コンテンツにスキップ

人工呼吸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
人工呼吸
治療法
集中治療室人工呼吸器に接続されている患者
診療科 集中治療医学救急医学麻酔科学呼吸器学
テンプレートを表示

人工呼吸(じんこうこきゅう、: Artificial ventilation or Artificial respiration)とは、外呼吸ないしは内呼吸による体内のガス交換全般を指す代謝過程である呼吸英語版を補助または刺激する手段である[1][2]呼吸をしていない人や十分な呼吸ができない人に手動で空気を供給する形をとることもあれば(用手換気[3]全身麻酔による手術中や昏睡状態、重症外傷英語版などで自力で呼吸できない人に対して、人工呼吸器を使ってに空気を出し入れする形をとることもある(機械換気)。

方式

[編集]

用手換気

[編集]
口対口人工呼吸英語版

肺換気外呼吸)は、救助者が患者の肺に息を吹き込む(口対口人工呼吸英語版)か、器具を使用して肺を手動で送気する(バッグバルブマスク換気)ことによって達成される。この送気法は、シルベスター法[4](後述)など患者の胸や腕を外的に操作する方法よりも効果的であることが証明されている[5]

口対口人工呼吸は、心肺蘇生法(CPR)の一部でもあり[6][7]応急処置に不可欠なスキルとなっている。また、溺水オピオイド過剰摂取など、状況によっては口対口人工呼吸を単独で(胸骨圧迫を伴わずに)行うこともある。バッグバルブマスクベローズ(呼吸回路の蛇腹様部分)の圧搾による用手換気医師看護師救急隊員などの医療従事者によって行われる。

総務省消防庁のガイドラインによれば「心肺蘇生法においては、胸骨圧迫をまず行う」。その後、「救助者が人工呼吸の訓練を受けており、それを行う技術と意思がある場合」は気道確保し、呼吸の補助方法である人工呼吸も行う」ことと記述されている[8][9]血液や嘔吐物などにより感染の危険がある場合、人工呼吸を行わず、胸骨圧迫を続ける[10]。人工呼吸用マウスピース等を使用しなくても感染危険は極めて低いといわれているが、感染防止の観点から、人工呼吸用マウスピース・マスク等を使用したほうがより安全とされている[10]

機械換気

[編集]

機械換気とは、自発呼吸を機械的に補助または代替する方法である[11]人工呼吸器と呼ばれる機械を使用する。機械的換気は、口(気管チューブなど)や皮膚(気管切開など)を経由する器具を伴う場合、「侵襲的」と呼ばれる[12]。機械換気には、空気(または別の混合ガス)を気管に押し込む陽圧換気と、空気がつまるところ肺に吸い込まれる陰圧換気英語版があり、この2種類の人工呼吸器のモードに大別される。

気管挿管は、短期間の機械換気によく行われる。鼻(経鼻挿管)または口(経口挿管)からチューブを挿入し、気管内に進める。ほとんどの場合、空気漏れ(リーク)や誤嚥を防ぐために、膨張式カフを備えたチューブが使用される。カフ付きチューブによる挿管は、誤嚥を最も防ぐことができると考えられている。

気管チューブは、どうしても痛みや咳を伴うものである(侵襲という)。したがって、患者が意識不明、または他の理由で麻酔されていない限り、通常、チューブに耐えられるように鎮静剤が投与される[13]。気管挿管の合併症として、上咽頭や中咽頭の粘膜の損傷[14]、声門下狭窄[15]などがある。

緊急時には、輪状甲状靭帯英語版を外科的に切開して気道確保を行う輪状甲状靱帯切開が行われることもある。これは気管切開と似ているが、輪状甲状靭帯切開は緊急時にのみ行われる。これは通常、咽頭が完全に閉塞しているか、顎顔面に大きな損傷があり、他の補助器具が使用できない場合にのみ行われる[16]

神経刺激法

[編集]

横隔膜ペーシング英語版とは、横隔膜を規則的に神経刺激英語版することである[17][18]。歴史的には、体内に埋め込まれた受信機ないしは電極による横隔神経への電気刺激によって達成されてきたが[19]、今日では横隔膜に経皮的英語版ワイヤーを取り付けるという選択肢も存在する[20]

歴史

[編集]

古代以前

[編集]

ギリシャの医師ガレノスが、人工呼吸について初めて述べたと思われる:「死んだ動物を手に取り、を通して喉頭から空気を吹き込めば、その気管支を満たし、その肺が最も大きく膨らむのを見ることができる」[21]ヴェサリウスも葦や茎を動物の気管に挿入して換気することを記述している[22]

近代

[編集]

1773年、イギリスの医師ウィリアム・ホーズ英語版(1736-1808)は、外見上は溺死したように見える人々を蘇生させる人工呼吸の威力を公表し始めた。彼は、水に浸かってから適当な時間内に救出された遺体を持参した者には、1年間身銭を切って報酬を支払った。1767年に水難事故防止協会が設立されたアムステルダムに滞在し、同じテーマに関心を持ったイギリス人医師トーマス・コーガン英語版も、ホーズの活動に参加した。1774年の夏、ホーズとコーガンはそれぞれ15人の友人を連れて、セント・ポール大聖堂のチャプター・コーヒーハウスで会合を開き、応急処置蘇生のための運動団体として王立人道協会(Royal Humane Society)英語版を設立した[23][24]。その後、衛生的・効率的に肺に空気を送り込む器具の開発や方法の模索が行われた。当時の蘇生方法と器具は今日使われている方法に似ているものもあった。例えば、犠牲者の鼻孔に木管を入れて肺に空気を送り込むというものがあった。また、肛門からタバコの煙を吹き込み、腸の中に残っている生命を蘇らせるための柔軟な管を持つ蛇腹もあったが、呼吸の解明が進むにつれて廃止された[25]

陽圧換気の否定

[編集]

1856年のイギリスの医師で生理学者マーシャル・ホール英語版の著作では、いかなる種類の蛇腹/陽圧換気も使用しないことが推奨されており、この見解は数十年にわたって支持された[26]。1858年に登場した外部からの徒手操作の一般的な方法は、ヘンリー・ロバート・シルベスターが考案した「シルベスター法」で、患者を仰向きに寝かせて腕を頭上に上げて吸気を助け、次に胸部に押しつけて呼気を促すという方法だった。もう一つの手技である「伏臥位圧迫法」は、1903年にエドワード・シェイファー(Edward Sharpey Schafer)英語版卿によって紹介された[27]。これは患者をうつ伏せにして、肋骨の下部を圧迫するものである。この方法は、赤十字や同様の救急マニュアルで何十年にもわたって教えられてきた人工呼吸の標準的な方法であり[28]、20世紀半ばに口対口人工呼吸英語版が普及するまで続いた[29]

徒手操作の欠点から、1880年代の医師たちは、改良方法として用手換気を考案した。例えば、気管切開に空気を通すための蛇腹(ベローズ)と呼吸弁からなるジョージ・フェル博士英語版の「フェル法」または「フェル・モーター」[30]がある。彼はジョセフ・オドワイヤー英語版博士と共同で、患者の気管にチューブを挿入・抜去するための器具と蛇腹より成るフェル・オドワイヤー装置も発明した[31][32]。しかし、こうした方法はまだ有害とみなされ、長年採用されることはなかった。

米国のポリオ患者が1950年代から2003年まで使用した鉄の肺(iron lung)。

陰圧換気の時代

[編集]

1930年代、首から下の全身を機械の中に入れ、その機械の中を陰圧(大気圧未満)として胸腔空気が吸入されるようにするという「鉄の肺」が開発された[33]。しかし、これは大掛かりな設備であり、治療を受けられる患者の数は限られていた。

ポリオの大流行と陽圧換気の再評価

[編集]

長期人工呼吸の「出発」とも言えるのは、1952年のコペンハーゲンにおける急性灰白髄炎(ポリオ)の大流行による、小児麻痺への対応である。呼吸筋を動かす中心である脊髄前角が、ポリオウイルスによって冒されたため、子供たちは充分な呼吸ができず、次々と亡くなっていった[34]

これに対し、当時最も効果的な治療法であった「鉄の肺」は患者数に対して絶対的に不足していたため、やむを得ず気管切開を行い[注釈 1]麻酔器を用いて用手換気による人工呼吸を行うしかなかった。すると、鉄の肺を用いての呼吸管理は約80%の死亡率であったのに対し、麻酔器を用いて人工呼吸処置を受けた患者は約75%が救命された。しかしながら、莫大なマンパワーが必要で、この間、医学部の授業は中断され、当地の医学部の学生1400人が用手換気に駆り出された[34][36][37]。この時期以降、現代の人工呼吸器の主流である、陽圧式の機械式の人工呼吸器の開発が急速に進められていった[38][39][37]

以後の歴史については人工呼吸器の歴史を参照。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 小児への気管切開は、合併症のリスクと管理の難しさから現在でも適応に慎重な判断が求められる[35]。当時は、医療者には相当な葛藤があったと考えられる。

出典

[編集]
  1. ^ medilexicon.com, Definition: 'Artificial Ventilation'”. 2016年4月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月30日閲覧。
  2. ^ Tortora, Gerard J; Derrickson, Bryan (2006). Principles of Anatomy and Physiology. John Wiley & Sons Inc. 
  3. ^ Artificial Respiration”. Encyclopædia Britannica. 14 June 2007時点のオリジナルよりアーカイブ2007年6月15日閲覧。
  4. ^ 湯口, 聡、森沢, 知之、福田, 真人、指方, 梢、増田, 幸泰、鈴木, あかね、合田, 尚弘、佐々木, 秀明 ほか「深呼吸方式の違いによる換気量の変化」『理学療法学』2004 Supplement、2005年、D0672–D0672、doi:10.14900/cjpt.2004.0.D0672.0 
  5. ^ Artificial Respiration”. Microsoft Encarta Online Encyclopedia 2007. 2009年10月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年6月15日閲覧。
  6. ^ Decisions about cardiopulmonary resuscitation model information leafler”. British Medical Association (July 2002). 2007年7月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年6月15日閲覧。
  7. ^ Overview of CPR”. American Heart Association (2005年). 27 June 2007時点のオリジナルよりアーカイブ2007年6月15日閲覧。
  8. ^ 人工呼吸、省略OK? 変わる心肺蘇生法 京都市消防局が救命講習(産経West 掲載日:2015.4.4。参照日:2018.6.18.)
  9. ^ 救急蘇生法の指針2015(市民用)(総務省消防庁)
  10. ^ a b 倒れている人をみたら(東京消防庁)
  11. ^ What Is a Ventilator? - NHLBI, NIH”. www.nhlbi.nih.gov. 2016年3月27日閲覧。
  12. ^ GN-13: Guidance on the Risk Classification of General Medical Devices Archived May 29, 2014, at the Wayback Machine., Revision 1.1. From シンガポール保健科学庁(Health Sciences Authority)英語版. May 2014
  13. ^ 日本集中治療医学会j-Padガイドライン作成委員会 (2014). “日本版・集中治療室における成人重症患者に対する痛み・不穏・せん妄管理のための臨床ガイドライン”. 日本集中治療医学会雑誌 21 (5): 539–579. doi:10.3918/jsicm.21.539. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsicm/21/5/21_539/_article/-char/ja/. 
  14. ^ 気管挿管 - 21. 救命医療”. MSDマニュアル プロフェッショナル版. 2023年6月20日閲覧。
  15. ^ D’Andrilli, Antonio; Venuta, Federico; Rendina, Erino Angelo (2016-3). “Subglottic tracheal stenosis”. Journal of Thoracic Disease 8 (Suppl 2): S140–S147. doi:10.3978/j.issn.2072-1439.2016.02.03. ISSN 2072-1439. PMC 4775266. PMID 26981264. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4775266/. 
  16. ^ “Rapid sequence induction in the emergency department: a strategy for failure”. Emergency Medicine Journal 19 (2): 109–113. (March 2002). doi:10.1136/emj.19.2.109. PMC 1725832. PMID 11904254. http://emj.bmjjournals.com/cgi/content/full/19/2/109 2007年5月19日閲覧。. 
  17. ^ Bhimji, S. (16 December 2015). Mosenifar, Z.: “Overview - Indications and Contraindications”. Medscape - Diaphragm Pacing. WebMD LLC. 19 February 2016閲覧。
  18. ^ Khanna, V.K. (2015). “Chapter 19: Diaphragmatic/Phrenic Nerve Stimulation”. Implantable Medical Electronics: Prosthetics, Drug Delivery, and Health Monitoring. Springer International Publishing AG Switzerland. pp. 453. ISBN 9783319254487. https://books.google.com/books?id=lLEvCwAAQBAJ&pg=PA359 19 February 2016閲覧。 
  19. ^ Chen, M.L.; Tablizo, M.A.; Kun, S.; Keens, T.G. (2005). “Diaphragm pacers as a treatment for congenital central hypoventilation syndrome”. Expert Review of Medical Devices 2 (5): 577–585. doi:10.1586/17434440.2.5.577. PMID 16293069. https://zenodo.org/record/894537. 
  20. ^ Use and Care of the NeuRx Diaphragm Pacing System”. Synapse Biomedical, Inc. 19 February 2016閲覧。
  21. ^ Colice, Gene L (2006). “Historical Perspective on the Development of Mechanical Ventilation”. In Martin J Tobin. Principles & Practice of Mechanical Ventilation (2 ed.). New York: McGraw-Hill. ISBN 978-0-07-144767-6 
  22. ^ Chamberlain D (2003). “Never quite there: a tale of resuscitation medicine”. Clin Med 3 (6): 573–7. doi:10.7861/clinmedicine.3-6-573. PMC 4952587. PMID 14703040. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4952587/. 
  23. ^  この記述にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Humane Society, Royal". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 13 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 871–872.
  24. ^ New Scientist, Vol. 193 No. 2586 (13–19 Jan 2007), p. 50
  25. ^ A Watery Grave- Discovering Resuscitation, exhibits.hsl.virginia.edu”. exhibits.hsl.virginia.edu. 2017年1月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月30日閲覧。
  26. ^ 19th century pioneers of intensive therapy in North America. Part 1: George Edward Fell, Crit Care Resusc. 2007 Dec;9(4):377-93 abstract
  27. ^ "Sir Edward Albert Sharpey-Schafer". Encyclopaedia Britannica. 2018年8月8日閲覧
  28. ^ American National Red Cross (1933). American Red Cross First Aid Text-Book (Revised). Philadelphia: The Blakiston Company. p. 108 
  29. ^ Nolte, Hans (March 1968). “A New Evaluation of Emergency Methods for Artificial Ventilation”. Acta Anaesthesiologica Scandinavica 12 (s29): 111–25. doi:10.1111/j.1399-6576.1968.tb00729.x. PMID 5674564. 
  30. ^ Angela Keppel, Discovering Buffalo, One Street at a Time, Death by Electrocution on Fell Alley?, buffalostreets.com
  31. ^ STEVEN J. SOMERSON, MICHAEL R. SICILIA, Historical perspectives on the development and use of mechanical ventilation, AANA Journal February 1992/Vol.60/No.1, page 85
  32. ^ 19th century pioneers of intensive therapy in North America. Part 1: George Edward Fell, Crit Care Resusc. 2007 Dec;9(4):377-93 abstract
  33. ^ Geddes, LA (2007). “The history of artificial respiration”. IEEE Engineering in Medicine and Biology Magazine 26 (6): 38–41. doi:10.1109/EMB.2007.907081. PMID 18189086. 
  34. ^ a b 株式会社南山堂発行、TEXT麻酔・蘇生学(第1版発行 1995年2月10日、ISBN 4-525-30841-9)p.336「【臨床実習メモ 161】 鉄の肺と人工呼吸器」より
  35. ^ Harless J, Ramalah R, Bhananker SM. Pediatric airway management. Int J Crit Illn Inj Sci 2014; 4:65–70.
  36. ^ Maxwell, James (1986-03-01). “The Iron Lung: Halfway Technology or Necessary Step?” (英語). The Milbank Quarterly 64 (1): 17. https://www.milbank.org/quarterly/articles/the-iron-lung-halfway-technology-or-necessary-step/. 
  37. ^ a b Mechanical Ventilation: Background, Classifications of Positive-Pressure Ventilators, Indications for Mechanical Ventilation. (2021-07-15). https://emedicine.medscape.com/article/304068-overview. 
  38. ^ “Radcliffe respiration pumps”. The Lancet 270 (6922): 539–41. (April 1956). doi:10.1016/s0140-6736(56)90597-9. PMID 13320798. 
  39. ^ Bellis, Mary. “Forrest Bird invented a fluid control device, respirator & pediatric ventilator”. 2023年3月20日閲覧。

関連文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]

ウィキメディア・コモンズには、人工呼吸に関するカテゴリがあります。