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- 珣子内親王(しゅんしないしんのう/たまこないしんのう)は、後醍醐天皇の皇后(中宮)。後伏見天皇の第一皇女。母は広義門院(西園寺寧子)。北朝からの女院号は新室町院(しんむろまちいん)。 後伏見上皇の正室との最初の子として愛育され、皇女ながら、持明院統嫡子で同母弟の量仁親王(のちの光厳天皇)に次ぐ待遇を受けた。やがて、元弘の乱(1331年 - 1333年)で、持明院統と対立する皇統の大覚寺統の後醍醐天皇は、鎌倉幕府と北条得宗家に勝利し、元弘3年(1333年)6月に建武の新政を開始。しかし、最愛の正妃である皇太后西園寺禧子が10月に早逝。後醍醐の新たな正妃として、12月に珣子が中宮に立后された。珣子立后と同月に光厳への太上天皇号奉献や、光厳と懽子内親王(後醍醐と禧子の娘)との結婚も行われており、大規模な持明院統懐柔政策だった。また、珣子の母方の実家は、有力公家西園寺家である。西園寺家当主公宗(珣子の従兄)は、かつて関東申次(朝廷と鎌倉幕府の交渉役)として強大な権勢を奮ったが、幕府が滅んで権威が減じた公宗への配慮でもあった。翌年1月には後醍醐と側室阿野廉子の皇子恒良親王が立太子されたが、これは中継ぎの皇太子であり、後醍醐としてはいずれ珣子との間に生まれる皇子を正嫡にと考えていたとも見られる。 夫妻は早くも子に恵まれて、建武元年(1334年)10月には、妊娠5か月目の着帯の儀が行われ、翌年3月半ばの出産日当日まで盛大な御産祈祷が行われた。その回数はこの時代最多の66回であり、後醍醐の珣子への想い入れを物語る。祈祷には、後醍醐の大覚寺統だけではなく、珣子の持明院統や、珣子の母方の実家である西園寺家からも支援が行われた。御産の館には、大覚寺統・持明院統・西園寺家の中立地帯であり、珣子が生まれた場所でもある常盤井殿が選ばれた。また、御産奉行には光厳の側近であるが抜擢されるなど、後醍醐は人事面でも持明院統との融和路線を強調した。 珣子の御産の結果は、日本史最大の分岐点の一つだった。もし皇子であったならば、その子はやがて、大覚寺統・持明院統・西園寺家を繋ぐ天皇として、日本の統合の象徴になったと考えられる。しかし、生まれたのは皇女だった。これにより西園寺家衰退の可能性が高くなったことで、当主の公宗は後醍醐への暗殺を計画し、3か月後に捕縛された。公宗の後醍醐暗殺計画を起点として、中先代の乱・建武の乱・南北朝の内乱が連鎖的に発生し、日本最大の大乱の一つとなった。建武政権は軍記物語『太平記』では悪政のために崩壊したと描かれるが、2010年代時点での研究では、実際は後醍醐の改革は現実的で優秀なものであり、政権の崩壊は偶発的事象が重なったものと見られている。その大きな要因の一つが、珣子との子の性別であり、誰にも責任を問えない不幸な事態だった。 皇女誕生から珣子は2年後に、後醍醐もまた4年後に崩御した。薄幸の皇女のその後は不明だが、一説によれば、南朝の歌人であるが後の姿とも言われる。幸子が二人の皇女であるとすれば、少なくとも数え31歳以上は生き延び、南朝の優れた歌人として活躍し、准勅撰和歌集『新葉和歌集』などに和歌を残している。 政略結婚であったとはいえ、後醍醐は正妃である珣子に細やかな愛情を尽くした。立后の時に、後醍醐が珣子を想って詠んだ和歌2首は、いずれも北朝の勅撰和歌集と南朝の准勅撰和歌集の両方に入集したほどの秀歌だった。そのうちの一首、「袖かへす 天津乙女も 思ひ出ずや 吉野の宮の 昔語りを」は、かつての吉野行宮が公園として整備された吉野朝皇居跡の歌碑に刻まれ、夫妻の絆を21世紀にも伝えている。 (ja)
- 珣子内親王(しゅんしないしんのう/たまこないしんのう)は、後醍醐天皇の皇后(中宮)。後伏見天皇の第一皇女。母は広義門院(西園寺寧子)。北朝からの女院号は新室町院(しんむろまちいん)。 後伏見上皇の正室との最初の子として愛育され、皇女ながら、持明院統嫡子で同母弟の量仁親王(のちの光厳天皇)に次ぐ待遇を受けた。やがて、元弘の乱(1331年 - 1333年)で、持明院統と対立する皇統の大覚寺統の後醍醐天皇は、鎌倉幕府と北条得宗家に勝利し、元弘3年(1333年)6月に建武の新政を開始。しかし、最愛の正妃である皇太后西園寺禧子が10月に早逝。後醍醐の新たな正妃として、12月に珣子が中宮に立后された。珣子立后と同月に光厳への太上天皇号奉献や、光厳と懽子内親王(後醍醐と禧子の娘)との結婚も行われており、大規模な持明院統懐柔政策だった。また、珣子の母方の実家は、有力公家西園寺家である。西園寺家当主公宗(珣子の従兄)は、かつて関東申次(朝廷と鎌倉幕府の交渉役)として強大な権勢を奮ったが、幕府が滅んで権威が減じた公宗への配慮でもあった。翌年1月には後醍醐と側室阿野廉子の皇子恒良親王が立太子されたが、これは中継ぎの皇太子であり、後醍醐としてはいずれ珣子との間に生まれる皇子を正嫡にと考えていたとも見られる。 夫妻は早くも子に恵まれて、建武元年(1334年)10月には、妊娠5か月目の着帯の儀が行われ、翌年3月半ばの出産日当日まで盛大な御産祈祷が行われた。その回数はこの時代最多の66回であり、後醍醐の珣子への想い入れを物語る。祈祷には、後醍醐の大覚寺統だけではなく、珣子の持明院統や、珣子の母方の実家である西園寺家からも支援が行われた。御産の館には、大覚寺統・持明院統・西園寺家の中立地帯であり、珣子が生まれた場所でもある常盤井殿が選ばれた。また、御産奉行には光厳の側近であるが抜擢されるなど、後醍醐は人事面でも持明院統との融和路線を強調した。 珣子の御産の結果は、日本史最大の分岐点の一つだった。もし皇子であったならば、その子はやがて、大覚寺統・持明院統・西園寺家を繋ぐ天皇として、日本の統合の象徴になったと考えられる。しかし、生まれたのは皇女だった。これにより西園寺家衰退の可能性が高くなったことで、当主の公宗は後醍醐への暗殺を計画し、3か月後に捕縛された。公宗の後醍醐暗殺計画を起点として、中先代の乱・建武の乱・南北朝の内乱が連鎖的に発生し、日本最大の大乱の一つとなった。建武政権は軍記物語『太平記』では悪政のために崩壊したと描かれるが、2010年代時点での研究では、実際は後醍醐の改革は現実的で優秀なものであり、政権の崩壊は偶発的事象が重なったものと見られている。その大きな要因の一つが、珣子との子の性別であり、誰にも責任を問えない不幸な事態だった。 皇女誕生から珣子は2年後に、後醍醐もまた4年後に崩御した。薄幸の皇女のその後は不明だが、一説によれば、南朝の歌人であるが後の姿とも言われる。幸子が二人の皇女であるとすれば、少なくとも数え31歳以上は生き延び、南朝の優れた歌人として活躍し、准勅撰和歌集『新葉和歌集』などに和歌を残している。 政略結婚であったとはいえ、後醍醐は正妃である珣子に細やかな愛情を尽くした。立后の時に、後醍醐が珣子を想って詠んだ和歌2首は、いずれも北朝の勅撰和歌集と南朝の准勅撰和歌集の両方に入集したほどの秀歌だった。そのうちの一首、「袖かへす 天津乙女も 思ひ出ずや 吉野の宮の 昔語りを」は、かつての吉野行宮が公園として整備された吉野朝皇居跡の歌碑に刻まれ、夫妻の絆を21世紀にも伝えている。 (ja)
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- 後醍醐天皇御製 (ja)
- 後醍醐院御製 (ja)
- 後醍醐天皇御製 (ja)
- 後醍醐院御製 (ja)
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- 『新拾遺和歌集』冬・622(『新葉和歌集』冬・501にほぼ同一歌) (ja)
- 『新葉和歌集』神祇・594(『新千載和歌集』神祇・982) (ja)
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- 元弘三年立后屏風にをよませたもうける (ja)
- 袖かへす 天つ乙女も 思ひよ 吉野の宮の むかしを(大意:袖を翻して舞う五節舞の天女に等しいあなたも、どうか思い出して欲しい。吉野の宮の昔語りを。時の帝である天武天皇が、吉野に舞い降りたあなたの優雅さに呆然として、「天つ乙女が 天女らしく舞うことよ 唐玉を 袂に巻いて 天女らしく舞うことよ」と高らかに歌った、あの日のことを) (ja)
- 元弘三年立后屏風に、春日祭 (ja)
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- 皇女(幸子内親王?) (ja)
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- 山城国京都常盤井殿 (ja)
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- 第96代天皇后 (ja)
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- 珣子(しゅんし/たまこ) (ja)
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- 珣子内親王(しゅんしないしんのう/たまこないしんのう)は、後醍醐天皇の皇后(中宮)。後伏見天皇の第一皇女。母は広義門院(西園寺寧子)。北朝からの女院号は新室町院(しんむろまちいん)。 後伏見上皇の正室との最初の子として愛育され、皇女ながら、持明院統嫡子で同母弟の量仁親王(のちの光厳天皇)に次ぐ待遇を受けた。やがて、元弘の乱(1331年 - 1333年)で、持明院統と対立する皇統の大覚寺統の後醍醐天皇は、鎌倉幕府と北条得宗家に勝利し、元弘3年(1333年)6月に建武の新政を開始。しかし、最愛の正妃である皇太后西園寺禧子が10月に早逝。後醍醐の新たな正妃として、12月に珣子が中宮に立后された。珣子立后と同月に光厳への太上天皇号奉献や、光厳と懽子内親王(後醍醐と禧子の娘)との結婚も行われており、大規模な持明院統懐柔政策だった。また、珣子の母方の実家は、有力公家西園寺家である。西園寺家当主公宗(珣子の従兄)は、かつて関東申次(朝廷と鎌倉幕府の交渉役)として強大な権勢を奮ったが、幕府が滅んで権威が減じた公宗への配慮でもあった。翌年1月には後醍醐と側室阿野廉子の皇子恒良親王が立太子されたが、これは中継ぎの皇太子であり、後醍醐としてはいずれ珣子との間に生まれる皇子を正嫡にと考えていたとも見られる。 (ja)
- 珣子内親王(しゅんしないしんのう/たまこないしんのう)は、後醍醐天皇の皇后(中宮)。後伏見天皇の第一皇女。母は広義門院(西園寺寧子)。北朝からの女院号は新室町院(しんむろまちいん)。 後伏見上皇の正室との最初の子として愛育され、皇女ながら、持明院統嫡子で同母弟の量仁親王(のちの光厳天皇)に次ぐ待遇を受けた。やがて、元弘の乱(1331年 - 1333年)で、持明院統と対立する皇統の大覚寺統の後醍醐天皇は、鎌倉幕府と北条得宗家に勝利し、元弘3年(1333年)6月に建武の新政を開始。しかし、最愛の正妃である皇太后西園寺禧子が10月に早逝。後醍醐の新たな正妃として、12月に珣子が中宮に立后された。珣子立后と同月に光厳への太上天皇号奉献や、光厳と懽子内親王(後醍醐と禧子の娘)との結婚も行われており、大規模な持明院統懐柔政策だった。また、珣子の母方の実家は、有力公家西園寺家である。西園寺家当主公宗(珣子の従兄)は、かつて関東申次(朝廷と鎌倉幕府の交渉役)として強大な権勢を奮ったが、幕府が滅んで権威が減じた公宗への配慮でもあった。翌年1月には後醍醐と側室阿野廉子の皇子恒良親王が立太子されたが、これは中継ぎの皇太子であり、後醍醐としてはいずれ珣子との間に生まれる皇子を正嫡にと考えていたとも見られる。 (ja)
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