリカ側が先にやったこと」にほとんどの人が関心を払わない以上は、中国や北朝鮮が「先に」何かを行ったとの誤った理解が流布してしまう方がむしろ自然です。近年はアメリカが台湾の独立派を焚き付けて中国政府との対立を深めさせています。当然ながら中国側も無策ではいられず威嚇行動も見られるところですが、それを先制攻撃と見なして「反撃」するシナリオぐらいは普通にあり得ることでしょう。

 言うまでもなくウクライナを舞台とした戦争に関しても同じで、まさに戦時報道と呼ぶべき偏った情報ばかりを我が国のマスコミは流し続けています。それは右派から毛嫌いされているメディアでも何ら変わるところはありません。朝日新聞やNHKの報道を見れば、急にロシアが攻めてきたようにしか見えないことでしょう。そうであるならば戦争に備えることだけが唯一の選択肢となり、国民が軍事費の増大に賛成するのも当然の結果と言えます。しかし現実は違う、決して前段なく戦争が始まったのではなく、そこに至るまでに交渉の余地はあった、軍事的衝突の回避は可能であったわけです。

 ある意味、マスコミの協力姿勢が岸田総理を強気にさせているようにも思います。一見すると平和を希求する風を装っているメディアであっても戦中は軍国主義を賛美していた実績のある報道機関は少なくありません。そして今、新聞もテレビも軒並みウクライナ側の大本営発表を垂れ流し、ロシアへの(しばしば事実関係を誤認した)誹謗中傷を繰り返しています。国内のマスコミは自陣営の勝利のために事実を歪めることを厭わない、停戦ではなく継戦のために尽くしている、そうした姿勢を見て岸田も気を強くしているところはあるでしょう。

 今回NATO陣営はロシア側が戦前に呼びかけた外交的解決には一切応じず、いざ侵攻が始まってからウクライナへ武器を供給する、という選択肢をとりました。日本もまた、同じ道を選ぶつもりでしょうか。アメリカによる中国政府への挑発行為はエスカレートする一方です。そこで中国側が外交を通じて問題の解決を図ったときに日本は何を考えるのか──あくまで宗主国の意向を優先し、外交は捨てて戦争の準備を進めるつもりであれば、岸田政権は目的に向かって進んでいると言えます。ただ、より賢明な道は他にあるのです。

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子供が絡むと息の荒くなる人は多いですが

2022-12-11 23:12:44 | 社会

 先日は静岡県裾野市の認可保育園で児童への虐待があったとして保育士が逮捕、園長まで起訴されるなんてことがあり世間を賑わせました。被疑者の名前だけではなく顔写真までもがメディアで大々的に掲載されたりもしていますが、どうしたものでしょうか。高齢者福祉施設や障害者福祉施設、入管の収容施設や刑務所でなどでの入所者虐待は頻繁に発生していますけれど、いずれも今回の園児虐待ほど大きく被疑者が晒されたことはないように記憶しています。

 人権意識が問われるのは、「悪い奴」を前にしたときです。清く正しい人に守られるべき権利があるのは当然のことながら、悪事を働いた被疑者にもまた守られるべき権利があります。ところが何かの契機に箍が外れて「何でもあり」になってしまうことはないでしょうか。何事も罪に応じて裁かれるべきであって、世間の怒りをかき立てた度合いに左右されてはならないはずですが、必ずしも実態はそうなっていないように思います。

 件の保育園で行われていたとされることは決して良いことではないにせよ、小中学校の児童間であれば日常的に行われて黙認されているレベルのことでもあるはずです。例えば東京オリンピック・パラリンピックの楽曲担当だった小山田圭吾氏は障害を持った同級生に対し、段ボール箱に閉じ込める、服を脱がせて裸にする、排せつ物を食べさせるなどしていたと自ら語っています。ところが「いじめ」という扱いになると不思議と法の裁きからは免れてしまうわけです。「いじめ」で許容される人もいれば、逮捕までされてしまう人もいる、世の中は不公平ですね。

 尊属殺、という概念があります。同じ殺人でも、相手との関係次第で罪の重さが変わってしまうわけです。尊属殺の考え方自体は今こそ批判的に捉えられていますけれど、それが本当に克服されているかは疑問に思わないでもありません。同じ暴行や脅迫でも、被害者の社会的な位置づけ次第で世間の反応が大きく異なってしまう、ろくに報じられることもなく忘れ去られることもあれば、連日メディアを賑わせては世間の晒し者にされることもある、それを今回の保育園の事件は体現しています。

 虐待した相手が同級生だったなら、それは「いじめ」と呼ばれて加害者が裁かれることはありません。虐待した相手が障害者や高齢者であったなら、職員を取り巻く過酷で報われない環境への同情も多少は出てくることでしょう。虐待した相手が在留資格のない外国人や受刑者であったなら、被害者側に問題があったのだろうと言い募る人も少なくないはずです。ただ虐待した相手が小児であるとなると、人々は一斉に拳を振り上げメディアも司法も張り切ってしまうわけです。

参考:地獄保育園①(清野のブログ)

 一世代前はもっと子供の扱いなんてぞんざいでしたし、戦前の生まれなら弟や妹の世話は年長の子供の仕事(ヤングケアラー!)みたいなのが当たり前だったはずです。しかるに現代は少子化が大きく進んだこともあって、希少価値が高まったせいか「子供を大切に」という考え方が深く根付いています。今や子供こそが「尊属」であり、何よりも優先して扱われるべきものとの意識が社会全体で共有されていると言えるでしょう。ただ「子供を大切にしろ」という声ばかり大きくなる一方で、実際に子供の世話をする人の地位はどうなのでしょうか?

 亭主一人の収入で家族を養えるような高給取りが減少し、女性の就労が飛躍的に増えていく中、少子化と反比例する勢いで託児需要は増加していきました。私が住むような都内へのギリギリ通勤圏は子育て世代の流入も多く、次から次へと保育園が新設され、いずれ私の住居の隣にも建てられる可能性を否定できない状況です。ただ保育園が増加する一方で保育士の不足は一貫して指摘されているところ、保育士の資格保持者は十分な数がいるらしいのですが……

 保育士の社会的な需要は非常に高い一方で、その給与水準の低さもまた広く知られています。介護士も保育士も社会から大いに必要とされているわけですが、だからといって報酬が高くなるものではないのでしょう。賃金が低ければ士気も低くなる、払われる対価が少なければ職務に対する責任感だって減少するのが当然ですけれど、人件費抑制が30年来の国是となっているの我々の社会でも特に給料の安い職場であり続けている以上、そこに歪みが生まれるのは当然です。

 「子供を大切にしろ」と、いきり立つ人は実に多いです。しかし実際に子供に接する人を大切にしている人はいるのでしょうか。むしろ「子供のために」を錦の御旗として、子供に接する人に犠牲を求めているばかりではないかと私には思われます。自分自身が子供を大切にするのではなく、実際に子供に接する「他人」に向けて「子供を大切にしろ」と要求しているだけの人が実際は多数派を占めている、結果として子供を育てることの負担もまた重くなっているところがあるはずです。

 離れて住む親のことは愛せても、同居して介護する親となると苛立ちを感じる──適切な距離があるかどうかで良いものが見えるか、悪いものが見えてしまうかも変わってくることでしょう。子供も然りで、離れて眺めれば天使に見えても、四六時中つきっきりでいなければならないとなれば悪魔に見えてくることもあるわけです。ところが子供に接する機会の減った現代となると、後者の感覚を理解できない人が増えているように思います。昼夜を問わず子供の泣き声、叫び声に晒される生活をしている人と、自分の気が向いたときや余裕のあるときに子供を眺めているだけの人、より実態を理解しているのは前者ですが、多数派として世論を構成しているのは後者なのです。

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人気のある政治家と多様性

2022-12-04 23:48:29 | 社会

 多様性云々と言及されることは昔よりも多くなってはいると思いますが、実際のところはどうなのでしょうか。脚光と反発を集めているものもあれば、今なお意識されないでいるものもまた多いように思います。例えば新型コロナウィルスの感染拡大に端を発して働き方や生活習慣にも相応の変化がありましたけれど、その中で変化に適応する人と、過去に戻ろうとする人との価値観の違いもまた小さくないわけです。

 しばしば「リモートワークで孤独を感じる」などという言説がメディアを賑わせていますが、この辺りはいかがでしょう? 会社組織の中にしか人間関係がなく、かつ仕事をすべき場所で人間関係を築くことに重きを置いてきたような人であれば、それが当てはまるのかも知れません。しかし地域や家庭の中で人間関係を構築できている人や、元より職場は仕事をこなす場所でしかなかった人にとって、リモートワークで孤独も何もあったものではないと言えます。

 あるいは「雑談からアイデアが生まれる」みたいな主張も経済誌を中心としてまことしやかに語り継がれているわけです。確かにオフィスに出勤して雑談で時間を潰しては仕事をしているフリをしてきた人にとって、雑談とはアイデアの源泉でなければならなかったのでしょう。しかし雑談で時間を潰したりせず真面目に仕事を処理してきた人にとっては、リモートワークで雑談がなくなろうとパフォーマンスには何の影響もありません。

 飲み会の出欠も評価に関わると、過去に上司から言われたことがあります。組合も「コミュニケーションを取ることは大切だから」と、会社側を支持する見解でした。この辺は企業や部署によって温度差もありそうですが、飲み会への参加を起立して君が代を斉唱するのと同じくらいに重視している職場は珍しくもないように思います。そうした中で飲み会に皆勤して評価を高めて昇進を重ねている人もいれば、反対に負担と感じていた人もいるわけです。

 問題は、上記の3パターンいずれも前者が「コロナ前」の主流派であったと言うことですね。会社こそが自分の人間関係構築の場であり、やっているのは雑談ばかり、宴会で目立っては偉い人に気に入られて地位を築いた人が従来の職場における主役でした。ところがコロナでリモートワーク導入となると、彼らの活躍の場はなくなり、それまで傍流に追いやられてきた人が反対に頭角を現すことになります。社会全体として「コロナ前に戻る」ことを掲げて脱リモートが進められているのは、そうした人々によるバックラッシュなのかも知れません。

 「コロナ前」を正常と位置づけ、誰もがそこに戻ることを望んでいるかのように語られがちですが、これこそまさに多様性に関する視点の欠如と言えるでしょう。世の中、浮かれ騒ぐことが好きな人もいますが、そうでない人も本当は多くいます。わざわざ出社しなくても成果を出せる人もいる、大人しくしていることに何の苦痛も感じない人もいる、感染症予防を重視する人だっているわけです。ところが後者を完全に無視して、「コロナ前」へと復古の動きが加速してはいないでしょうか。

 上記の千葉県知事の傲岸不遜な主張は典型で、流石に若いだけでチヤホヤされてきた人の言うことは違うなと思わないでもありませんが、このように想像力を欠き多様性を認められないタイプからすると「黙食」とは強いられるものであり、可哀想なものでしかないのでしょう。しかし世の中の「子供好き」が思い描くような騒ぎ回る子供だけが本当の姿かと言えば、実際には大人しい子だっている、食事の時間ぐらい落ち着いて過ごしたい子だっているはずです。

 私が小学生の頃は、休み時間は男子は全員校庭に出てドッジボールをするのがクラスのルールでした。私は不良でしたので隠れて本を読んだりして教師からは目の敵にされていたわけですが、子供は外で体を動かして遊ぶのが好きであって、それが出来ないのは可哀想、という周囲の思いもあったでしょうか。もちろん給食の時間に奇声を上げて駆け回る同級生達が唾を飛ばしてくるのも苦痛でした。私にしてみればコロナで学校環境も良くなったのではと言ったところですが、それでも「コロナ前」に戻そうとする人の方が幅を利かせるのは変わりません。

 引用した熊谷氏は人間としても最低ですが、これが選挙に勝って千葉市長から県知事へとステップアップすることを許してしまったのは有権者の責任でもあります。結局のところ民主主義という名の多数決政治においては多数派に阿る人の勝利こそが宿命であり、多様性に配慮する人の居場所はないのかも知れません。「コロナ前」に戻ろうとする復古派が多数を占めるのであれば、そうした人々の考え方を無批判に受け入れ、逆にコロナ前への回帰を懸念する人の声はこのように罵り返すのが人気商売では得策なのでしょう。

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