これまで日本の公安が共産党を監視する口実として「暴力革命」との用語が好んで使われてきました。今の腑抜けた日本共産党に暴力革命の気概があるかは大いに疑わしいですし、それ以前にアゾフ連隊や統一協会を監視対象から外してきた公安こそ信用ならないとも言えますが、この「暴力革命」に関する世間のイメージはどれほどのものでしょうか?
少なくとも日本では反共の大義名分として有効であった、共産党も不名誉なレッテルとして払拭に努めてきたことを鑑みるに、総じて否定的に扱われているとは言えそうです。アメリカでも2020年大統領選挙後の議事堂占拠など暴力によって選挙結果を覆そうとする試みは「民主主義への挑戦」として否定されています。しかし2014年にウクライナの反ロシア派勢力が暴力によって大統領を追放し政権を転覆させたとき、日本やアメリカを含む西側諸国は足並みを揃えて結果を認めてきました。
結局のところ日本の公安がアゾフ連隊や統一協会を容認するのと同じように、暴力革命もまた政治的な立ち位置次第で評価が変わるものだと言う他ありません。アメリカが「悪」と見なしたものを打倒するのであれば暴力革命は民主化のための正義の革命であり、アメリカに従属する勢力を打倒するものであれば民主主義を揺るがす危機として扱われるわけです。親米政権樹立のためなら、暴力革命と呼ばれる代わりにマイダン革命だの尊厳の革命だの虚飾に満ちた看板が用意されるだけ、と言えます。
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私自身は暴力革命を一概に否定するつもりはありませんが、暴力革命を否定しつつ2014年ウクライナのクーデターを受け入れている人の頭の中身ってどうなんだろうと思うところです。あるいは山上容疑者が安倍晋三を射殺した結果、漸く政治と統一協会の関わりに世間の関心が向かうようになりましたが、ここで「テロに屈することになる」との口実で統一協会への追求を控えるよう暗に主張する人もまた一定数いたわけです。
その真意は統一教会の擁護の方にあったとも考えられますが、暴力の否定を暴力によってもたらされた成果の否定にもつなげてしまう人がいることは事実です。確かに暴力そのものは好ましいことではありません。しかし暴力なしに成し遂げることがどこまで可能であったのか、という疑問も浮かびます。山上容疑者が銃弾を放つより以前から、日本の政界と統一教会の関わりは「知ろうとする意思のある人には」周知の事実であり、それを告発してきた人もまた少なくなかったはずです。しかし、そこに目を向けようとした人は至って少数派に止まっていたのです。
2021年以前から統一教会を批判してきた人々の努力に不足があったとは、私は思いません。言論によって出来ることは十分に行われてきました。ただ、それが大手メディアの一面を飾り国民の関心事へと浮上するには、山上容疑者の銃弾が必要だったわけです。日本人の目を覚ましたのは言論ではなく暴力でした。統一教会についての情報は2021年以前にも十分に存在していました。国民が言論によって変わる意思を持っていれば、安倍晋三が暗殺されるよりも前に動くことは出来たでしょう。ただ、銃声が鳴るまで眠っていた人が多いだけのことです。
世界を支配しているのは闇の政府ディープ・ステートではなく、表の政府ユナイテッド・ステートです。隠された真実など存在せず、調べれば分かるけれど誰も関心を持っていない事実が存在するのみ、それが現実ではないでしょうか? 少なくとも統一教会に関しては、山上容疑者が何か新たな事実を露にしたと言うことはありません。暴力による変革を否定したいのであれば言論によって変わる必要がありますけれど、しかし世間は目を開いているでしょうか。
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健康なときは何の影響もないけれど、免疫力が低下すると症状が出てくる類いのウィルスも幾つかあります。政治家の金銭疑惑や問題発言にスキャンダルの類いは、これと同じようなものなのかも知れません。つまり政権の支持率が高い内は黙認されるものの、支持率が下がって批判のネタが求められるようになると、それが盛んに報じられて火が付くようになるわけです。ただ、火が付く以前から病巣は存在していることにも注目が必要ではないかと思います。
ある政治家が閣僚に就任した途端、週刊誌に政治資金問題を暴露されて辞任の最速記録を作ってしまう──みたいなことが過去にはありましたけれど、政治資金の問題は閣僚に就任する前から存在していたはずです。ではどうして閣僚に就任したタイミングで暴かれたのかと言えば、単に世間の注目度が高まり、読者や視聴者が食いつく良いネタになったから、ですね。目敏い取材者であれば前から知っている、しかしネタに価値が出るまで寝かされている、そういう代物は少なくない気がします。
時の政権が人気絶頂でそれを批判すれば視聴者の反発を招くような場面では、スキャンダルを掴んでもつかんでも敢えて大きくは報道しない、逆に政権への非難囂々でバッシングの材料を読者が待ち望んでいるような場面では、ここぞとばかりに金銭問題の類いが放出される、ある意味で市場原理に沿った行動をメディアも選択していると言えそうです。
かつて民主党の幹事長であった小沢一郎は、次期総理に就任する可能性が最も高まったタイミングで政治資金問題を大きく報道されました。万年野党の幹部と次期総理候補ではニュースバリューも大きく異なりますので、まぁ致し方なかったのかも知れません。ただ、小沢一郎の政治資金疑惑に関しては地元の共産党議団などからは何度となく噛み付かれていたようで、例によって「隠された真実」などというものではなかったことが分かります。
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暴力を伴わない、言論による変革は理想です。ただ現状は、まだその域には到達としておらず暴力によってもたらされたものであろうと良い変化であれば受け入れるほかない、というのが私の立場です。山上容疑者の銃弾によって世間が政治と統一教会の関わりに批判的な目を向けるようになったのは典型的で、これ自体は良いことと判断します。その上で暴力を必要としないためには何が必要かと考えるなら、何かが起こって世間の注目度が高まるのを待つのではなく、隠されてはいないけれど世間が関心を持とうとしない事実を知ることが必要でしょうね。