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「毛利元蕃」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
'''毛利 元蕃'''(もうり もとみつ、[[文化 (元号)|文化]]13年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]([[1816年]][[8月18日]]) - [[明治]]17年([[1884年]])[[7月22日]])は、[[周防国|周防]][[徳山藩]]第9代(最後)の藩主。就隆系毛利家9代。
| 氏名 = 毛利元蕃
| 画像 = Portrait of Mōri Motomitsu.jpg
| 画像サイズ = 210px
| 画像説明 = [[従五位]]毛利元蕃([[1880年]]頃撮影)
| 時代 = [[江戸時代]]後期 - [[明治|明治時代]]
| 生誕 = [[文化 (元号)|文化]]13年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]([[1816年]][[8月18日]])
| 死没 = [[明治]]17年([[1884年]])[[7月22日]]
| 改名 = 徳太郎(幼名)、就軌、広篤、元蕃
| 別名 = 岐陽、烙庵、随風堂([[号 (称号)|号]])
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =[[周南市]]の[[大成寺]]
| 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[山城国|山城守]]、[[淡路国|淡路守]]、[[従四位]]、[[従三位]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川家慶]]、[[徳川家定|家定]]、[[徳川家茂|家茂]]、[[徳川慶喜|慶喜]]、[[明治天皇]]
| 藩 = [[周防国|周防]][[徳山藩]]主→徳山藩[[知藩事|知事]]
| 氏族 = [[毛利氏]]
| 父母 = [[毛利広鎮]]、[[秋元永朝]]娘喜哉
| 兄弟 = [[毛利広衷|広衷]]、[[毛利寿粛|寿粛]]、[[堅田元琦]]、寧子、[[福原元僴]]、'''元蕃'''、勅子、[[秋元志朝]]、[[毛利元徳|元徳]]、<br/>[[京極高聡]]正室、[[松野助永]]室ら
| 妻 = 正室:'''八重子'''([[毛利斉熙]]の娘)
| 子 = 寿美子([[毛利元功]]正室)<br>養子:'''[[毛利元功|元功]]'''
| 特記事項 =
}}


'''毛利 元蕃'''(もうり もとみつ)は、[[幕末]][[大名]][[周防国]][[徳山藩]]第9代(最後)の藩主。就隆系毛利家9代。
==経歴==
第8代藩主・[[毛利広鎮]]の七男。母は[[秋元永朝]]の娘。兄に[[毛利広衷]]、[[毛利寿粛]]、[[堅田元琦]]、[[福原元たけ|福原元{{CP932フォント|}}]]など。弟に[[秋元志朝]]、[[毛利元徳]]がいる。正室は[[毛利斉熙]]の娘・八重子。側室は多数いる。子は娘([[毛利元功]]正室)。官位は従五位下、従三位、[[山城国|山城]]守、[[淡路国|淡路]]守。[[幼名]]は徳太郎。を就軌、広篤、元蕃と変える。岐陽、烙庵、随風堂などの[[号 (称号)|号]]を持つ。文武の諸道、特に詩歌に秀でる。


第8代藩主・[[毛利広鎮]]の七男。母は[[秋元永朝]]の娘。兄に[[毛利広衷]]、[[毛利寿粛]]、[[堅田元琦]]、[[福原元僴]]など。弟に[[秋元志朝]]、[[毛利元徳]]がいる。正室は[[毛利斉熙]]の娘・八重子。側室は多数いる。子は娘([[毛利元功]]正室)。官位は従五位下、従三位、[[山城国|山城]]守、[[淡路国|淡路]]守。[[幼名]]は徳太郎。[[諱]]を就軌、広篤、元蕃と変える。岐陽、烙庵、随風堂などの[[号 (称号)|号]]を持つ。文武の諸道、特に詩歌に秀でる。
江戸今井谷屋敷にて生まれる。七男だったが、4人の兄が早世し、兄の堅田元琦、福原元{{CP932フォント|}}が養子として出たため世嗣となる。[[天保]]7年([[1836年]])12月、従五位下[[山城国|山城]](のち淡路守)に叙任し、翌天保8年([[1837年]])12月7日に父の隠居跡を継いだ。


== 経歴 ==
[[嘉永]]3年8月([[1850年]]、未曾有の風水害に際し、あまねく封内の諸村を巡視して庶民の疾苦を慰め、併せて老人をいたわり、孝子や篤農家を賞する。『省耕集』はこの時の詩文を集めて出版したものである。嘉永6年([[1853年]])、[[黒船来航]]により、萩藩とともに[[浦賀]]の警備を任じられる。藩政においては、洋学や国学の奨励を行なって文治政策に努め、軍備においても洋式軍隊の編成を積極的に行なうなどしている。
[[文化 (元号)|文化]]13年([[1816年]])[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]、[[江戸]]の[[今井谷屋敷]]て第8代藩主・[[毛利広鎮]]の七男として生まれたが、4人の兄が早世し、兄の[[堅田元琦]][[福原元僴]]が養子として出たため世嗣となる。[[天保]]7年([[1836年]])12月、[[従五位下]]・[[山城国#山城守|山城]](のち[[淡路国#武家官位としての淡路守|淡路守]])に叙任翌天保8年([[1837年]])[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]広鎮が隠居し、その跡を継いだ。


[[嘉永]]3年([[1850年]])8月、未曾有の風水害に際し、あまねく封内の諸村を巡視して庶民の疾苦を慰め、併せて老人をいたわり、孝子や篤農家を賞する。『[[省耕集]]』はこの時の詩文を集めて出版したものである。嘉永6年([[1853年]])、[[黒船来航]]により、[[萩藩]]とともに[[浦賀]]の警備を任じられる。藩政においては、[[洋学]][[国学]]の奨励を行なって文治政策に努め、軍備においても洋式軍隊の編成を積極的に行なうなどしている。
幕末期の動乱の中では、本家の[[毛利敬親]]の補佐を務める。[[元治]]元年7月([[1864年]]、[[禁門の変]]により元蕃は、萩藩主・敬親、その世子(元蕃の弟)[[毛利元徳|元徳]]、[[長府藩]]主・[[毛利元周]]、[[清末藩]]主・[[毛利元純]]らと共に官位を奪われ、[[益田親施]]・福原元{{CP932フォント|僴}}・[[国司親相]]の3家老は[[徳山市|徳山]]に幽閉された。次いで、益田・国司は徳山で、福原は元蕃の庶兄なので[[岩国市|岩国]]へ護送して、それぞれ自刃が命じられる。


幕末期の動乱の中では、本家の[[毛利敬親]]の補佐を務める。[[元治]]元年([[1864年]])7月、[[禁門の変]]により元蕃は、萩藩主・敬親、その世子(元蕃の弟)[[毛利元徳|元徳]]、[[長府藩]]主・[[毛利元周]]、[[清末藩]]主・[[毛利元純]]らと共に官位を奪われ、[[益田親施]]・福原元{{CP932フォント|僴}}・[[国司親相]]の3家老は[[徳山市|徳山]]に幽閉された。次いで、益田・国司は徳山で、福原は元蕃の庶兄なので[[岩国市|岩国]]へ護送して、それぞれ自刃が命じられる。
これ以後藩論は分かれ、幾多の士が難に殉じたが、やがて藩論は統一される。[[慶応]]2年([[1866年]])の[[第2次長州征伐]]では、徳山藩の主力は小瀬川口に出陣し、幕府軍撃退に貢献した。慶応4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]においても、[[鳥羽・伏見の戦い]]や東北、[[箱館戦争]]などで軍功を挙げた。これらの功績を賞されて、明治2年([[1869年]])6月には永世[[賞典禄]]8000石を与えられている。同年、[[版籍奉還]]により徳山[[藩知事]]となる。


明治45月([[1871年]]、[[廃藩置県]]に先んじて藩知事を辞任し、その所領を本家の萩藩に返還した。同年9月、婿養子の[[毛利元功|元功]]に家督を譲っている。
これ以後藩論は分かれ、幾多の士が難に殉じたが、やがて藩論は統一される。[[慶応]]2年([[1866年]])の[[第2次長州征伐]]では、徳山藩の主力は小瀬川口に出陣し、幕府軍撃退に貢献した。慶応4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]においても、[[鳥羽・伏見の戦い]]や東北、[[箱館戦争]]などで軍功を挙げた。これらの功績を賞されて、明治2([[1869年]])6には永世[[賞典禄]]8000石を与えられている。同年、[[版籍奉還]]により徳山[[藩知事]]となったが、明治4年([[1871年]])5月、[[廃藩置県]]に先んじて藩知事を辞任し、その所領を本家の萩藩に返還した。同年9月、婿養子の[[毛利元功|元功]]に家督を譲っている。


その後は随風堂と号し、居を東京芝愛宕町五番地に移して悠々自適の生活を送った。教養人としても優れ、省耕集随風堂遺稿随風集など著作が多数ある。明治16年([[1883年]])3月、従四位に叙された。明治17年7月22日(1884年)、病が重く危篤に陥。元蕃の危篤を聞いた[[明治天皇]]は特旨をもって元蕃を従三位に叙。同日病死した。享年69。
その後は随風堂と号し、居を[[東京]][[愛宕 (東京都港区)|芝愛宕町]]五番地に移して悠々自適の生活を送った。教養人としても優れ、省耕集『[[随風堂遺稿]]』『[[随風集]]』など著作が多数ある。明治16年([[1883年]])3月、[[従四位]]に叙された。明治17年([[1884年]])[[7月22日]]元蕃の病が重くなり危篤に陥った。元蕃の危篤を聞いた[[明治天皇]]は特旨をもって元蕃を[[従三位]]に叙した。同日に元蕃は病死した。享年69。


[[周南市]]の[[徳山城]](徳山陣屋)の跡にある[[祐綏神社]]に祭神として祀られている。
[[山口県]][[周南市]]の[[徳山城]](徳山陣屋)の跡にある[[祐綏神社]]に祭神として祀られている。


== 系譜 ==
{{徳山藩主|9代|1837年 - 1871年}}
*父:[[毛利広鎮]](1750年 - 1828年)
{{安芸毛利氏当主}}
*母:喜哉 - [[秋元永朝]]の娘
*正室:八重子 - 天妙院、[[毛利斉熙]]の娘
*生母不明の子女
**女子:寿美子(1852 - 1887)- [[毛利元徳]]の養女。[[毛利元功]]子爵の正室。
*養子
**[[毛利元功]](1851 - 1900) - [[毛利元運]]の八男


{{安芸毛利氏当主|徳山毛利家|1837年 - 1871年|9代}}
{{徳山藩主|9代|1837年 - 1871年}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:もうり もとみつ}}
{{DEFAULTSORT:もうり もとみつ}}
[[Category:徳山毛利家|もとみつ]]
[[Category:徳山藩主|もとみつ]]
[[Category:徳山藩主|もとみつ]]
[[Category:幕末の大名]]
[[Category:幕末の大名]]
[[Category:幕末徳山藩の人物]]
[[Category:幕末徳山藩の人物]]
[[Category:日本の華族]]
[[Category:知藩事]]
[[Category:徳山毛利氏|もとみつ]]
[[Category:明治時代前期の華族当主]]
[[Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名)]]
[[Category:1816年生]]
[[Category:1816年生]]
[[Category:1884年没]]
[[Category:1884年没]]
[[Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名)]]

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毛利元蕃
従五位毛利元蕃(1880年頃撮影)
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化13年7月25日1816年8月18日
死没 明治17年(1884年7月22日
改名 徳太郎(幼名)、就軌、広篤、元蕃
別名 岐陽、烙庵、随風堂(
墓所 周南市大成寺
官位 従五位下山城守淡路守従四位従三位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
周防徳山藩主→徳山藩知事
氏族 毛利氏
父母 毛利広鎮秋元永朝娘喜哉
兄弟 広衷寿粛堅田元琦、寧子、福原元僴元蕃、勅子、秋元志朝元徳
京極高聡正室、松野助永室ら
正室:八重子毛利斉熙の娘)
寿美子(毛利元功正室)
養子:元功
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毛利 元蕃(もうり もとみつ)は、幕末大名周防国徳山藩第9代(最後)の藩主。就隆系毛利家9代。

第8代藩主・毛利広鎮の七男。母は秋元永朝の娘。兄に毛利広衷毛利寿粛堅田元琦福原元僴など。弟に秋元志朝毛利元徳がいる。正室は毛利斉熙の娘・八重子。側室は多数いる。子は娘(毛利元功正室)。官位は従五位下、従三位、山城守、淡路守。幼名は徳太郎。を就軌、広篤、元蕃と変える。岐陽、烙庵、随風堂などのを持つ。文武の諸道、特に詩歌に秀でる。

経歴

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文化13年(1816年7月25日江戸今井谷屋敷にて第8代藩主・毛利広鎮の七男として生まれたが、4人の兄が早世し、兄の堅田元琦福原元僴が養子として出たため世嗣となる。天保7年(1836年)12月、従五位下山城守(のち淡路守)に叙任。翌天保8年(1837年12月7日に広鎮が隠居し、その跡を継いだ。

嘉永3年(1850年)8月、未曾有の風水害に際し、あまねく封内の諸村を巡視して庶民の疾苦を慰め、併せて老人をいたわり、孝子や篤農家を賞する。『省耕集』はこの時の詩文を集めて出版したものである。嘉永6年(1853年)、黒船来航により、萩藩とともに浦賀の警備を任じられる。藩政においては、洋学国学の奨励を行なって文治政策に努め、軍備においても洋式軍隊の編成を積極的に行なうなどしている。

幕末期の動乱の中では、本家の毛利敬親の補佐を務める。元治元年(1864年)7月、禁門の変により元蕃は、萩藩主・敬親、その世子(元蕃の弟)元徳長府藩主・毛利元周清末藩主・毛利元純らと共に官位を奪われ、益田親施・福原元国司親相の3家老は徳山に幽閉された。次いで、益田・国司は徳山で、福原は元蕃の庶兄なので岩国へ護送して、それぞれ自刃が命じられる。

これ以後藩論は分かれ、幾多の士が難に殉じたが、やがて藩論は統一される。慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では、徳山藩の主力は小瀬川口に出陣し、幕府軍撃退に貢献した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争においても、鳥羽・伏見の戦いや東北、箱館戦争などで軍功を挙げた。これらの功績を賞されて、明治2年(1869年)6月には永世賞典禄8000石を与えられている。同年、版籍奉還により徳山藩知事となったが、明治4年(1871年)5月、廃藩置県に先んじて藩知事を辞任し、その所領を本家の萩藩に返還した。同年9月、婿養子の元功に家督を譲っている。

その後は「随風堂」と号し、居を東京芝愛宕町五番地に移して悠々自適の生活を送った。教養人としても優れ、『省耕集』・『随風堂遺稿』・『随風集』など著作が多数ある。明治16年(1883年)3月、従四位に叙された。明治17年(1884年7月22日、元蕃の病が重くなり危篤に陥った。元蕃の危篤を聞いた明治天皇は特旨をもって元蕃を従三位に叙した。同日に元蕃は病死した。享年69。

山口県周南市徳山城(徳山陣屋)の跡にある祐綏神社に祭神として祀られている。

系譜

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