ホールファグレ朝
美髪王朝(Fairhair dynasty) Hårfagreætta | |
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エイリーク1世血斧王のコイン | |
国 | ノルウェー王国 |
当主称号 | 王 |
創設 | 865年頃[1] |
家祖 | ハーラル1世ホールファグレ |
最後の当主 | ハーラル2世またはオーラヴ4世ホーコンソン |
滅亡 | 970年または1387年 |
民族 | ノルウェー人 |
分家 |
ホールファグレ朝(ノルウェー語: Hårfagreætta)は、ノルウェー国王ハーラル1世ホールファグレ(金髪ないし美髪王)によって創始されたノルウェーの王朝である。この王朝は、かつては、ノルウェーを統一し9世紀後半から1387年の間にかけて幾つかの中断を挟みつつ同国を支配したとみなされていたが、現在は、多くの学者たちが10世紀後半ハーラル2世灰衣王の代(初代から数えて3代目)で断絶したと考えている。
本来の王朝:伝統的な解釈と人造的な作成の対立
[編集]ホールファグレ朝は、伝統的には統一ノルウェー王国における最初の王朝と見做されている。この王朝は、872年にハフルスフィヨルドの戦いで最後に抵抗する諸王を破り、Haraldr hinn hárfagri (ハーラル金髪王ないし美髪王)として知られている初代ノルウェー国王 ( "ノルウェーにて"対立する者として) ハーラル1世によって創始された。
伝統的な解釈によると、ハーラル1世没後、その最初の統一ノルウェー王国は彼の男系子孫によって継承された。このことは13世紀に成文化された。他のスカンディナヴィアの君主国やアングロ=サクソン朝イングランドとは異なり、ノルウェーは選挙的な君主制ではなかった。
しかしながら、ハーラル1世没後の最初の100年間は、王国は事実上、王ではなくノルウェー北部から来たラーデのヤール(侯) (古ノルド語: Hlaðir)の1人に支配されていた時代が幾つか存在した。最初の時代は、ハーコン・シグルザルソン (Hákon Sigurðarson 'ヤルル・ハーコン'とよく呼ばれている)統治下の975年頃から995年頃までである。 また、ハーラル1世の王国が統一ノルウェーの中核であったにも係わらず、それは未だに小さく、権力の中心は南部のヴェストフォルであった。その上、ハーラル1世が死ぬとその息子達の間で王国は分割された。 何人かの歴史家は、君主による支配権は事実上、ノルウェー全土に及んでいたことを強調して、1015年から統治を行ったオーラヴ2世 (オーラヴ強王、後に聖オーラヴとなる)が最初にノルウェー全土を支配した王であると断言する。オーラヴ2世は概して強制的にノルウェーを最終的にキリスト教に改宗させて後にRex Perpetuum Norvegiæ (ラテン語: 永遠なるノルウェー王)として崇拝された[2][3]。幾つかの地区は、ハーラル3世 (ハーラル苛烈王、在位:1046年 – 1066年)以前は、ホールファグレ朝の支配下には事実上おかれてはいなかった 。それ故に、これらのいずれもがノルウェーの更なる統一と見做されうる。加えて、ハーコン・シグルザルソンを含む何人かの君主は名目上、もしくは事実上、デンマーク国王の封臣であった。
マグヌス4世 (マグヌス盲目王、在位:1130年– 1135年及び1137年– 1139年)までの後代の国王がハーラル3世の子孫( ' シュル朝')であることには異存がない。しかしながら、現代、多くの学者はハーラル3世が本当にハーラル1世の子孫であったこのか (例えば、ハルフダンはシグル・シュルの父と同一人物なのか[4]、あるいはハーラル1世がスノーフリードと呼ばれたサーミ人の少女との間に シグル・リースをもうけたのかという問題[5])、そしてハーラル3世自身が実際にそのような主張をしたのか、この家系は 12世紀に創作されたのではないかと疑っている。スヴェレ・シグルツソンのシグル2世 の息子であるという主張もまた大概、偽造であると見做されており、インゲ2世 (Inge Bårdsson)が王朝最後の国王ということになる。
現在、学者達は、ホールファグレ王朝は少なくとも部分的には中世における改竄上の産物であると見做している[6][7]。 その動機の一つに、支配者達に王国の創始者に遡る明確な王家の祖先を与えることによってその正当性を高めることが考えうる。その他の動機には、王家に血筋を繋げることによって、その他の人々に由緒正しい血筋を供給することがあった。王家の末裔の異伝はアイスランドのスカルド及び歴史家による幾つかの作品に伝わっており、その内の幾つかは現在失われたフヴィンのシヨドルヴによる『ユングリンガ・タル 』、セームンドル・シグフースソンの失われた作品の内容が伝わる『 ノルウェー王の一覧 』、及びスノッリ・ストゥルルソンによる最長編のサガで今では失われたアリ・ソルギルスソンの『 アイスランド人の書 』の内容を伝える『ヘイムスクリングラ 』 に依拠している。これらの相違は幾つかの点で考慮が入れられる。en:Joan Turville-Petreは上記の伝承を精査して 、その本来の目的を即位紀元の年代の枠組みを確立させてアイスランドの首長に結び付けることにあり[8]、そして王朝のヴェストフォル起源は巧みに改変されてアイスランドの伝承に合わせる形でシールディング一族よりもスウェーデン人のユングリング家に結び付けられたと論じた[9]。 Claus Kragは重要な動機としてオスロ周辺地域である ヴィーキンに対する世襲の請求権の確立にあると論じた。何故ならば同地域はデンマーク国王に税金を払ってきたからである[10]。
Turville-Petreは「ハーラル3世の祖先の決定的な再編は恐らくその200年後にアイスランド人によって行われた」と述べる。即ち、ハルフダン黒王を王朝の始祖とし、ハーラル1世からオーラヴ1世・トリグヴァソン、オーラヴ2世そしてハーラル3世に至る3つの王家の分家をこじつけたとする[11]。
ハーラル3世の父親が正真正銘のハーラル1世の多少不明瞭なところがある年少息子の男系子孫なのか[12] 、そしてその他謎の多いオーラヴ2世とは本当に男系で繋がりはあるのかという疑念は特に歴史学者の間で取り上げられてきた。オーラヴ2世とハーラル3世の王位請求は系譜の改竄によって高められたと主張されている。何故ならば両人はオースタ・グッドブランドスダッタールを同じ母親とするものの、伝統的なゲルマン人の法の観点からすると母親の子孫であることは重要な意味をなさないからである。
今日の批判的な観点からすると、930年から1030年の間にかけて、ホールファグレ朝による王の統治は僅かに3世代40年間続いた。恐らくは12世紀の改変によってホールファグレ朝に繋げたであろうオーラヴ1世とオーラヴ2世の一族は18年間統治し、それに続いてハーラル3世が新王朝を創始した。ホールファグレ朝を称する王朝には概して、ハーラル1世、オーラヴ1世、オーラヴ2世、ハーラル3世、マグヌス5世、スヴェレ以下の6つの王朝が含まれている[13]。
王朝の人物とその末裔たち
[編集]後に聖人に列せられたオーラヴ2世を継承したハーラル3世もまた聖オーラヴ朝の一員として見做されている。
問題点
[編集]ホールファグレ朝と呼ばれる中世の王統に関する問題点(要は系図上では断絶があるのではないかということ)は以下の通りである[13]。
- オーラヴ1世ないしオーラヴ2世はハーラル1世 (ハーラル・ホールファグレ)の子孫なのか?
- ハーラル3世はハーラル1世の子孫なのか?
- ハーラル4世はマグヌス3世の息子なのか?
- スヴェレはシグル2世の息子なのか?
- ホーコン4世はホーコン3世の息子なのか?
いずれも❝出自不明❞であり、特に、王冠を勝ち取った最後の3人は隠された王の私生児であると主張していた。オーラヴ1世はハーラル1世の男系子孫、即ちその息子を名乗るヴィーカのオーラヴの孫であると主張したことが歴史的に知られている。同じくオーラヴ2世もまたハーラル1世の男系子孫、即ちその息子を名乗るヴェストフォルのビョルンの玄孫を主張したことが知られている。それとは反対の資料ではノルウェーのヴィーカとヴェストフォルはハーラル1世の領域ではなくデンマークに従属していたと主張する。これら2つの主張の信憑性は、アイスランドの報告、特にヘイムスクリンガラ並びにそれらを編纂した資料が信頼に足りるか次第である。
ハーラル3世がオーラヴ2世の唯一の肉親かつ異父弟であるとの言及は歴史的に裏付けが取られており、その父親もまた同じくハーラル1世の子孫を名乗ったことが言及されている(ハーラル1世の子孫であることは幾つかの疑問の余地があるが)。ハーラル3世の子孫による王宮の後援のもとでサガが著されるようになる遥か後代の伝説では、ハーラル3世の父親もまたハーラル1世の息子を名乗るシグル・リースを介してその子孫であると主張している。歴史的資料からするとハーラル3世がハーラル1世の子孫であるという主張は、同時代に良く知られていたオーラヴ1世並びにオーラヴ2世による主張(これは同時代に広く知られており、僅か1世紀で作られたものでも、あるいはハーラル3世の場合よりも遅くは作られたのではなかった)よりも遥か後代が最初である。
このようにしてハーラル3世はホールファグレ朝の推定上の分枝である「シュル朝」を開いた。同王朝はハーラル3世の異父兄であるオーラヴ聖王に敬意を込めて「聖オーラヴ朝」として知られるようになった。
ハーラル4世は、祖国アイルランドからノルウェーに来て、自身をマグヌス3世がその治世後期に同国へ遠征を行った際に儲けた私生児であると主張した。その主張は、ハーラル4世が若い頃にアイルランド人の母親並びに周囲の親族が語った言い伝えに基づく歴史的資料から見受けられる。
このようにして、ハーラル4世は、自称古の王朝の推定上の分枝である「ギーレないしグーレ(アイルランド)朝」を創始した。
王の自称息子で最も疑わしく、現代の多くの学者[要出典] によって実際のところは僭称者と見做されているのが祖国フェロー諸島からノルウェーに来て同国の内戦中に後継者不在で困難な状況に陥った「白樺の脚」の主導権を握ってシグル2世の私生児(生母であるグンヒルドの証言による)を主張したスヴェレ・シグルツソンである。スヴェレはその母親がコンブマーカーのウナスという別の男性と結婚している時に生まれた。大人になった時に初めて王の落胤を主張した、即ち伝説によると母親がスヴェレに“本当の伴侶”を語ったとのことである。歴史上の資料ではその話に信頼に足りうるものはどこにも見受けられない。内戦中、闘争はあまりにも苛烈さを増したことから系図上の正当性は親族の概念を高めるに至った。多くの王位請求者たちはシグル2世の息子であると主張し、その殆どが政治的な地位にあるものであり、主張は最も疑わしい。王位請求者はシグル2世とその一派の意義のある政策を続けていくのが望ましく、そのことは彼の”息子”であることに意義があるというのが実情であろう。 このようにしてスヴェレは、自称古の王朝の推定上の分枝である「スヴェレ(フェロー)朝」を創始した。スヴェレ家は非ノルウェーのコンテクストでも言及されている。例えば同家の王女マルグレーテはスコットランドの王冠を継承した。
ホーコン4世は、ホーコン3世の没後にノルウェー人貴族の女性から産まれた。彼女と後の王の身内は、ホーコン4世の母親はホーコン3世の愛人であり、それで出来た子であると公言した。以上述べたホールファグレ朝に関する4つの問題点の中で、一見見たところ、最後の記述が最も信憑性が高い。
このようにして、新王朝とは考えられないホーコン4世は一般的には「スヴェレ(フェロー)朝」の継続と見做されている。ただし、スヴェレ朝自体がホールファグレ朝の分家としては不明瞭な位置付けにある。
歴代君主一覧
[編集]本来のホールファグレ朝:
- ハーラル1世ホールファグレ(美髪ないし金髪王)(Harald Hårfagre : 890年頃 - 930年頃)
- エイリーク1世血斧王(Eirik Blodøks : 930年頃 - 934年)
- ホーコン1世善王(Håkon den Gode : 934年 - 961年)
- ハーラル2世灰衣王(Harald Gråfell : 961年 - 976年)
ヴィーガ系:
- オーラヴ1世トリグヴァソン(995年 - 1000年)
ヴェストフォルド系、聖オーラヴ朝の開始:
- 聖オーラヴ2世ハラルズソン(Olav Digre / Sankt Olav / Olav den Hellige : 1015年 - 1028年)
- マグヌス1世善王(Magnus den Gode : 1035年 - 1047年)
シュル朝:
- ハーラル3世苛烈王(Harald Hardråde : 1046年 - 1066年)
- マグヌス2世(1066年 - 1069年)
- オーラヴ3世平和(平静)王(Olav Kyrre : 1066年 - 1093年)
- ホーコン・マグヌソン(1093年 - 1094年)
- マグヌス3世裸足王(Magnus Berrføtt : 1093年 - 1103年)
- オーラヴ・マグヌソン(1103年 - 1115年)
- エイステイン1世(Øystein Magnusson : 1103年 - 1123年)
- シグル1世十字軍王(Sigurd Jorsalfare : 1103年 - 1130年)
- マグヌス4世盲目王(Magnus Blinde : 1130年 - 1135年)
- シグル狂気王(1135年 - 1139年、対立王)
- マグヌス5世エーリングソン(1161年 - 1184年)
- オーラヴ・ウゲーヴァ(1166年 - 1169年、対立王)
- シグル・マグヌソン(1193年 - 1194年、対立王)
- インゲ・マグヌソン(1196年 - 1202年、対立王)
- エーリング・ステインベグ(1204年 - 1207年、対立王)
ギーレ朝:
- ハーラル4世ギーレ(1130年 - 1136年)
- シグル2世(1136年 - 1155年)
- エイステイン2世ハーラルソン(Øystein Haraldsson : 1142年 - 1157年)
- インゲ1世(Inge Krokrygg : 1136年 - 1161年)
- ホーコン2(Håkon Herdebreid : 1157年 - 1162年)
- シグル・マルクスフォスター(1162年 - 1163年、対立王)
- エイステイン・メイヤー(Øystein Møyla : 1174年 - 1177年、対立王)
- ヨハン・クヴルング(1185年 - 1188年、対立王)
- インゲ2世ボールソン(Inge Bårdsson : 1204年 - 1217年)
フィリップス・シモンソンとスクル・バルドソンをホールファグレ朝の系統に安易に位置付けることは出来ない。両人のホールファグレ朝の初期王との関係はその異兄弟であった。
スヴェレ朝:
- スヴェレ・シグルツソン(Sverre Sigurdsson : 1177年 - 1202年)
- ホーコン3世スヴェレソン(Håkon Sverreson : 1202年 - 1204年)
- グットルム・シグルツソン(1204年)
スヴェレ朝庶流:
- ホーコン4世ホーコンソン老王(Håkon IV Håkonsson : 1217年 - 1263年)
- ホーコン・ホーコンソン若王と共同統治
- マグヌス6世ホーコンソン改法王(Magnus Lagabøte : 1263年 - 1280年)
- エイリーク2世マグヌソン(1280年 - 1299年)
- ホーコン5世マグヌソン(1299年 - 1319年)
末裔たち
[編集]ホールファグレ朝に関する中世の報告の信憑性の疑わしさは当然のことながら、上記の王たちは"自称王子"と比較してその他良く知られた子孫を残したのかという疑問に導かれる。以下に挙げるのは、裏付けの取れるホールファグレ朝の”分家”の王の系統である。
- マグヌス3世の娘であるラグンヒルを介した系統が存在しているのは明らかであり、この系統はスウェーデンのエリク朝を介して子孫を残している。中世の資料によるところのラグンヒルの子孫であるスウェーデン王マグヌス4世は1319年にノルウェー王位につき、カール1世、カール3世ヨハン、オスカル1世を除く以後の全ての王も同様に彼女の血を引いている。
- スヴェレがシグル2世の息子でない場合、ハーラル4世は、ビェルボ家のビルイェル・ブロサと結婚した娘ブリギダ・ハーラルスダッテルを介してスカンディナヴィアの貴族に、さらにそこを介して現在のヨーロッパの王室に子孫を残していることが記録されている。上記のカール1世やスウェーデン王グスタフ1世もブリギダの子孫のようである。
- スヴェレ朝の血脈は、父親が完全に明白でないホーコン4世を介して現在まで続いている。ホーコン4世は、初期ノルウェーの小王の子孫で大貴族出身のマルグレーテ・スクーラドッティルと結婚して、その間に儲けた子供たちも同じく上記の者たちの祖先として血脈を伝えている。カール1世、カール3世ヨハン、オスカル1世を除くホーコン4世以降の全ての王がその血を引いている。
- 中世の資料によると、オーラヴ2世に関しては、庶出の孫娘を介したオークニー伯の系統と唯一の正嫡の娘であるウルヴヒルを介したザクセン大公の系統の2つの系統の子孫が残っている。エイリーク2世はオーラヴ2世の血を引く最初のノルウェー王であり、カール1世、カール3世ヨハン、オスカル1世を除く以降の全ての王もまたその血を引いている。
系図
[編集]ハルフダン黒王 ヴェストフォルの王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハーラル1世美髪王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エイリーク1世血斧王 | ビョルン | シグル | オーラヴ | ホーコン1世善王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハーラル2世灰衣王 | グーロッド | ハルフダン | トリグヴァ | トーラ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハーラル・グレンスケ | オースタ | シグル・シュル | ベルグリョート | フィン・アルネッソン | オーラヴ1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アストリッド (スウェーデン王オーロフ娘) | オーラヴ2世聖王 | ハーラル3世苛烈王 | イーンガボーグ 1=オークニー伯トールフィン 2=マルカム3世 | スヴェン2世 デンマーク王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ウルヴヒル =ザクセン公オルドルフ | マグヌス1世善王 | マグヌス2世 | オーラヴ3世平和王 | イングリズ | インゲ1世 スウェーデン王 | スヴェン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ビルング家 | ホーコン・マグヌソン | マグヌス3世裸足王 | マルガレータ | ラグンヴァルド | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エイステイン1世 | シグル1世 | マリムフリダ (キエフ大公ムスチスラフ1世娘) | オーラヴ・マグヌソン | ラグンヒル =デンマーク王子ハーラル(エーリク1世子) | ハーラル4世 | イングリッド | ヘンリク (デンマーク王スヴェン2世孫) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クリスティン (デンマーク王子クヌーズ・レーヴァート娘) | マグヌス4世盲目王 | クリスティン | エーリング・スカッケ | エイステイン2世 | シグル2世 | マグヌス | ブリギダ 1=スウェーデン王マグヌス2世 2=ビルイェル・ブローサ | インゲ1世 | マグヌス2世 スウェーデン王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マグヌス5世 | ホーコン2世 | エストリッド | スヴェレ | マルグレーテ (スウェーデン王エリク9世娘) | セシリア | ボール | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
シグル | ホーコン3世 | インゲボー =カール(スウェーデン王スヴェルケル2世子) | エーリング | インゲ2世 | スクーレ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
グットルム | ホーコン4世 | マルグレーテ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
リクサ (ビルイェル・ヤール娘) | ホーコン | クリスティーナ =フェリペ (カスティリア王フェルナンド3世子) | マグヌス6世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マーガレット (スコットランド王アレグザンダー3世娘) | エイリーク2世 | イザベル (スコットランド王ロバート1世妹) | マグヌス3世 スウェーデン王 | ホーコン5世 | ユーフェミア (リューゲン公ヴィツラフ2世娘) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マーガレット スコットランド女王 | インゲボルグ | ヴァルデマール フィンランド公 | エリク セーデルマンランド公 | インゲビョルグ | クヌーズ・ポルセ ハッランド公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フォルクング家(スウェーデン・ノルウェー王家) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ “Harald Hårfagre”. Store norske leksikon AS. 22 January 2014閲覧。
- ^ Arno Borst, Medieval Worlds : Barbarians, Heretics, and Artists in the Middle Ages, University of Chicago, 1992, ISBN 0-226-06656-8, p. 132.
- ^ 同時代の『 ノルウェー史』においてこの語句が最初に記録された - no: Knut Helle, The Cambridge History of Scandinavia Volume 1, Prehistory to 1520, Cambridge University Press, 2003, ISBN 0-521-47299-7, p. 379.
- ^ M. Sjöström, "Scandinavian medieval descendants of Charlemagne: A detailed genealogy of the issue of Agnes Haakonsdottir, of the so-called Fairhair dynasty", Foundations - Journal of the Foundation for Medieval Genealogy vol 2 (2007:4, July), pp. 253-276: "It is very likely that the lord Halvdan, father of kinglet Sigurd Syr, was not identical with a possible Halvdan in Hadafylke, grandson of king Harald".
- ^ Helle, p. 191.
- ^ Helle, p. 185.
- ^ Birgit and Peter Sawyer, Medieval Scandinavia: from Conversion to Reformation, circa 800-1500, Minneapolis: University of Minnesota Press, 1993, ISBN 0-8166-1738-4, p. 61.
- ^ Joan Turville-Petre, "The Genealogist and History: Ari to Snorri", Saga-Book 20 (1978-81), pp. 7-23 (pdf), especially pp. 8, 10: "The numbers suggest that this was a professional genealogical document, made up in sets of ten generations".
- ^ Turville-Petre, pp. 14: "According to Ynglingatal, the first five members were all buried in Vestfold; which implies that this was the centre of their power. Yet Ari entitles the first member Upplendingakonungr. In Icelandic historical tradition the emphasis is on the mountain regions"; 15: "The Skjǫldungs were not in question . . . ; the Ynglings of Sweden were chosen".
- ^ Claus Krag, Ynglingatal og Ynglingasaga: en studie i historiske kilder, Oslo: Universitetsforlaget 1991, OCLC 256562288, pp. 231, 243
- ^ Turville-Petre, p. 15
- ^ 例えばSjöströmは、「シグルド・シュルをハーラル1世金髪(美髪)王の男系子孫とすることはとても不明瞭であり、後世、可能性としては12世紀におけるシュル朝の正当性の主張を高めるための創作の要素が濃い」として後世の捏造の痕跡と見做している
- ^ a b Jo Rune Ugulen, "Kongar i dei norske ættetavlene" Archived 2007年2月28日, at the Wayback Machine. (Kings in the Norwegian genealogies), Norsk Slektshistorisk Forening 1999/2000, reprinted from Genealogen 99.1, pp. 20-23
参考文献
[編集]- en:Claus Krag. Norges historie fram til 1319. Oslo: Universitetsforlage, 2000. ISBN 978-82-00-12938-7
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Lars Løberg, "Norwegian Kings and Vikings: Do They Belong in Your Family Tree?", Presented at Scandinavian Area Genealogical Societies, 27 February 1991 (PDF)